死因はスペイン風邪?
元二郎は台湾総督の任官中、公務で本土へ渡る途中で病にかかり、10月24日に福岡で死去しましたが、実は7月4日発行の台湾の新聞に「インフルエンザに罹患して重体」という記事が出ています。それからは快復と病状悪化を繰り返し、福岡にて帰らぬ人となるのです。
元二郎が酒好きだったことから、死因は脳溢血や肝硬変と考えられていました。しかし近年の研究で、死因はスペイン風邪という説が浮上しています。その理由は、元二郎の台湾総督就任時期が、台湾でのスペイン風邪上陸時期とほぼ一致していること、そしてその急激に悪化する病状が、スペイン風邪の症状に似ているということです。
元二郎は、ゆくゆくは総理大臣を望まれていた人材でした。明確な死因ははっきりしませんが、スペイン風邪が理由だったとすれば、たまたまスペイン風邪が流行した時期に、発展を望んだ台湾に行ったからこそ罹った病であり、運命の皮肉を感じずにはいられません。
明石元二郎の功績
功績1「20万人分の成果を挙げた諜報活動」
明石元二郎といえば、日露戦争における諜報活動を抜きに語ることはできません。参謀次長児玉源太郎は、元二郎にロシア軍の情報収集をさせた結果、ロシアを揺さぶることで戦争継続を断念させることができるという方向にシナリオを書いたと考えられます。
そこで児玉は、元二郎には自由のきく地位も金銭も与え、ロシア反体制派に資金援助をするといった判断権限も与えることで、ロシア政府や王室内部からの崩壊を招くことを期待したのです。元二郎はその期待に見事に応え、ヨーロッパ各地で反乱や騒乱を勃発させます。後に明石の功績は1人で20万人分の戦果を挙げたとさえ言われました。
俗に「明石工作」と呼ばれるこの諜報活動の特筆すべきことは、主目的は日本の国益を守ることでしたが、そこにポーランドやフィンランドの民族独立運動を絡めて、それを実現したことです。元二郎はその革命運動に関わる活動家たちの思いを本心で受け止め、実行しようとした訳で、その元二郎の心意気が活動家たちに伝わっていたからこそ成功したと言えるでしょう。
功績2「ポーランドの独立を助ける」
フィンランドだけではなく、ポーランドも日露戦争と大きな関わりがある国です。当時ロシア支配下にあったポーランドは、独立を期して日本と協力します。元二郎は武装蜂起のための資金提供をし、独立運動を陰で支えました。一方、ロシア軍として徴兵されていたポーランド人は、離反することで日本軍の大きな助けになりました。
ポーランドと日本の親密な関係は、それからも続きます。第一次世界大戦ではポーランドの孤児を日本に受け入れました。その恩返しにと、阪神淡路大震災や東日本大震災の被災児童が、ポーランドに無償で招待されました。費用はポーランド国民の寄付で賄われたそうです。ヨーロッパ随一の親日国と言われるポーランドとの歴史は、日本人としてぜひ知っておきたいものです。
功績3「台湾発展の基礎を築く」
元二郎は台湾総督となり、死去するまでの1年数ヶ月の間に、様々な分野で台湾の近代化への道筋を切り開きました。高雄港の拡充、台湾電力会社の設立、鉄道網の拡張といったインフラの整備に加え、司法制度や教育制度の近代化、山林の育成、農業力強化のための水利事業など、その業績は枚挙にいとまがありません。
元二郎は故郷の福岡で最期を迎えましたが、台湾に埋葬して欲しいと遺言していたので、亡骸は台湾に移送されました。沿道では約10万人が棺を見送ったといわれています。
今は台北市の市民で賑わう公園に、大きな鳥居があります。ここは昔、元二郎も埋葬された三板橋共同墓地と呼ばれていた場所でした。太平洋戦争後に中華民国の兵士たちが住み着き、バラック街と化していたのを、1996年に台北市が公園に整備しました。鳥居は元二郎の墓の前にあったもので、歴史の経緯を知った台湾の人たちによって残されたのです。
明石元二郎さんの貴重な論文ありがとうございます。不安定な国際情勢の中 情報オンチである今の日本にとって非常に大切なことが書かれていました。フェイスブックとツイッターにシェアせていただきました。いっそうのご活躍とご研鑽、ご健康とご多幸をお祈り致します。
倉岡
明石元二郎さんの貴重な論文ありがとうございます。不安定な国際情勢の中 情報オンチである今の日本にとって非常に大切なことが書かれていました。フェイスブックとツイッターにシェアせていただきました。今に日本に必要なこと。