ロナルドレーガンとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、政策内容や死因まで紹介】

ロナルド・レーガンの功績

功績1「INF(中距離核戦力)全廃条約の締結」

米ソがINFに調印

レーガンの最大の功績は、INF(中距離核戦力)全廃条約を締結し、「米ソ冷戦の終結」へと踏み出したことです。当初レーガンは、ソ連のことを「悪の帝国」とよぶなどソ連に対して強硬的な姿勢をとり、米ソ間に「新冷戦時代」とも呼ばれる緊張状態を生みました。

しかし、1985年にソ連の指導者となったゴルバチョフが首脳会談の申し出をしたところ、レーガンは快諾し、数度にわたって会談を持ちます。数回にわたる首脳会談によって、米ソ間に信頼関係を築き、1987年のINF(中距離核戦力)全廃条約に調印しました。ここで初めて両国による核兵器の縮小が実現しました。

功績2「レーガノミクスで好景気」

レーガノミクスとは、レーガン大統領がおこなった経済政策の総称で、①大型減税、②社会保障費の削減と軍事費の拡大、③規制緩和、④金融政策によるインフレ収束を主軸としました。レーガノミックスは、インフレの鎮靜、長期的な景気拡大など「強いアメリカ」のムードを高めました。

米国経済再生の出発点となったレーガノミ クスにより、失業率は、レーガン就任1年後の1982年の9.7%から就任7年後の1988年の5.5%に減少しました。10%を越えていたインフレ率は、金融引き締めによって3.2%まで下がりました。所得税減税によって労働者の意欲が高まり、起業活動や研究開発投資なども活発になったため、4千万の新しい事業が生まれました。

ロナルド・レーガンの名言

レーガン大統領

“Honey, I forgot to duck.”
「ハニー、(銃弾を)避けるのを忘れちゃったよ」
暗殺未遂事件の後、妻のナンシーに対して言った言葉です。これは1926年のボクシング・ヘビー級選手権でジャック・デンプシーが負けた試合後に妻に言った言葉を、レーガンが引用しました。

“There are no constraints on the human mind,no walls around the human spirit,no barriers to our progress except those we ourselves erect.”
「人の心には何の制約もなく、人の精神の周囲に壁はなく、自分自身で造ったものを除き、私たちの進歩を妨げる障害は何もない」
長い間続いた冷戦を終わらせたレーガンの言葉です。自分が進む道を妨げるものは何もなく、自分は必ず勝つというレーガンの信念が感じ取れます。

“You can’t save everyone by yourself.But anyone can help someone.”
「一人ですべての人を救うことなんて出来ない。だけど誰でもだれかを助けることはできる。」
大統領といえども、全ての人を救うことはできません。しかし、一人一人誰でも、誰かを助けることはできる、というレーガンの思いが伝わってきます。

ロナルド・レーガンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「最後の2年間は政治に関与していない?」

レーガンとナンシー夫人

レーガンは、歴代大統領の中で就任時の年齢は最高齢でした。そのため当初から、本当に大統領の任務を全うできるのか、と不安視されていたのも事実です。大統領就任の翌年には現職大統領として初めて補聴器を着用しはじめていましたが、2期目に入るとその度合いは進行していきます。

引退後にアルツハイマー病を患っていることを公表しましたが、在任中に既に患っていたとする説もあるようです。8年間の任期を満了しての引退でしたが、病気が政権運営に支障をきたしていたのではないかという意見も多く、政権末期の最後の2年間は政策の詳細を決める際にはほとんど関与していなかったとも言われています。

都市伝説・武勇伝2「銃で撃たれてもジョークを忘れない」

レーガン暗殺未遂事件直後の事件現場

レーガンは、大統領暗殺未遂事件の際、弾が心臓をかすめる重傷であったにもかかわらず、緊急手術の前に執刀外科医に対して「諸君がみな共和党員だといいんだがねぇ」と冗談を言う余裕を見せました。執刀外科医は民主党支持者だったのですが、「今日一日われわれはみな共和党員です」と答えレーガンを喜ばせたそうです。

さらに、後の共和党大会で演説中に飾り付けの風船が破裂した際、周りが銃撃だと騒然とする中、「ヤツ(ヒンクリー)は、またしくじった」と冗談を言い、聴衆を笑わせたこともあります。レーガンのこのようなおちゃめな性格は、「危機の際にもユーモアを忘れない」と称賛されました。

都市伝説・武勇伝3「ロン・ヤスの友情は本物だったのか?」

レーガンと中曽根 日の出荘にて

レーガン大統領の時代の日本の首相は、中曽根総理大臣でした。レーガンと中曽根は同年代であり、ともに保守派ということで親交を深め、レーガンは中曽根を「ヤス」と、中曽根はレーガンを「ロン」とと呼ぶなど親密な交流をむすんでいました。

レーガンは、現職のアメリカ大統領として最多の3回の公式訪問をし、最初の訪日では東京都西多摩郡日の出町にある中曽根の別荘「日の出山荘」に招かれ、蔦子夫人手作りの昼食を共にしました。2004年のレーガンの国葬の際には、中曽根はたっての願いで参列したことから、2人の友情は本物だったのだと言えるのではないでしょうか。

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