岡本太郎は20世紀に活躍した日本の芸術家です。1970年に開催された大阪万博で「太陽の塔」を手がけた人物として名が知られています。ほかにも、渋谷駅構内のJR線と井の頭線の連絡通路に飾られている壁画「明日の神話」は見たことがある人も多いのではないでしょうか。
20代でピカソの絵に影響を受けてから芸術の道を本気で志し、「ピカソを超える」ことを目標に芸術作品を次々と生み出していきます。活躍は絵の世界だけにとどまらず、本を出してもベストセラー、テレビに出演すれば流行語を発信、など幅広い方面でその才能を発揮しました。
日本の芸術家は数多くいますが、岡本太郎は現在でも多くのアーティストに影響を与え続けています。没後もこれほど話題にあがるのはなぜなのでしょうか。もちろん彼の作品やキャラクターに惹かれる人も多いと思いますが、人気の理由はそれだけではありません。
歌手のあいみょんさんが岡本太郎のファンということで作品を調べた結果、自身もその個性的な芸術にはまってしまった筆者が岡本太郎について文献や作品を調べて得た情報をもとに、彼の生涯、名言、有名作品などをご紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
岡本太郎とはどんな人物か
名前 | 岡本太郎 |
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誕生日 | 1911年2月26日 |
没日 | 1996年1月7日 (享年84歳) |
生地 | 神奈川県橘樹郡高津村大字二子 (現在の神奈川県川崎市高津区二子) |
没地 | 東京都新宿区信濃町 (慶應義塾大学病院) |
配偶者 | なし (養子として平野敏子を迎える) |
埋葬場所 | 多磨霊園 |
岡本太郎の生涯をハイライト
岡本太郎の生涯をダイジェストすると、以下のようになります。
- 芸術一家の長男として現在の神奈川県川崎市に誕生。
- 東京芸術学校へ進学し、芸術の道へ進む。
- ヨーロッパでピカソの絵に出会い、衝撃を受ける。それ以来「ピカソを超える」ことが目標に。
- 岡本が26歳の時に描いた「傷ましき腕」がシュルレアリスムの創始者に評価される。
- 「今日の芸術-時代を創造するものは誰か」を執筆し、ベストセラーに。
- メキシコにて巨大壁画「明日の神話」製作。
- 1970年大阪万博にて「太陽の塔」製作。
- パーキンソン病の悪化に伴う呼吸筋の低下により、呼吸不全に。享年84歳で永眠。
代表作品「太陽の塔」「明日の神話」で有名
岡本太郎の作品は数多く存在しますが、その中でも有名なのは「太陽の塔」「明日の神話」「傷ましき腕」でしょう。
「太陽の塔」は大阪万博のシンボルとしても多くの人に知られているオブジェで、現在でも万博公園にて見ることができます。高さは70mにもなり、当時の企画時には大屋根を飛び出してしまうということでスタッフと大いにもめたそうです。
「明日の神話」は第二次世界大戦における水爆の炸裂がモチーフとなっています。当初はメキシコオリンピック用に建設される、ホテルの壁画として製作されましたが、ホテル建設が頓挫したため行方不明となります。その後、2003年にメキシコにて発見され、紆余曲折を経て、渋谷駅へ展示されることとなりました。
「傷ましき腕」は太郎が20代の時に描いた油絵ですが、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンに評価され、その後も数多くの展覧会へ展示されることとなった名作です。
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結婚はせずに養女を迎えた
岡本太郎は芸術一家の長男として生まれますが、そのあとに誕生する弟と妹はいずれも2歳の時に亡くなっています。そのため岡本太郎は3人家族として暮らしていました。
父・一平は漫画家で、ある程度の収入を得る身でしたが、生来の放蕩ぶりを発揮し、ほとんどの給料を使い果たしてしまうような生活をしていました。母・かの子は小説家でしたが、お嬢様育ちで家事や育児が全くできないお母さんでした。そして愛人も数人抱えていたそうです。
岡本太郎は生涯結婚をしなかったため、子孫がいません。しかし、岡本太郎自身も母の影響を受けてかプレイボーイではあったため何人もの女性と関係を持っていました。
その中でも特に親密になった平野敏子という女性を養女として岡本家に迎え入れます。平野敏子はほとんど妻のような存在として岡本太郎に寄り添っていたようです。
ピカソとバタイユに影響を受ける
岡本太郎が影響を受けた人物はパブロ・ピカソとジョルジュ・バタイユです。
岡本は幼少期から芸術に興味を持っていましたが、いざ「何のために絵を描くのだ?」と問われると答えに困っていました。しかし、家族とともにヨーロッパへ移り住んだ際、たまたま鑑賞した展覧会でピカソの「水差しと果物鉢」をみて衝撃を受けます。
この経験以来、「ピカソを超える画家になる」という目標ができたため、画家になるという夢に向かって突き進んでいくことができたのでした。
また、1936年、岡本が25歳の時に画家マックス・エルンストらと参加した集会でジョルジュ・バタイユの演説を聞く機会があり、その型破りな内容に感銘を受けます。この時のバタイユの言葉や思想はこの後の岡本の活動に大いに影響を与えるのでした。
