ロナルド・レーガンとは、アメリカ合衆国第40代大統領です。1981年から1989年まで8年間の任期を全うしました。政治家になる前はハリウッドで活躍する俳優であり、テレビ司会者であったという異色の大統領でした。
レーガンの大統領としての最大の功績は、冷戦を終結に導いたことです。レーガンが大統領だった時代は、大きな戦争はなかったものの、長引く冷戦とソ連に対してどう対策をとるかが一番の懸念事項でした。その一歩を踏み出したのがレーガンです。
経済政策でも「レーガノミクス」を柱に掲げ、内政・外政ともに「強いアメリカ」を前面に打ち出した政策をおこないました。また、ユーモアのセンスがあり茶目っ気のある性格や人柄で、多くの国民に支持されました。近年、レーガンの大統領としての功績が再評価されています。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ロナルド・レーガンとはどんな人物か
名前 | ロナルド・ウィルソン・レーガン |
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誕生日 | 1911年2月6日 |
没日 | 2004年6月5日 |
生地 | アメリカのイリノイ州タンピコ |
没地 | ロサンゼルス近郊のベルエアーの自宅 |
配偶者 | ナンシー・レーガン |
埋葬場所 | ロナルド・レーガン図書館 |
ロナルド・レーガンの生涯をハイライト
- 1911年にイリノイ州で生まれる
- ラジオアナウンサーとして活躍した後、ハリウッド俳優、テレビ司会者として活躍
- カリフォルニア州知事になる
- 第40代アメリカ合衆国大統領になる
- 8年間大統領を務め、引退する
- アルツハイマー病を発症
- 93歳で肺炎のため死去
大統領として行った政策は?
レーガンが行った内政政策の一つは、需要中心ではなく供給力強化を目的とした「レーガノミクス」と呼ばれる経済政策です。
- 軍事支出の拡大、
- 減税による供給の刺激、
- インフレーションの抑制
を掲げました。他にも、麻薬犯罪者の投獄を推し進める「麻薬との戦争麻薬との戦争 (War on Drugs)」政策もおこなっています。
外交政策では、ソ連との間に冷戦終結に向けての「中距離核戦力全廃条約」の締結をし、中南米の社会主義政権や反体制ゲリラに対しては厳しく、グレナダ侵攻作戦の実施などをおこないました。
ロナルド・レーガンが暗殺されかけた暗殺未遂事件とは
レーガン大統領の暗殺未遂事件は、1981年3月30日、レーガンがAFL-CIO会議を終え、ワシントンDCのヒルトンホテルの裏口から出たときに起こりました。犯人はジョン・ヒンクリーという男で、レーガンと大統領報道ジェイムズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの4人が被弾します。
すぐに大統領専用車に押し込まれたレーガンは、ホワイトハウスに向かったものの車中で吐血したため、急遽最寄りのジョージ・ワシントン病院に搬送され緊急手術となりました。弾はレーガンの心臓をかすめて肺の奥深くにとどまっていましたが、約10日で退院するなど脅威的なスピードで回復し、在職中に銃撃されたにも関わらず死を免れた最初の大統領となります。
この事件で被弾した大統領報道官のブレイディは、頭に深い傷を負い、一命は取り留めたものの左半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされました。犯人のヒンクリーは、1982年の裁判で弁護側が「彼は精神の病気に罹っている」と精神医学上の報告書を提出したため、「ヒンクリーは精神の病気にかかっており、責任能力がない」との判断で無罪判決となっています。
ロナルド・レーガンは俳優だった?
政治家になる前のレーガンは、ラジオアナウンサーを経てハリウッド俳優としてキャリアを築きました。幼い頃より演技が得意で容姿端麗だったレーガンは、ワーナーブラザーズと契約し、1939年までに19本の映画に出演するなど二枚目俳優としての地位を築き上げます。
1942年の「嵐の青春」は高評価を得て、以降も「決闘の町」「海軍のヘルキャット(英語版)」などの代表作があります。戦後は、「ジェネラル・エレクトリック・シアター」というテレビショーの司会や、CMへの出演など、テレビの世界でも人気を博しました。ハリウッド大通りのハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、星形の敷石にレーガンの名前が刻まれています。