明石元二郎は、日露戦争で活躍したスパイです。ロシアの心臓部に直接攻撃を加えたとも評されるその功績は、世界各国の歴史家からも評価を受けています。
ロシアの情報を入手し、それを日本に流すだけではなく、ロシアという国や軍そのものを揺るがすための工作を仕掛け、ロシアが戦争を続けられなくさせるその積極的なインテリジェンス活動は、その後の日本での諜報教育にも活かされました。
(右から4人目は満洲軍総司令官大山巌)
しかし実は、明石元二郎の功績は、日露戦争における諜報活動だけではありません。フィンランド・ポーランドの独立運動を助け、台湾の近代化に力を尽くし、今に続くこれらの国と日本との親密な外交関係の基盤を作ったのも元二郎でした。
こうした功績の背景には、明石元二郎という人の、ある意味で変人ともいうべきユニークな人柄と、勤勉で責任感の強い、人に寄り添うことのできる柔らかさを兼ね備えた性格があるように感じます。
この記事では、明石元二郎の生涯や功績、面白い逸話を通じて、そんな明石元二郎の本質に迫ってみたいと思います。
明石元二郎とはどんな人物か
名前 | 明石元二郎 |
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誕生日 | 1864(元治元)年8月1日 |
没日 | 1919(大正8)年10月26日 |
生地 | 筑前国福岡藩大名町 (現在の福岡県福岡市中央区大名) |
没地 | 福岡県 |
前妻 | (郡)国子 |
後妻 | (黒田)信子 |
埋葬場所 | 台北市三板橋墓地(現在の林森公園)から 1999年に福音山基督教墓地(新北市三芝区)へ改葬 |
先祖 | 明石正風(黒田官兵衛の祖父) 明石全登(戦国〜江戸時代に活躍したキリシタン武将) |
習得した外国語 | ドイツ語、英語、フランス語、ロシア語 |
明石元二郎の生涯をハイライト
明石元二郎は1864年に福岡で生まれました。貧しいながらも学問に励み、幼い時から才能を認められて上京し、陸軍軍人になるために励みました。世界軍事界の最高峰ともいわれるモルトケに師事していた川上操六のいる参謀本部に配属されたことで、元二郎の人生は転機を迎えます。
川上は元二郎の才能を見抜き、海外の視察へも同行させ、また諜報活動についても教えを授けます。その花が開いたのは1900年以降にヨーロッパ各国の大使館付武官になってからでした。その頃、日本はロシアを仮想敵国とし、諜報活動を必要としていました。有能な元二郎はその役目に抜擢されたのです。
日露戦争勃発前から元二郎は日本に有益なロシアの情報を集め、開戦後はフィンランドやポーランドといった独立を望む反ロシア勢力と協力し、ロシアという国の内部から崩壊させ、日本との戦争をやめざるを得ない状況に追い込みました。このロシアでの活動の様子や、ロシアについての情報は、「落花流水」という本にまとめられています。
その後は韓国で治安維持やインフラ整備などに務めた後、台湾総督となり、様々な分野で台湾の近代化への布石を打ちます。しかし志半ばで病に倒れ、1919年に福岡で息を引き取りました。享年56歳でした。
元二郎の遺言により、亡骸は台湾に送られて埋葬されました。元二郎は今も台湾の地で発展を見守り続けています。
大バカか天才か?幼い頃から常識外れだった元二郎
幼い頃は「鼻たれ」という渾名で呼ばれるほど、常に鼻水を垂らしっ放しだった元二郎は、切れ者とは感じさせない見た目でした。しかし成績は良く、さらには常識の範囲を超えた行動をする子供でもありました。それを示す、周囲の大人を驚かせた有名なエピソードがあります。
県令が小学校へ視察に訪れた際、書道で「精神」と書こうとした元二郎は、余白がなかったのか勢い余ったのか、「神」の字の最後の一画を半紙からはみ出して畳の上まで延ばして書いたというのです。その畳は、県令が視察に来るからと、新しくしたばかりでした。
旧日本生命保険株式会社九州支店ビル
