「吉備真備ってどんな人?」
「陰陽道の元祖って本当?」
吉備真備は奈良時代の学者ででもあり、政治家でもある人物です。遣唐使として唐へ行き、日本に戻ってからは地方豪族の出身でありながら右大臣まで上った人物でもあります。
そして現在は岡山の出身ということで、桃太郎との関係がクローズアップされていたり、陰陽道の第一人者と政治とは違う部分でも注目されている人物でもあるようです。
この記事では吉備真備の歴史的な功績から、陰陽道の繋がりまで色々な角度から吉備真備という人物に迫ってみたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
吉備真備とはどんな人物か
名前 | 吉備真備(下道真備) |
---|---|
誕生日 | 695年 |
没日 | 775年 |
生地 | 備中国下道郡也多郷土師谷天原 (岡山県倉敷市吉備町)? ・大和国(奈良県)? |
没地 | 大和国?備中国? |
配偶者 | 不明 |
埋葬場所 | 吉備塚古墳(伝承)・吉備地方 |
吉備真備の生涯をハイライト
- 695年:備中国で生まれる
- 716年:遣唐使として唐にわたる
- 735年:日本に帰国する
- 738年:右衛士督となる
- 743年:皇太子阿倍内親王(孝謙天皇)の教育に当たる
- 746年:「吉備」の姓を名乗りはじめる
- 752年:再度遣唐使として唐に渡る
- 754年:鑑真を伴って日本へ帰国するも太宰大弐として九州に下向する
- 764年:造東大寺長官に任じられ帰京する
- 766年:称徳天皇時に右大臣に任じられる
- 775年:吉備国か大和国で死去。享年81歳
遣唐使として唐に留学していた
吉備真備は遣唐使として2度唐に渡っています。最初の遣唐使は716年に選ばれ阿倍仲麻呂や玄昉らと渡唐し、18年間唐で勉強しました。この時に経書や史書、天文学・音楽・兵学などを学び日本に持ち帰っています。唐では知識人として名を残しており、留学生の中で唐で才覚を表したのは、阿倍仲麻呂と吉備真備だけだといわれています。
その後帰国し唐からの知識を重要視した政府の方針から、異例の大出世をします。しかし藤原仲麻呂が台頭すると、中央政界からは一旦遠ざかり遣唐使に任じられています。2度目の入唐では鑑真と共に日本に帰京し仏教の普及に多大な貢献を残すこととなりました。
2度目の遣唐使の任命は左遷と従来認識されていましたが、近年は当時の仏教の必要性から敢えて選ばれたのではないかという説もあります。
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玄昉と共に異例の出世を遂げる
吉備真備は734年に玄昉と共に日本に戻り、翌年に書物を持って帰京しています。そして史書・経書・天文歴書・音楽書・弓・矢などをもたらしました。これは日本にとっても非常に貴重なものであり、日本の文化向上に大きな貢献となったのです。
この時に従八位下だった位が、一挙に十階昇進して正六位下という異例の昇進を遂げ、大学助という官僚育成機関を行う役職に任官されました。
同じ時期に日本に帰朝した玄昉も、経論5000巻の一切経と仏像を日本にもたらし僧正に任命され、内裏で仏教行事を行う内道場に入っています。その後聖武天皇の母・藤原宮子の病を祈祷により治し、賜物をうけ政治的にも重用されるようになります。
このように、吉備真備・玄昉は唐の文化を日本にもたらし、知識を広めるための重要な人材として各方面で重用されたのでした。
吉備真備は桃太郎の子孫だった?
吉備真備は桃太郎のモデルとなった「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」の弟「稚武彦命(わかたけひこのみこと)」といわれています。伝承によると古墳時代に「温羅(うら)」と呼ばれる鬼が異国から渡来して、吉備地方に鬼ノ城を拠点とし支配していました。
そのために吉備地方の人々が大和王権にその粗暴を訴え、崇神天皇(第10代天皇)は孝霊天皇(第7代天皇)の子である吉備津彦命を派遣したといわれています。
そして温羅は吉備津彦命に討伐され「吉備冠者」の称号を吉備津彦命に献上しました。この吉備津彦命の異母弟の子孫が吉備真備です。そして時代が下って室町時代末期には現在知られる「桃太郎」が物語として登場し、現在も物語として読み継がれるようになったのでした。