田中正造の名言
真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。
正造が遺した名言で最も有名なものではないでしょうか?近代化を推し進めていた日本ですが、結局は文明を破壊し、山や川、そして村を破壊しました。それは文明とは言えないのです。
昨今も原発問題等、私たちを取り巻く状況も大きく変わりはしないのです。
水は自由に高きより低きに行かんのみ。水は法律理屈の下に屈服せぬ。
鉱毒事件において政府は様々な法律を作り、弾圧などを起こしました。それはあくまで屁理屈でしかなく、水は自然の摂理に逆らえずに環境破壊は進みます。
法律は自然の前では何の意味もなく、根源を修正しないといけないと説いているのですね。
オレが残念なことはふたつある。鉱毒問題が決着しないことと、嫁さんがさっさと死んでくれないことだ
これは妻を愛していないのではなく、妻を思っての言葉です。自分が生きている間は妻の葬式をする事ができるが、自分が死んだ後だとそれが出来ません。
正造は金も資産もなく、それでも自分についてきてくれる妻を見届けたいと述べたのですね。なお妻のカツは1936年に88歳で死去しています。
田中正造にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実は芸術肌?短歌や絵の才能に優れていた」
正造には真面目というイメージがあると思いますが、文化人の一面がありました。生涯に残した短歌や俳句は1000近くに及び、知人や支援者の扇面に書いて渡したそうです。正造が最後に遺した和歌は以下のものです。
ながら 夢は枯れ野を かけめぐる あはず文庫に かり枕らして
芭蕉の作品である「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」にも影響を受けている事が伺えます。歌作については「田中正造全集」という書籍に記されており、違った正造の一面を伺い知れますね。
更に正造は幼少期に吉澤松堂という人物から絵を学び、風竹画を得意としていました。裁判に提出した水害見取図は濃淡の巧みで、絵画的な趣を感じさせます。
時代が違えば正造は絵師や歌人として名を馳せていたのかもしれませんね。
都市伝説・武勇伝2「意外としたたかだった?すくも作りや土地の売買で大儲け」
正造は小中村の名主の家柄であり、元々それなりの資産家でした。しかし正造はいくつかの方法で更に財を成したとされています。
1つは藍の葉を発酵させた染料である「すくも」です。正造は16歳から19歳の時にすくもを栽培、販売して得た利益で社会に乗り出したとされます。
西南戦争の頃には下落した土地を「地価は必ず上昇する」と確信して購入。地価が元に戻った時点で売却した事で更に富を得たとされます。
そのお金を元に正造は自由民権運動に身を投じました。正造には芸術面だけでなく、商才の才能もあったのですね。
都市伝説・武勇伝3「お金は全て国民のため!赤貧を貫いた生き様」
財を成した正造ですが、死亡時の財産は全く残っていませんでした。正造は利益の全てを鉱毒事件の為につぎ込んだとされます。
栃木県の議会議員時代には三島通庸の虐政に抵抗する為の運動費に田畑を売り払い、僅かな家屋敷しか残らなかったそうです。足尾銅山鉱毒事件以降は、選挙に出る為に税金を納めるものの、財産はほぼありませんでした。
また国会議員の給与を年間800円(約300万円)から2000円(約700万円)に増額する議案が上がった時、唯一反対意見を述べたのが正造でした。正造は以下のように述べています。
日清戦争以降、日本は貧しくなった。農家は金もないところに税金も上がり、これ以上は払えないと泣いている。その農民から選ばれた代議士が、『給料が少ないから増やす』とはあんまりな話だ。オレは反対する
正造はなによりも国民の生活を優先した政治家であり、赤貧という言葉が何よりも似合う人物ですね。
田中正造の簡単年表
田中正造は1841年12月15日に下野国安蘇郡小中村で誕生しました。幼名は幼名兼三郎と言います。時代背景としては水野忠邦が天保の改革を行い始めた頃ですね。3
父富蔵の代わりに小中村の名主として活躍します。幕末期には領主の六角家と対立した結果、入獄を命じられ11ヶ月に及ぶ獄中生活を送りました。その後釈放され、秋田県で役人の仕事に就いたり、地元に戻り生計を立てました。
1878年に区会議員となり、政治活動を始めます。大隈重信の立ち上げた立憲改進党に入党した他、栃木県議会議員として県令の三島通庸と対立しています。一貫して国民の自由と政治への関与を達成する為、正造は奔走しました。
第一回衆議院議員選挙で当選し、正造は衆議院議員となります。1891年には足尾銅山鉱毒事件の被害状況を議会で追及します。しかし政府の対応は冷たく、まともに対応しようとしませんでした。
度重なる追及に政府は耳を貸しませんでした。正造は議員を辞職して明治天皇に直接直訴を行いますが、失敗に終わります。ただこの行動は世論を動かし、足尾銅山鉱毒事件は大きな騒動となりました。
やがて政府は治水工事として谷中村一帯を遊水池にする事を決定します。正造はそれに反対し、自らも谷中村に住み、政府に抵抗する事を決めました。その後も強制破壊や土地の買い上げ等に屈する事なく、この地に住み続けました。
その後も精力的に活動する正造でしたが、胃がんの為に73歳で死去します。正造は鉱毒事件にお金を全て使い果たし、無一文でその生涯を終えたのです。