(現在は福岡市赤煉瓦文化館)
「精神」と堂々と書くことが目的であることを考えれば、元二郎からすれば当然のことだったのかもしれませんが、常識的には考えられない話です。また、周りの大人たちの対応にも驚きます。元二郎の行動を叱るばかりか、これは肝が据わった子供だと、県令が養子に欲しいと言ったそうです。元二郎の才能を見抜く目を持った大人が周囲にいたことが、奇跡のようにも思います。
川上操六に仕込まれたインテリジェンス
川上操六
元二郎のその後の活躍の基盤には、「参謀本部の父」とも表される川上操六の手厚い教えがありました。薩摩藩出身の川上操六ですが、出身に関係なく優秀な人材を登用した人で、日清戦争を勝利に導き、インテリジェンスの重要性を示しました。元二郎は川上の海外の視察へも同行しており、その教えを受ける最高の環境にいたのです。
(現在東京都新宿区にある成城中学校・高等学校)
川上は対ロシア戦の作戦を練っている最中、1899年に急逝してしまいます。川上無くして日露戦争ができるのかと不安視する人もいた中で、参謀本部で川上の元にいた「今信玄」とも呼ばれた智将・田村怡与造、そして元二郎たちが表舞台に立ち、ロシアとの戦争に立ち向かっていくのです。
死因はスペイン風邪?
元二郎は台湾総督の任官中、公務で本土へ渡る途中で病にかかり、10月24日に福岡で死去しましたが、実は7月4日発行の台湾の新聞に「インフルエンザに罹患して重体」という記事が出ています。それからは快復と病状悪化を繰り返し、福岡にて帰らぬ人となるのです。
元二郎が酒好きだったことから、死因は脳溢血や肝硬変と考えられていました。しかし近年の研究で、死因はスペイン風邪という説が浮上しています。その理由は、元二郎の台湾総督就任時期が、台湾でのスペイン風邪上陸時期とほぼ一致していること、そしてその急激に悪化する病状が、スペイン風邪の症状に似ているということです。
元二郎は、ゆくゆくは総理大臣を望まれていた人材でした。明確な死因ははっきりしませんが、スペイン風邪が理由だったとすれば、たまたまスペイン風邪が流行した時期に、発展を望んだ台湾に行ったからこそ罹った病であり、運命の皮肉を感じずにはいられません。
明石元二郎の功績
功績1「20万人分の成果を挙げた諜報活動」
明石元二郎といえば、日露戦争における諜報活動を抜きに語ることはできません。参謀次長児玉源太郎は、元二郎にロシア軍の情報収集をさせた結果、ロシアを揺さぶることで戦争継続を断念させることができるという方向にシナリオを書いたと考えられます。
そこで児玉は、元二郎には自由のきく地位も金銭も与え、ロシア反体制派に資金援助をするといった判断権限も与えることで、ロシア政府や王室内部からの崩壊を招くことを期待したのです。元二郎はその期待に見事に応え、ヨーロッパ各地で反乱や騒乱を勃発させます。後に明石の功績は1人で20万人分の戦果を挙げたとさえ言われました。
フィンランドは独立を勝ち取ったと言われています
俗に「明石工作」と呼ばれるこの諜報活動の特筆すべきことは、主目的は日本の国益を守ることでしたが、そこにポーランドやフィンランドの民族独立運動を絡めて、それを実現したことです。元二郎はその革命運動に関わる活動家たちの思いを本心で受け止め、実行しようとした訳で、その元二郎の心意気が活動家たちに伝わっていたからこそ成功したと言えるでしょう。
功績2「ポーランドの独立を助ける」
フィンランドだけではなく、ポーランドも日露戦争と大きな関わりがある国です。当時ロシア支配下にあったポーランドは、独立を期して日本と協力します。元二郎は武装蜂起のための資金提供をし、独立運動を陰で支えました。一方、ロシア軍として徴兵されていたポーランド人は、離反することで日本軍の大きな助けになりました。
