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田中正造とはどんな人?生涯・年表まとめ【足尾銅山事件の活動や名言、死因まで紹介】

田中正造とは明治時代に活躍した政治家であり、日本初の公害事件「足尾銅山鉱毒事件」に生涯を捧げた人物です。足尾銅山から産出される銅は、富国強兵を推し進める日本には不可欠なものでしたが、発掘の為に発生する有害物質は周辺環境に甚大な影響を与えました。足尾銅山付近の農作物は枯れ果て、洪水は頻発。川の水を飲んだ村民の多くに深刻な健康被害が起きたのです。

正造は1890年に栃木県の衆議院議員となり、足尾銅山を視察。議会で初めて公害問題を取り上げました。政府と周辺住民との軋轢や衝突は激化し、正造は議員の地位や財産を投げ打って、足尾銅山鉱毒事件に立ち向かったのです。正造の行動は少しずつ世論を動かし、やがて大きな原動力となりました。

これらの功績から、正造は今でも栃木県の偉人として高い評価を得ています。

田中正造

田中正造の功績は学校で必ず取り上げられますが、その生涯については知らない人も多いでしょう。正造は自由民権運動を牽引する活動家でもあった他、正義感の強さから度々牢獄に収監される等、波乱万丈なら生涯を送りました。

また歌や絵にも秀でた芸達者で、実は商才にも優れている等、皆さんの知らない一面もあるのです。正造が残した名言や、その生涯については是非皆さんにも知っていて欲しい事ばかりです。

今回は小学校の授業で田中正造を学んでから、ずっと尊敬の念を持ち続けている筆者が、田中正造の生涯について紹介します。

田中正造とはどんな人物か

名前田中正造
誕生日1841年12月15日
没日1913年9月4日
生地下野国安蘇郡小中村
没地栃木県足利郡吾妻村下羽田
配偶者田中カツ
埋葬場所惣宗寺(栃木県佐野市)

田中正造の生涯をダイジェスト

田中正造

田中正造の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1841年 田中正造誕生
  • 1857年 小中村の名主となる
  • 1868年 六角家と対立して投獄される
  • 1880年 栃木県の議会議員となる
  • 1890年 第1回総選挙に当選し、衆議院議員となる
  • 1891年 足尾銅山鉱毒事件について議会で追及を始める
  • 1901年 議員を辞職し、明治天皇に直訴するも失敗
  • 1904年 政府に抵抗する為、谷中村に移住する
  • 1913年 河川調査や支援者の元を訪ね、その帰路に病死(享年73歳).

田中正造が生涯を捧げた足尾銅山鉱毒事件

明治天皇に直訴する田中正造

足尾銅山鉱毒事件とは1880年代から発生した日本初の公害事件です。足尾銅山は現在の栃木県日光市にあり、明治維新後に実業家の古河市兵衛が開発に着手。東アジア最大規模の銅の産地となり、当時の重要産業でした。

しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガスは周辺環境に甚大な影響を与えます。鉱毒ガスによる酸性雨は周辺の山々を禿山にし、崩れた土砂は渡良瀬川に蓄積。台風により度々洪水の原因となりました。

渡良瀬川から流れる有毒な水は近隣の田園を枯らし、周辺の町は廃村となります。付近では村人の深刻な健康被害も出ました。衆議院議員だった正造は1890年頃から鉱毒事件を議会で訴えますが、明治政府は聞く耳を持ちませんでした。

正造は1901年12月に死を覚悟しながら、明治天皇に直訴。警官に取り押さえられて失敗終わるものの、鉱毒事件は世に知られます。正造の死去後も周辺住民と政府との争いは続きました。

1947年の台風以降、政府は渡良瀬川全域に堤防を作った事で現在に至るまで大規模な洪水はありません。しかし2011年の東日本大震災の際に流出した渡良瀬川の土砂からは基準値の倍を超える銅が検出されています。

足尾銅山鉱毒事件の影響はまだまだ続いているのです。

田中正造の死因は?死去した時の全財産は?

田中正造の遺品

正造は1913年9月4日に胃癌の為、71歳で死去しました。正造は死の9年前から1904年から谷川村に移り住んでいます。谷川村が遊水池(洪水時に一時的に水を貯めておく場所)に決定し、それに抵抗する為でした。

谷川村の強制買収を巡る裁判を行う等、正造は精力的に活動しています。しかし自分の生命が残り少ない事を悟ると、1913年7月に正造は古参の支援者らのもとへ挨拶回りに出かけました。

正造は8月2日に足利郡吾妻村(現佐野市)の支援者・庭田清四郎宅にて倒れ、約1ヵ月後の9月4日に息を引き取りました。正造は最後まで村民の事を思っていたのです。

正造は財産を鉱毒反対運動に使い果たし、死亡時の全財産は菅笠と袋一つしかなく、袋の中には以下のものが入ってしました。

  • 日記三冊
  • 新約聖書
  • 帝国憲法の小冊子
  • 石ころ数個
  • 鼻紙
  • 川海苔

正造は村民の為に無一文となり、その生涯を終えたのです。

田中正造の家族構成は?子孫はいたの?

田中正造の妻であるカツ夫人

正造は1863年に隣村に住む大沢カツと結婚。珍しい恋愛結婚であり、「正造がカツを待ち伏せして草刈りのカゴに入れて連れてきた」「カツの家族が連れ戻しに来た時は村ぐるみで隠し通した」等の話が伝わります。

これは二人がカツの両親の反対を押し切って結婚した為、話に尾ひれがついたものだと言われます。明治天皇に直訴をする時、正造はカツの身を守る為に離縁届けを送りますが、カツはそれを認めていません。

二人には固い絆があり、生涯仲がよかったのです。なお二人の間には子供は授からず、正造の直接的な子孫はいません。正造の妹の子を養子にして田中家は存続しています。

子孫がどのような生活を送ったかはほとんど知られていません。ただ鉱毒事件のその後を知る上で、田中家の末裔の栄氏がインタビューに応じる等、書籍からはその足跡を追う事は出来るのです。

田中正造の功績

功績1「日本の公害問題の先駆者となる」

四大公害の発生地

当初政府が鉱毒問題に真剣に取り合わなかったのは、銅が輸出に必要だった事に加え、彼らに「公害」という概念がなかったからです。

足尾銅山鉱毒事件は日本で初めての公害事件であり、経済活動による環境破壊の因果関係を追及するきっかけとなります。日本は足尾銅山鉱毒事件以降も様々な公害問題が発生しました。

  • 水俣病
  • 新潟水俣病
  • 四日市ぜんそく
  • イタイイタイ病

それぞれの地域住民達が立ち上がる事が出来たのも、足尾銅山の前例があった事に加え、正造の不屈の精神の影響を受けた事が大きいでしょう。正造の行動は未来にも影響を与えたのでした。

功績2「自由民権運動の指導者として活動」

民撰議院設立建白書

正造は鉱毒事件にかかわる前は自由民権運動に関与していました。明治初期は薩長出身者が政治を行い、国民の意見は反映されませんでした。運動家達は国民の意見を政治に反映させる為、国会の開設を政府に訴えていたのです。

正造は1878年に栃木県の区会議員になった後は、栃木新聞の編集長となります。正造は紙面で国会開設の重要性を訴えており、「予は下野の百姓なり」というフレーズは正造の名を世に広げるきっかけとなりました。

1881年に明治14年の政変がおこり、10年以内に国会を開設するという詔が出されると、正造は大隈重信が立ち上げた立憲改進党に入党しています。国会開設運動は盛り上がりを見せますが、それは正造の功績も要因でした。

功績3「栃木県会議員として鬼県令・三島通庸と対立する 」

県議時代の田中正造

正造は民権運動と並行しつつ、1880年には栃木県の議会議員となっています。1883年には栃木県の県令(現在の知事)に三島通庸が就任しますが、正造は三島と激しく対立しました。

三島は山形県令として公共施設の近代化に尽力する功績を残しています。しかし福島県令や栃木県令時代には民権運動家の大規模な弾圧を行い、更には土木建設に地域住民に寄付と労力提供を強要し、鬼県令と呼ばれました。

正造は三島の暴政に対して証拠を集めて政府関係者に訴える等の行動を起こし、一貫して県民の権利を主張しています。後に三島の暗殺未遂事件である加波山事件が発生すると、正造も連座したと疑われて投獄しています。

正造が加波山事件に関与したかは不明です。しかさ三島が栃木県令を解任されると正造は釈放され、県民はとても喜びました。1890年の第一回総選挙で正造は議員となりますが、県民との信頼関係によるものでしょう。

田中正造の名言

真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。

正造が遺した名言で最も有名なものではないでしょうか?近代化を推し進めていた日本ですが、結局は文明を破壊し、山や川、そして村を破壊しました。それは文明とは言えないのです。

昨今も原発問題等、私たちを取り巻く状況も大きく変わりはしないのです。

水は自由に高きより低きに行かんのみ。水は法律理屈の下に屈服せぬ。

鉱毒事件において政府は様々な法律を作り、弾圧などを起こしました。それはあくまで屁理屈でしかなく、水は自然の摂理に逆らえずに環境破壊は進みます。

法律は自然の前では何の意味もなく、根源を修正しないといけないと説いているのですね。

オレが残念なことはふたつある。鉱毒問題が決着しないことと、嫁さんがさっさと死んでくれないことだ

これは妻を愛していないのではなく、妻を思っての言葉です。自分が生きている間は妻の葬式をする事ができるが、自分が死んだ後だとそれが出来ません。

正造は金も資産もなく、それでも自分についてきてくれる妻を見届けたいと述べたのですね。なお妻のカツは1936年に88歳で死去しています。

田中正造にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実は芸術肌?短歌や絵の才能に優れていた」

島田延助の竹画に正造が自作の詩句を揮毫したもの

正造には真面目というイメージがあると思いますが、文化人の一面がありました。生涯に残した短歌や俳句は1000近くに及び、知人や支援者の扇面に書いて渡したそうです。正造が最後に遺した和歌は以下のものです。

