明石元二郎の簡単年表
1864(元治元)年8月1日、元二郎は明石助九郎貞儀(さだのり)の次男として福岡で生まれました。1866年に父が切腹し、そのために幼少期は貧しい生活が続きました。しかし母・秀子は武士としての誇りを大切に育てたので、元二郎も卑屈になることなく、腕白で肝の据わった少年として成長します。藩校修猷館、大名小学校で学問を修めます。
1867年に王政復古の大号令が出され、明治時代に入ります。1874年には自由民権運動の口火を切った民撰議院設立の建白書が出され、時代は立憲国家成立へと動き出します。
元二郎は才能を見込まれ、1876年に上京し儒学者・安井息軒の塾で学び、1877年には陸軍幼年学校に入学します。船酔いが嫌だったので、海軍ではなく陸軍を選んだようです。成績優秀で卒業し、1881年には陸軍士官学校第6期生となります。身嗜みには無頓着で悪戯ばかりしていましたが、成績はトップクラスで、天才と呼ばれていました。
1887年には陸軍大学校第5期生となり、校長の児玉源太郎からは軍政学や編成学を、ドイツ人将校メッケルから戦術論を学びました。
1877年に最大の士族反乱として西南戦争が勃発するも、政府軍に鎮圧されます。1881年には国会開設の勅諭が出され、1889年に大日本帝国憲法が公布され、政府は立憲制の国家の成立に向けて具体的に動き出しました。
1890年には参謀本部に出仕します。宇垣一成や上原勇作、田中義一、福島安正など才能溢れた軍人たちを、参謀次長川上操六が取りまとめていました。元二郎は川上を兄のように慕い、川上もまた元二郎の性格や才能を愛し、教えを授けます。
1894年のドイツ留学、台湾征伐を経て、1896年に参謀本部に復帰しました。その後、川上と共に訪れた台湾やフランス領インドシナ視察、米西戦争下のフィリピンを視察、1900年には北清事変後の清国を訪れ、ロシアの脅威を体感しました。
1890年に第一回衆議院議員総選挙が行われ、初期議会が開かれました。1894年に日清戦争が勃発、欧米は帝国主義に足を踏み入れ始めます。
ロシアの脅威が現実味を帯びる中、1901年にフランス公使館付武官、1902年にはロシア公使館付武官となり、ロシア軍やロシア国民の情報収集作戦が始まります。欧州全土から情報を収集し、様々な手段でロシアの政情不安を画策しました。この活動がロシアの戦争継続を断念させるきっかけともなりました。
ロシアの南下政策に対抗して1902年には日英同盟が締結されます。1904年に日露戦争が勃発し、1905年に講和の証としてポーツマス条約が締結されました。
1907年、明石元二郎は韓国に赴任し、第14憲兵隊長として韓国併合に向けた武断政治を行います。日本の大陸進出の足掛かりといわれた韓国併合ですが、ロシアが朝鮮に勢力を拡大しないようにするための策でもありました。
元二郎は抗日勢力の取り締まりが主な任務でしたが、飲み水の確保など衛生状況の改善や、造林を奨励して伐採しすぎた山に森林を再生したり、道路を引いたりといったインフラ整備も行っています。
1912年、清朝が滅亡し、中華民国臨時政府が成立します。国内では明治天皇が崩御され、大正時代が始まりました。1914年にはサライェヴォ事件が起こり、第一次世界大戦が勃発します。
1918年、第7代台湾総督に任じられ、華南銀行の設立、教育制度改革、水力発電事業や水利工事、鉄道の敷設といった現在の台湾の基礎インフラとなっている事業を行いました。在任中の1919年、病により帰らぬ人となりました。享年56歳でした。
第一次世界大戦の影響で、当時の日本は大戦景気に沸いていました。大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的な風潮が広まった時期です。1918年に第一次世界大戦は終結し、1919年にパリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が締結されました。
明石元二郎さんの貴重な論文ありがとうございます。不安定な国際情勢の中 情報オンチである今の日本にとって非常に大切なことが書かれていました。フェイスブックとツイッターにシェアせていただきました。いっそうのご活躍とご研鑽、ご健康とご多幸をお祈り致します。
倉岡
明石元二郎さんの貴重な論文ありがとうございます。不安定な国際情勢の中 情報オンチである今の日本にとって非常に大切なことが書かれていました。フェイスブックとツイッターにシェアせていただきました。今に日本に必要なこと。