ポーランドと日本の親密な関係は、それからも続きます。第一次世界大戦ではポーランドの孤児を日本に受け入れました。その恩返しにと、阪神淡路大震災や東日本大震災の被災児童が、ポーランドに無償で招待されました。費用はポーランド国民の寄付で賄われたそうです。ヨーロッパ随一の親日国と言われるポーランドとの歴史は、日本人としてぜひ知っておきたいものです。
功績3「台湾発展の基礎を築く」
元二郎は台湾総督となり、死去するまでの1年数ヶ月の間に、様々な分野で台湾の近代化への道筋を切り開きました。高雄港の拡充、台湾電力会社の設立、鉄道網の拡張といったインフラの整備に加え、司法制度や教育制度の近代化、山林の育成、農業力強化のための水利事業など、その業績は枚挙にいとまがありません。
元二郎は故郷の福岡で最期を迎えましたが、台湾に埋葬して欲しいと遺言していたので、亡骸は台湾に移送されました。沿道では約10万人が棺を見送ったといわれています。
今は台北市の市民で賑わう公園に、大きな鳥居があります。ここは昔、元二郎も埋葬された三板橋共同墓地と呼ばれていた場所でした。太平洋戦争後に中華民国の兵士たちが住み着き、バラック街と化していたのを、1996年に台北市が公園に整備しました。鳥居は元二郎の墓の前にあったもので、歴史の経緯を知った台湾の人たちによって残されたのです。
明石元二郎の名言
城中夜半聴鶏鳴 蹴枕窓前対月明 想得鴨江営裡景 只看一剣斬長鯨
1904(明治37)年2月5日、日露戦争開戦前夜にロシアで詠んだと言われています。元二郎が対ロシア諜報の手記として残した「落花流水」に載せられているもので、来るべき戦いに向けた元二郎の熱い思いを秘めた胸の内が見えてくるようです。ロシアという大国に一太刀浴びせるのだ、という最後の一行から、元二郎の覚悟を感じます。
スパイ勤務は軍隊を持つ国であれば最も重要な事務に属するが、何分にも方法、手段、経験が少なすぎる。また、洋の東西を問わず、将校にとってこの任務は至難といえる。どうかすれば卑しくも恥ずかしい、後ろめたさがあるなどの理由から、任務を嫌がる傾向にあるのだ。将来においてこうした問題や課題をいかに克服すべきか、今こそ必要であると信ずるものである。
これも「落花流水」の一部です。日本では正々堂々と戦うことが良しとされている国であり、そういう環境でインテリジェンスを仕事にすることの難しさを元二郎は述べています。しかし、情報を握ることが戦争の勝敗を決めるというのは、過去の歴史を見ても明らかです。日露戦争において諜報戦を制した元二郎が述べるからこそ、この言葉は重みを持ったと感じます。
この後はインテリジェンス教育を司った陸軍中野学校でのお手本として扱われました。その代表的なものが真珠湾攻撃でしょう。あの成功は海軍のインテリジェンスによる勝利とも言えます。一方、ミッドウェイ海戦の敗北や山本五十六長官の撃墜事件は暗号が解読されていたために招いたとも言えることから、インテリジェンスの失敗例と言っても過言ではありません。
余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず。
これは元二郎の遺言といわれています。元二郎がどれだけ台湾の発展を願っていたのかがよくわかリますし、同時に、志半ばで斃れてしまうことにどれだけ悔しかったのかとも思わずにはいられません。
台湾が親日国であることはよく知られていますが、ポーランドと同様、明石元二郎という一人の軍人の行動と熱意が、時代を経てもなお日本に恩恵をもたらしてくれていることは、日本人として胸に留めておくべき歴史だと思います。
明石元二郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「見た目には無頓着」
幼い頃から鼻水やよだれを袖で拭く癖があったようですが、歳を重ねてもそれは変わらず、陸軍士官学校時代は「汚れの明石」というあだ名がついていました。サイズが合わない服を着ていることもしばしばあったようですが、欧州駐在時代は仕事をする上で支障がある時は、きちんとした身なりをしていたようです。
