ロナルド・レーガンの年表
1911年 – 0歳「イリノイ州にてロナルド・ウィルソン・レーガン誕生」
アメリカのイリノイ州タンピコで父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間に、次男として生まれました。引っ越しを繰り返した後、1920年にイリノイ州ディクソンに定住します。父はアイルランド系のカトリック教徒で、母はスコットランド系のプロテスタントでした。
プロテスタント主流派のディサイプル教会の信徒であった母の影響で、1歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなります。幼少の頃のレーガンは教会によく通い、自らが子供たちを対象に演説や説教をするようになりました。
1928年 – 17歳「高校卒業と大学入学」
1928年にディクソン高校を卒業すると、イリノイ州のユーカリ大学に入学します。歴代大統領のように博学で成績優秀というわけではなかったようです。高校時代から毎年、夏季休暇に続けているロックリバーのライフガードの仕事では、7年間で77人を救助したと言われています。
大学時代は、経済学と社会学を学び、在学中に演説力の高さや話術を評価され、卒業後はラジオアナウンサーとなります。地元シカゴ・カブスの野球中継を担当したレーガンは、自らの想像力と話術の才能を活かして実況放送を行い、1934年のセントルイス・カーディナルズ戦では、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したにも関わらず、機器が回復するまで即興でおこなった架空の実況放送で乗り切りました。
1937年 – 26歳「ハリウッドに進出」
容姿端麗であったレーガンは、1937年にワーナーブラザーズと契約を結び俳優デビューをしました。1940年の「Knute Rockne All American」で、主役である実在した大学フットボールのスター選手ヌートの親友ジョージ・ギップを演じブレイクしました。デビュー後わずか2年間で19本の映画に出演しています。
レーガンの出演作で日本でも知られている映画には、「カンサス騎兵隊」(1940年)「殺人者たち」などがあります。「嵐の青春」(1942年、原題 Kings Row)での演技は高い評価を受け、実力を認められました。
1940年 – 29歳「結婚と離婚、そして再婚」
1940年、女優ジェーン・ワイマンと結婚します。2人の間には、長女モーリーンと養子である長男マイケルがいます。人気が下降気味になっていくレーガンと確実にキャリアアップを重ねる妻ナンシーとの間で夫婦関係は悪化し、1948年に離婚します。
1952年に、駆け出しの新人女優ナンシー・デイビスと再婚します。2人はカリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構え、次女パトリシア・アンと次男ロンの2人の子供に恵まれました。1957年の「海軍のヘルキャット」では、夫婦共演を果たしています。
1950年 – 39歳「テレビ業界で活躍」
映画での人気は下降したレーガンですが、持前の話術を活かして1950年代には、テレビショー「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会やテレビCMへの出演など、テレビ業界へ進出します。レーガンはテレビでも人気を博し、様々な番組に出演したため、テレビ業界に貢献したとして、1960年ハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにレーガンの名前が刻まれた星形の敷石が設置されました。
1967年 – 56歳「カリフォルニア州知事に就任」
レーガンは、政治との繋がりが深い映画俳優組合の委員長を務めていたため、政治色が強い番組の司会を担当するようになり、自らも下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」協力します。その後レーガンはカリフォルニア州知事選挙に出馬し、1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任しました。
1981年 – 74歳「第40代アメリカ合衆国大統領に就任」
1980年の大統領選挙で、党大統領選挙指名を獲得したレーガンは、民主党の現職大統領ジミー・カーターに、選挙人投票では489対49の大差をつけ、さらに一般投票でもカーターに約10パーセントの差をつけての圧勝でした。1981年1月21日、レーガンは第40代アメリカ合衆国大統領に就任します。
レーガンの初出馬は1968年の合衆国選挙で、ニクソン元副大統領を相手に予備選挙で敗退しました。その後出馬した1976年の大統領選挙では、現職のフォード大統領と争い、夏の全国共和党大会における代議員投票でフォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗しています。