力道山とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家族構成、戦績や死因についても紹介】

2020年1月4日、5日と2日間にわたって東京ドームで興行を行ったプロレス団体「新日本プロレス」。総動員数は7万人を超え、その一大ブームは動画配信サービス「新日本プロレスワールド」などを通じて全世界中へと広まっております。

かつて、新日本プロレスは金曜8時のゴールデンタイムで放映され、視聴率も20%越えを度々連発しておりました。この、新日本プロレスを立ち上げたアントニオ猪木の師匠にあたる人物が、日本プロレス界の父と呼ばれるプロレスラー・力道山です。

力道山

力道山は元々、大相撲の力士としてデビューした人物でした。しかし、関脇に昇進した翌年に突如廃業し、建築現場の監督を経て、プロレスラーとしてデビューします。その後、様々な外国人レスラーと戦いながら、日本中にプロレスブームを呼び起こします。

昭和30年代を舞台にした映画「ALWAYS 3丁目の夕日」では、力道山の試合を見るために、テレビの置いてある家庭へ町内の人々が集合する、というシーンがあります。それだけ、当時の人たちは、力道山の試合に熱狂しておりました。

ですが、実際に力道山という人物がどんな人物だったのかというのを知っている人は少ないかもしれません。ということで、今回は「プロレススーパースター列伝」で力道山を知った筆者が、力道山についてご紹介いたします。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

力道山とはどんな人物か

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名前力道山(本名:百田光雄、出生名:金信洛)
誕生日1924年11月14日
没日1963年12月15日
生地日本統治下朝鮮 咸鏡南道洪原郡新豊里
没地東京都港区青山 山王病院
配偶者田中敬子
埋葬場所東京都大田区 池上本門寺
長崎県大村市 長安寺

力道山の生涯をハイライト

力道山

力道山の生涯について簡単にご紹介いたします。

  • 1924年11月14日、日本統治下にあった朝鮮にて生まれる
  • 15歳の時、朝鮮相撲の大会で優勝し、後の養父・百田己之助にスカウトされる
  • 1940年に二所ノ関部屋から力士として土俵入り
  • 1950年に力士を廃業し、2年後プロレスラーとしてアメリカで修行する
  • 1954年に「日本プロレス」を旗揚げ、看板レスラーとして活躍
  • 1954年12月、「昭和の巌流島」こと木村政彦との一戦を行う
  • 1960年、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を日本プロレスにスカウトする
  • 1963年5月、ザ・デストロイヤーとの戦いで平均視聴率64%を記録
  • 1963年12月、赤坂のニューラテンクォーターにて刺傷事件が起こり、その傷が元で逝去

力道山はどんなプロレスラーだった?生涯の戦績は?

試合中の力道山

力道山の代表的な必殺技として挙げられるのが「空手チョップ」です。この空手チョップの威力を上げるために、手の甲や指を木製ハンマーで叩き、硬くしている特訓模様が東スポなどで報じられていました。弟子であった猪木も、「あのチョップには様々な怨念が込められていた」と証言しております。

シャープ兄弟

力道山は空手チョップを武器に、大柄の外国人レスラーをなぎ倒す姿が当時の敗戦直後の日本人に勇気を与え、日本中に勇気を与えました。詳しい戦績は不明ですが、中でも、シャープ兄弟やルー・テーズ、フレッド・ブラッシーといった外国人レスラーとの戦いは名勝負であったと語り草になっております。

力道山の家族構成は?息子や子孫は何をしているの?

百田光雄

力道山は朝鮮の片田舎で精米所を営んでおりました。その後、力道山は数人の女性と関係を持っておりました。そのうちの1人、芸者であった綾の息子である百田義浩と百田光雄さんはプロレスラーとしてデビューし、力道山2世として期待されました。2020年現在、百田光雄さんは現役レスラーの中で最長キャリアを誇るレスラーとして活躍中です。

また、力道山は日本に来る前にすでに結婚していたという報道が1984年の雑誌「週刊プレイボーイ」で報じられました。その後、2002年の釜山アジア競技会にて北朝鮮の重量挙げの監督に、力道山の孫娘がエントリーされたとニュースになりました。

力道山の死因「力道山刺傷事件」とは?

赤坂のニューラテンクォーター

1963年12月8日、赤坂のニューラテンクォーターで飲んでいた力道山。その途中、反社会的勢力の住吉一家傘下の大日本興業の構成員であった村田勝志という男に対し、力道山が「足を踏まれた」と口論になり、取っ組み合いの喧嘩になってしまったそうです。

その後、一方的に殴打された村田が命の危険を感じ、懐の中にあったナイフを抜き、下腹部を刺しました。そして、このケガが原因で力道山は亡くなってしまいました。実際、力道山の酒癖は悪いことで有名で、度々このようなトラブルを引き起こしていた模様です。

力道山の死因は?麻酔事故説や寿司による食中毒説の真相を解説

力道山の功績

功績1「力士からプロレスラーへ転向」

力士時代の力道山

1940年に二所ノ関部屋へ入門し、「力道山 信洛」という四股名で初土俵を踏みました。その後、日本で敗戦を経験し、1947年6月場所にて大関の前田山、東富士、そして横綱であった羽黒山から金星を取り、初の優勝決定戦へと進みました。

その後、1948年5月場所では大関東富士、横綱照国、を破り殊勲賞を受賞しております。そして関脇に昇進するも、自ら髷を切り落とし、力士を廃業してしました。そして、その体格を生かした仕事としてプロレスラーへと転身します。

功績2「日本プロレスを旗揚げ」

街頭テレビに集う人々

プロレスラーへと転身した力道山は興行会社として、興行界のドンとして知られた興行師・永田貞雄と二所ノ関部屋の後援者であった新田新作の助力の元、「日本プロレス」を旗揚げすることになりました。この団体は、日本で最初に成功したプロレス団体として有名です。

力道山をエースに、シャープ兄弟との戦いをきっかけに日本中にプロレスブームを巻き起こしました。また、他団体である「国際プロレス団」の木村政彦、「全日本プロレス協会」の山口利夫を直接対決で下したことにより、相次いで競合団体は消滅し、日本で唯一のプロレス団体として君臨しました。

功績3「プロレスを国民的スポーツへ発展させる」

力道山対ルー・テーズ

昭和30年代は、敗戦直後という事もあり多くの日本人の中に反米感情というものがあったそうです。その時に、力道山が空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒す姿は痛快に映り、街頭テレビなどに集まるほどのプロレスブームを巻き起こしました。

また、力道山のライバルともいえる人物が「鉄人」の異名を持つルー・テーズです。1958年にルー・テーズの持つインターナショナルヘビー級王座を奪取したことにより、第二次プロレスブームを迎えました。それまで知名度のなかったプロレスというスポーツを国民的スポーツにまで人気を高めたのは力道山の功績かもしれません。

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