明石元二郎という人は、自分をよく見せようという欲はなく、自分の掲げた目的のためだけに行動する人だったのでしょう。山県有朋と話をしている時、元二郎は小便を垂らしながらも話を続け、山県も話を止めずに聞いていたという逸話は有名です。夢中になると形振り構わないこんな人柄だったからこそ、諜報活動でも相手に信用されたのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「ドイツ語を知らないふりして情報を得る」
元二郎には外国語の才能がありました。海外に駐在が決まると、赴任してしばらく休暇を貰い、集中的に語学を勉強してマスターしています。その能力を逆手にとって行った諜報活動のエピソードが有名です。
外交官や駐在武官の集まるパーティで、フランス、ドイツ、ロシアの武官を紹介されます。すると元二郎は、英語はわかるしフランス語も多少わかるが、ロシア語は学習途中でドイツ語はさっぱりわからないと言いました。その言葉を信じたドイツとロシアの武官が自国の言葉で話し出し、元二郎はわからない顔をしながら情報を全て聞き出したのです。
都市伝説・武勇伝3 「諜報費用は100億円以上?!」
日露戦争では児玉源太郎ら参謀本部の判断で、元二郎に諜報費用として100万円が渡されました。現在の価値で約100億円という大金です。当時参謀本部次長を務めていた長岡外史が、元二郎にこんな大金を渡して大丈夫かと心配になったが、結果を見て驚いたと後にコメントしています。
この話には後日談があります。この100万円はロシアの反政府勢力の資金などに使われましたが、残金がありました。本来、元二郎の自由に使わせる金として渡しているので、返金は求められなかったのですが、明細書も添付して27万円の残金を返しているのです。この清廉潔白さがあるからこそ、参謀本部も元二郎にこんな大金を預けられたのかもしれません。
明石元二郎の簡単年表
1864(元治元)年8月1日、元二郎は明石助九郎貞儀(さだのり)の次男として福岡で生まれました。1866年に父が切腹し、そのために幼少期は貧しい生活が続きました。しかし母・秀子は武士としての誇りを大切に育てたので、元二郎も卑屈になることなく、腕白で肝の据わった少年として成長します。藩校修猷館、大名小学校で学問を修めます。
1867年に王政復古の大号令が出され、明治時代に入ります。1874年には自由民権運動の口火を切った民撰議院設立の建白書が出され、時代は立憲国家成立へと動き出します。
元二郎は才能を見込まれ、1876年に上京し儒学者・安井息軒の塾で学び、1877年には陸軍幼年学校に入学します。船酔いが嫌だったので、海軍ではなく陸軍を選んだようです。成績優秀で卒業し、1881年には陸軍士官学校第6期生となります。身嗜みには無頓着で悪戯ばかりしていましたが、成績はトップクラスで、天才と呼ばれていました。
1887年には陸軍大学校第5期生となり、校長の児玉源太郎からは軍政学や編成学を、ドイツ人将校メッケルから戦術論を学びました。
1877年に最大の士族反乱として西南戦争が勃発するも、政府軍に鎮圧されます。1881年には国会開設の勅諭が出され、1889年に大日本帝国憲法が公布され、政府は立憲制の国家の成立に向けて具体的に動き出しました。
1890年には参謀本部に出仕します。宇垣一成や上原勇作、田中義一、福島安正など才能溢れた軍人たちを、参謀次長川上操六が取りまとめていました。元二郎は川上を兄のように慕い、川上もまた元二郎の性格や才能を愛し、教えを授けます。
1894年のドイツ留学、台湾征伐を経て、1896年に参謀本部に復帰しました。その後、川上と共に訪れた台湾やフランス領インドシナ視察、米西戦争下のフィリピンを視察、1900年には北清事変後の清国を訪れ、ロシアの脅威を体感しました。
