ロナルドレーガンとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、政策内容や死因まで紹介】

ロナルド・レーガンの簡単年表

1911年
レーガン誕生
イリノイ州

アメリカのイリノイ州タンピコで父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間に生まれました。プロテスタントのディサイプル教会の熱心な信徒であった母親の影響で、11歳のときに同教会で洗礼を受けます。

1924年
高校に入学

レーガン一家は、1920年ころイリノイ州ディクソンに引っ越しし定住したため、レーガンは ディクソン高校に入学しました。入学以降毎年、ローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフガードの仕事をしていました。

1928年
大学に入学

レーガンは、イリノイ州のユーカリ大学に入学し、経済学と社会学を専攻しましt。1932年に卒業しています。

1932年
アナウンサーになる

大学在学中に演説力の高さや話術を評価され、卒業後はラジオアナウンサーに就任し、地元であるシカゴカブスの野球中継を担当しました。

1937年
ハリウッドへ
レーガンとナンシー夫人

1937年、レーガンはカリフォルニア州のハリウッドに進出、ワーナーブラザーズを契約し俳優デビューします。もともとハンサムなルックスであったレーガンは、2年間で19本の映画に出演するほど活躍をしました。

1940年
最初の結婚

1940年に女優のジェーン・ワイマンと結婚しました。しかし、妻ジェーンが女優としてキャリアアップしていく一方、俳優としての人気が下降気味であったレーガンは、次第に夫婦関係が悪化し、1948年に離婚しました。

1952年
2回目の結婚
レーガンとナンシー夫人

1952年、当時新人女優であったナンシー・デイビスと再婚します。2人はカリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに新居を構え、パトリシア・アンとロンの2人の子供に恵まれました。1957年の映画「海軍のヘルキャット」では夫婦共演を果たしています。

1967年
カリフォルニア州知事に就任

レーガンは、政治との繋がりが深い映画俳優組合の委員長を務めていたため、政治への意識を高め、政治色が強いテレビ番組の司会を担当するようになります。1967年には、メディアで活躍を生かしてカリフォルニア州知事に就任しました。

1981年
大統領に就任
レーガン

1980年、レーガンは共和党から党大統領候補指名を獲得し、現職カーター大統領と争いました。最終的に、選挙人投票ではカーターとの間に489対49と大差をつけ勝利しました。

1981年
暗殺未遂事件が起こる

大統領就任から69日後の1981年3月30日、AFL-CIO会議での演説を終えてワシントンDCのヒルトンホテル裏口を出たところを、ジョン・ヒンクリーに狙撃されました。ジョージ・ワシントン病院に搬送されたレーガンは、緊急手術を受けました。

1984年
2期目の大統領に就任

1984年、レーガンは2期目をかけた大統領選で再選しました。就任後は、レーガンはソ連とその同盟国を除いてロサンゼルスオリンピックを挙行するなど、国際的な場からソ連を孤立させ、西側諸国の結束を誇示することに成功します。

1986年
イラン・コントラ事件

イラン・コントラ事件は、1986年に発覚したレーガン政権最大の政治スキャンダルです。この事件は、国交断絶状態であったイランへの武器売却代金をニカラグアの反共産党ゲリラ「コントラ」に対する支援に流用していたものですが、人気があったレーガンにとっては、致命的なダメージとなりませんでした。

1987年
中距離核戦力全廃条約を締結
レーガンとゴルバチョフ

レーガンは、ソ連共産党書記長のゴルバチョフとともに、ワシントンDCにて中距離核戦力全廃条約に調印しました。

1989年
引退

1981年から8年の任期をつとめあげたレーガンは、1989年1月20日にホワイトハウスを後にします。77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でした。

1993年
アルツハイマー病を公表

レーガンは、1993年、アルツハイマー病と診断されたことを公表しました。病の進行とともに、人前には出ず、静かな余生を送ることとなりました。

2004年
死去
レーガンの葬儀

2004年6月5日の午後1時9分に、ロサンゼルス近郊のベル・エアーの自宅で肺炎のため死去しました。93歳でした。葬儀は、2004年6月11日にナショナル大聖にて国葬が執り行われました。

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