戦国大名とは、15世紀末から16世紀の戦国時代に、いくつかの郡または数カ国を地盤にして支配した地方政権のことです。応仁の乱後、各地の大名が自分の領地を根拠地として勢力を伸ばし、激しく争っていました。戦国大名は守護大名とは異なり、必ずしも将軍から守護に任命されたわけではありません。
領国の管理を守護に任せられていた守護代や、荘官や地頭が土地に馴染んで領主層に成長した国人が、下克上によって戦国大名となる場合も多くありました。戦国大名は、年貢などを銭に換算して表わし(貫高)、それを元に武士には軍役を課したり、分国法といって領国を治めるための施政方針や法令を定めて、領有する国を一元的に支配しました。
この記事では、名前の知られた戦国大名を30人を一覧で紹介します。生まれ年順に並べているので、その年齢を意識して見ると、戦国時代の歴史の流れも見えてくるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
斎藤道三
もともとは商人であったと言われる斎藤道三は、美濃稲葉山城(岐阜県岐阜市)城主です。1552年ごろ、守護に擁立していた土岐頼芸(ときよりなり)を追放して、名実ともに美濃を手中に収めました。娘を織田信長に嫁がせ、織田家と同盟を結びましたが、息子の義龍と争って敗死しています。
毛利元就
毛利元就は安芸郡山城(広島県安芸高田市)の国人領主から戦国大名になりました。はじめは中国地方を治めていた大内氏に属していましたが、大内氏に謀反を起こして実権を握っていた陶晴賢(すえはるかた)を厳島の戦いで破り、出雲(島根県東部)の尼子氏を滅ぼして、中国地方10カ国を治める戦国大名にまで成長しました。
息子を小早川家・吉川家へ養子に出して傘下に置き、「毛利両川(りょうせん)体制」をとって地盤を固めました。五人奉行制と呼ばれる官僚機構を整え、内政にも力を入れた武将です。
大内義隆
大内義隆は守護出身で、周防(山口県東部)・長門(山口県西部と北部)・石見(島根県西部)・安芸(広島県西部)・豊前(福岡県東部と大分県の一部)・筑前(福岡県北西部)の戦国大名です。「大内氏掟書(大内家壁書)」と呼ばれる分国法を制定しています。
応仁の乱の後、公家や僧侶を山口へ迎えて京文化を根付かせ、大内文化と呼ばれる独自の文化が花開きました。1551年、家臣の陶晴賢の謀反により、義隆は自刃しました。
松永久秀
松永久秀は、大和国信貴山(しぎさん)城(奈良県生駒郡)と多聞山(たもんやま)城(奈良県奈良市)の城主で、大和(奈良県)を治めていた戦国大名です。三好長慶の家臣でしたが、長慶亡き後に三好家を滅ぼし、第13代将軍足利義輝を暗殺し、東大寺大仏殿を焼くなど、下克上を行った典型的な人物として知られます。
織田信長に対しては臣従と離反を繰り返し、最後は信長に居城の信貴山城を攻められて自刃しました。茶人としても知られ、古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)という、多くの戦国大名が欲してやまない茶釜を所有していたことでも有名です。
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尼子晴久
尼子晴久は、出雲の月山富田城(島根県安来市)を基盤として8カ国を領有した守護大名です。尼子氏はもともと守護代でしたが、代々勢力を拡大し、晴久の代では石見銀山を手中に収めて最盛期を迎えます。1566年に毛利氏に敗れて、戦国大名尼子氏は滅亡しました。
北条氏康
北条氏康は相模国(神奈川県)の戦国大名です。小田原を本拠とする後北条氏の3代目で、後北条氏を有数の戦国大名にのし上げました。関東の上杉氏を追いのけ、伊豆(静岡県東部)・相模(神奈川県)・武蔵(東京都と埼玉県)・上野(群馬県)を手中に収めます。氏康は、今川氏と武田氏との間に結んだ善徳寺の会盟の締結者としても知られ、戦国大名の中でも策略家として有名です。
北条氏には、後北条氏の初代である北条早雲が制定した「早雲寺殿廿一(にじゅういち)カ条」という分国法があります。早寝早起きといった生活習慣や神仏を敬うことなど、一般の家臣への心得を示したものです。
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