1890年に第一回衆議院議員総選挙が行われ、初期議会が開かれました。1894年に日清戦争が勃発、欧米は帝国主義に足を踏み入れ始めます。
ロシアの脅威が現実味を帯びる中、1901年にフランス公使館付武官、1902年にはロシア公使館付武官となり、ロシア軍やロシア国民の情報収集作戦が始まります。欧州全土から情報を収集し、様々な手段でロシアの政情不安を画策しました。この活動がロシアの戦争継続を断念させるきっかけともなりました。
ロシアの南下政策に対抗して1902年には日英同盟が締結されます。1904年に日露戦争が勃発し、1905年に講和の証としてポーツマス条約が締結されました。
1907年、明石元二郎は韓国に赴任し、第14憲兵隊長として韓国併合に向けた武断政治を行います。日本の大陸進出の足掛かりといわれた韓国併合ですが、ロシアが朝鮮に勢力を拡大しないようにするための策でもありました。
元二郎は抗日勢力の取り締まりが主な任務でしたが、飲み水の確保など衛生状況の改善や、造林を奨励して伐採しすぎた山に森林を再生したり、道路を引いたりといったインフラ整備も行っています。
1912年、清朝が滅亡し、中華民国臨時政府が成立します。国内では明治天皇が崩御され、大正時代が始まりました。1914年にはサライェヴォ事件が起こり、第一次世界大戦が勃発します。
1918年、第7代台湾総督に任じられ、華南銀行の設立、教育制度改革、水力発電事業や水利工事、鉄道の敷設といった現在の台湾の基礎インフラとなっている事業を行いました。在任中の1919年、病により帰らぬ人となりました。享年56歳でした。
第一次世界大戦の影響で、当時の日本は大戦景気に沸いていました。大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的な風潮が広まった時期です。1918年に第一次世界大戦は終結し、1919年にパリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が締結されました。
明石元二郎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
明石元二郎
明石元二郎について書かれた書籍は数えるほどしかないのですが、その中でも貴重なエピソードが沢山載っているのがこの本です。上下2冊とボリュームもありますが、明石元二郎を知るには一番おすすめです。
最初の出版は1928年と古いのですが、何度か再販されています。しかし残念ながら新刊を書店で見つけるのはかなり難しいです。ただ、古書店には出回っていますし、もしくは国立国会図書館デジタルコレクションに収録されているので、地元の図書館を通じて読むことができます。
明石元二郎大佐
明石元二郎の手記「落花流水」の現代語訳が掲載されています。日露戦争のための史料とはいえ、元二郎がまとめたロシア史は、当時の人が書いたものの中では完璧なものとしての呼び声が高いものです。またロシア国内にいた不平分子についてもかなり詳しく説明されていて、読み物としても面白いです。
文章を読んでいると、文章の構成がわかりやすく、明石元二郎という人が切れ者だったことがよくわかります。
情報戦の敗北
明石元二郎のインテリジェンスを、点ではなく線や面として捉え、太平洋戦争までの情報戦を見つめた本です。今につながる歴史をまとめてあるので、とても興味深い内容でした。
情報を集めるといっても、結局そこには人が介在する訳で、どうしても偏りがあるものにならざるを得ません。さらに、集めてきた情報を元に、意思を決めるのも人です。そこにもどうしてもその人のフィルターがかかってしまいます。要はそれを自覚して私たちは日頃から見聞きし、判断すべきということでしょう。
おすすめの動画
台湾に立つ”謎の鳥居” 〜その背景にある涙の物語〜
明石元二郎の波乱に満ちた生涯をまとめている動画です。コンパクトにまとめてあるので、明石元二郎をほとんど知らない人にもおすすめできます。こんな人が日本人にいたのかと、驚く人も少なくないと思います。