民族学にも造詣が深かった
岡本太郎は若いころから人間が生み出す原始的な文化に関心がありました。パリ大学では哲学や心理学、民族学など人間の根源に迫るような学問を学んでいます。
戦後、岡本は縄文土器に大きな衝撃を受けます。力強くうねるような縄文に古代人のエネルギーがほとばしっているのを感じた岡本は、美術雑誌「みづゑ」に「四次元との対話―縄文土器論」を発表しました。それまで工芸品の範疇だと考えられていた縄文土器を、日本美術史の源流に位置付けたのは岡本のこの論文からだといわれています。
また、岡本は沖縄文化にも興味をもっていました。1966年12月には沖縄・久高島の祭祀「イザイホー」を訪れ、そのルポを「沖縄文化論 忘れられた日本」に著しています。この年のイザイホーは記録映画として残され、今でも映像を見ることができます。
岡本太郎の作品が観られる場所
大阪・万博公園の「太陽の塔」をはじめ、岡本太郎の作品はあらゆる場所に展示されています。渋谷駅の「明日の神話」も有名ですし、東京・中央区の数寄屋橋公園には「太陽の塔」の縮小版のような作品「若い時計塔」があります。
東京で岡本の作品をまとめて見られるのが、青山にある岡本太郎記念館です。岡本が亡くなるまでアトリエ兼住まいとして使っていた建物が記念館となっています。作品の多さとアトリエの雰囲気に「岡本太郎ワールド」に入りこむような感覚を覚えます。
岡本の出身地である神奈川県川崎市には岡本太郎美術館があります。常設展は体験型の展示空間となっていて、なでたり座ったりして岡本の作品のパワーを肌で感じることができます。公園スペースには全長30メートルの「母の塔」があり、美術館のシンボルとなっています。
岡本太郎の功績
功績1「『太陽の塔』製作」
1970年の大阪万国博覧会で展示された建造物で、今でも万博のシンボルとして保存されています。高さは70m、腕の長さは25m、顔の大きさは10mとなっています。黄金の顔は日没の際に太陽の光が反射して光るように計算されて作られました。
塔内には「生命の樹」と呼ばれるモニュメントがあり、生命を支えるエネルギーの象徴をイメージして作られています。また、「太陽の塔」には地下室もあり、「地底の太陽」と呼ばれる顔のモニュメントが存在していましたが、万博終了と同時に行方不明となり、現在でも見つかっていません。
功績2「『今日の芸術』がベストセラーに」
「今日の芸術-時代を創造するものは誰か」は1954年に刊行された本で、当時のベストセラー書籍となりました。この本の出版社である光文社の社長から、直々に「中学生でもわかるような芸術の啓蒙書を書いて欲しい」と頼まれたことから執筆に至ったそうです。
この本では「今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」という文言が記載されており、話題となりました。今までの芸術を否定し、新しい芸術を生み出すことを説いた本書は多くの人に衝撃を与え、その上で受け入れられたのです。
功績3「フランス政府より芸術文化勲章を贈られる」
芸術文化勲章は1957年に創設された、フランス政府の通信省から与えられる称号です。日本におけるフランス文化の紹介・普及・支援に尽力した人が勲章の対象となります。
階級は3つに別れ、1等がコマンドゥール(Commandeur)、2等がオフィシエ(officier)、3等がシュヴァリエ(Chevalier)です。日本では全部の称号を合わせて120人がこの10年の間に授与されています。有名な人物では北野武(コマンドゥール、シュヴァリエ)、坂本龍一(オフィシエ)などが与えられました。
岡本太郎は1984年にオフィシエ、1989年にコマンドゥールの称号を授かっています。
岡本太郎の名言
「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。」
最初の一歩が踏み出せないということは誰にでもあると思います。岡本太郎自身も絵が好きでありながら、何の目的で描くのかを見出せないまま時間だけが過ぎていく時期を経験しました。それでも絵の世界に進み、色々な経験を積み重ねながら、最終的には日本を代表する芸術家になったのです。
「同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ。」
岡本太郎は前衛芸術を掲げて、従来の芸術の概念を覆すことに挑戦し続けました。今までになされてきたことをなぞるだけでは面白くない、そんなことをするくらいならやらなくても同じだという意味です。岡本太郎の作品が個性にあふれているのはこの信念を貫いたからでしょう。
「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。」
岡本太郎が「太陽の塔」の構想を練った時、仲間や部下と対立したそうです。大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」でしたが、岡本太郎はこれに反発し、「頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい」として自分の信念を押し通し、周囲から反対を受けていた「太陽の塔」を作り上げたのです。