ながら 夢は枯れ野を かけめぐる あはず文庫に かり枕らして

芭蕉の作品である「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」にも影響を受けている事が伺えます。歌作については「田中正造全集」という書籍に記されており、違った正造の一面を伺い知れますね。

更に正造は幼少期に吉澤松堂という人物から絵を学び、風竹画を得意としていました。裁判に提出した水害見取図は濃淡の巧みで、絵画的な趣を感じさせます。

時代が違えば正造は絵師や歌人として名を馳せていたのかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝2「意外としたたかだった?すくも作りや土地の売買で大儲け」

すくもの原料(徳島県産)

正造は小中村の名主の家柄であり、元々それなりの資産家でした。しかし正造はいくつかの方法で更に財を成したとされています。

1つは藍の葉を発酵させた染料である「すくも」です。正造は16歳から19歳の時にすくもを栽培、販売して得た利益で社会に乗り出したとされます。

西南戦争の頃には下落した土地を「地価は必ず上昇する」と確信して購入。地価が元に戻った時点で売却した事で更に富を得たとされます。

そのお金を元に正造は自由民権運動に身を投じました。正造には芸術面だけでなく、商才の才能もあったのですね。

都市伝説・武勇伝3「お金は全て国民のため!赤貧を貫いた生き様」

1891年完成の帝国議会の内部

財を成した正造ですが、死亡時の財産は全く残っていませんでした。正造は利益の全てを鉱毒事件の為につぎ込んだとされます。

栃木県の議会議員時代には三島通庸の虐政に抵抗する為の運動費に田畑を売り払い、僅かな家屋敷しか残らなかったそうです。足尾銅山鉱毒事件以降は、選挙に出る為に税金を納めるものの、財産はほぼありませんでした。

また国会議員の給与を年間800円(約300万円)から2000円(約700万円)に増額する議案が上がった時、唯一反対意見を述べたのが正造でした。正造は以下のように述べています。

日清戦争以降、日本は貧しくなった。農家は金もないところに税金も上がり、これ以上は払えないと泣いている。その農民から選ばれた代議士が、『給料が少ないから増やす』とはあんまりな話だ。オレは反対する

正造はなによりも国民の生活を優先した政治家であり、赤貧という言葉が何よりも似合う人物ですね。

田中正造の簡単年表

1841年 - 0歳
田中正造誕生

田中正造は1841年12月15日に下野国安蘇郡小中村で誕生しました。幼名は幼名兼三郎と言います。時代背景としては水野忠邦が天保の改革を行い始めた頃ですね。

1857年 - 17歳
小中村の名主となる

父富蔵の代わりに小中村の名主として活躍します。幕末期には領主の六角家と対立した結果、入獄を命じられ11ヶ月に及ぶ獄中生活を送りました。その後釈放され、秋田県で役人の仕事に就いたり、地元に戻り生計を立てました。

1881年 - 41歳
立憲改進党に入党する

1878年に区会議員となり、政治活動を始めます。大隈重信の立ち上げた立憲改進党に入党した他、栃木県議会議員として県令の三島通庸と対立しています。一貫して国民の自由と政治への関与を達成する為、正造は奔走しました。

1890年 - 50歳
衆議院議員となり足尾銅山鉱毒事件を追及

第一回衆議院議員選挙で当選し、正造は衆議院議員となります。1891年には足尾銅山鉱毒事件の被害状況を議会で追及します。しかし政府の対応は冷たく、まともに対応しようとしませんでした。

1901年 - 61歳
議員辞職後に明治天皇に直訴する

度重なる追及に政府は耳を貸しませんでした。正造は議員を辞職して明治天皇に直接直訴を行いますが、失敗に終わります。ただこの行動は世論を動かし、足尾銅山鉱毒事件は大きな騒動となりました。

1904年 - 64歳
谷中村に移住する

やがて政府は治水工事として谷中村一帯を遊水池にする事を決定します。正造はそれに反対し、自らも谷中村に住み、政府に抵抗する事を決めました。その後も強制破壊や土地の買い上げ等に屈する事なく、この地に住み続けました。

1913年 - 73歳
胃がんにて死去

その後も精力的に活動する正造でしたが、胃がんの為に73歳で死去します。正造は鉱毒事件にお金を全て使い果たし、無一文でその生涯を終えたのです。

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