明石元二郎という人は、どんな仕事も適当にやらず、責任を持って取り組む人でした。だからこそ日露戦争でも腹を括ってインテリジェンスを成し遂げることができたのだと思います。逆に台湾の近代化については、在任期間があまりに短すぎてしまったがために、無念の思いが強く、死後は台湾に埋葬するよう遺言したのでしょう。
おすすめの映画
日本海大海戦
1969年公開のこの作品は「東宝8.15シリーズ」と呼ばれる戦争映画の一つです。その中でも日露戦争を描いた異色の映画になりましたが、他のシリーズ作品同様、東郷平八郎を演じた主演の三船敏郎を始め、オールスター・キャストで作られました。
日露戦争を取り上げた作品は他にもありますが、この映画は明石元二郎の扱いが大きいのが特徴的です。明石元二郎役には仲代達矢が抜擢されました。仲代達矢の演技は、得体の知れない雰囲気が醸し出されて、存在感があります。また、円谷英二が特技監督として参加した最後の作品としても知られ、模型特撮が目を惹き、日本映画史上でも欠かせない一作です。
おすすめドラマ
坂の上の雲
歴史小説の大家である司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」を、NHKが2009〜2011年に渡って放送した作品です。明石元二郎を塚本晋也が魅力的に演じていました。第2・3部に登場しています。大作ですが、スタッフ・キャストの熱意がひしひしと伝わってきて、何度でも見返したくなる魅力があるドラマでした。
司馬遼太郎はこの作品で明治という時代の特異性を語っていますが、国に対する純粋な思いがあり、どこか明るいという、司馬遼太郎の言う「明治人気質」を元二郎も備えています。同時代人と元二郎を横並びで比較してみると、元二郎は確かに変わった人ではありましたが、明治時代には受け皿がある「変人」だったと感じます。
ポーツマスの旗
1981年にNHK連続ドラマとして放送された本作は、吉村昭の同名小説を元に作られています。石坂浩二演じる外務大臣小村寿太郎を主人公にしていて、情報の価値に重きを置くというストーリー上、明石元二郎の業績も大きく取り上げられています。
明石元二郎役には原田芳雄がクレジットされていますが、髪が長くてソバージュをかけたようなヘアスタイルで、初めて見たときには度肝を抜かれました。軍人としてはあり得ない髪型ではありますが、原田芳雄の迫真の演技が全てを成り立たせていた気がします。残念ながらDVD化されていませんが、たまにNHKーBSで再放送をしています。
関連外部リンク
- 国立国会図書館
- 防衛研究所WEBサイト / National Institute for Defense Studies, Ministry of Defense
- 外務省史料館
- 公文書に見る日露戦争
- 福岡市の文化財
- 市ヶ谷地区見学(市ヶ谷台ツアー)の御案内
- 坂の上の雲ミュージアム
- 司馬遼太郎記念館
明石元二郎についてのまとめ
明石元二郎という人は、出会いに恵まれた人生だったと感じます。川上操六や児玉源太郎とは上司と部下という関係性を超えて、お互いの人間性に全幅の信頼を置いていたように思います。明石工作の協力者であったフィンランドのシリヤスクも、利害関係を超えた深い友情で結ばれていたらしいエピソードが残っています。
諜報員として優秀だったことは事実です。しかしそれ以上に、人間的魅力に溢れた人であり、とてもウエットな感情の持ち主でもあった気がします。きっとその振り幅の大きさに周囲の人は魅了され、腹を割って話したくなる相手に見えたのでしょう。
明石元二郎は、日本史上で重要な役割をした人物であり、日本人として知っていて欲しい人です。しかしそれだけではなく、歴史という枠を超えて、素敵な生き方をした一人の男の話としても、ぜひ読んで欲しいと思います。