田中正造とはどんな人?生涯・年表まとめ【足尾銅山事件の活動や名言、死因まで紹介】

田中正造の年表

1841年 – 0歳「田中正造誕生」

田中正造の生家

田中正造誕生

田中正造は1841年に下野国安蘇郡小中村で富蔵とサキの長男として生まれます。田中家は祖父の時代よりこの地の名主であり、豪農ではないものの中等度の財産を持つ家柄でした。ただ現存する生家は割と質素です。

両親の教育

富蔵は温厚な性格で教育熱心な人物でした。正造は富蔵の勧めもあり、7歳の頃に儒学者の赤尾小四郎の元に入門しました。サキは正造の人格形成に多大な影響を与えた人物だと後世に正造が語っています。

サキの教育方針は良くない行動でも①最初は見守る②次に相手を尊重する③最後は断固とした態度で諭すという事を常としていました。正造が芯の強い強情な性格だと見抜くと、7歳の正造にサキはこう言ったそうです。

おまえのように剛情では困る。近所の者もお前のことを悪く言います。

また下僕に怒りをぶつけた正造を、暗闇の戸外に2時間ほど放置した事もありました。正造は立場の低い者に対するいたわりの気持ちが芽生えたそうです。正造の足跡を見ると、母親の教育の影響が大きい事が分かります。

1857年 – 17歳「小中村六角家の名主となる」

栃木県安蘇郡の範囲
出典:Wikipedia

父の昇進に伴い、正造の名主就任が決まる

小中村は複数の大名や旗本に年貢を納める相給制の村でした。その中の一角である高家六角家の財務状況は火の車でしたが、富蔵は六角家の用人の坂田伴右衛門と共に財政整理に勤め、負債償却と黒字化に成功します。

富蔵が功を経て名主の元締めである割元役になると、正造が小中村の名主になりました。正造は両親の教育もあり、新たな寺子屋の創設を行い教育の拡充に努める等、名主としての責務を立派に果たします。

なお1863年、正造は23歳の時に8歳下の隣村の娘大沢カツと結婚しています。

1868年 – 28歳「六角家改革事件により投獄」

戊辰戦争の様子

六角家との対立

1859年に六角家側用人の坂田が病没すると、林三郎兵衛が任に着きます。林は富蔵が蓄えた資産を若君の婚礼費に流用しようとした為、富蔵・正造父子はその計画を中止させます。林は立腹し正造の名主職を罷免させました。

程なく復職を果たしますが、正造は農民に高圧的な六角家に対し、1863年頃から改革運動を開始します。名主同士で結束し、林の罷免や六角家の当主の交代を要求する等、積極的な行動を行います。

11ヶ月に及ぶ投獄

1868年に戊辰戦争が起こると小中村に新政府軍の東山道総督府が現れます。正造達は彼らに六角家の現状を訴え、林達の捕縛に成功します。しかし林達はすぐ釈放され、報復に正造の仲間が入獄される等、争いは激化しました。

この状況下、正造は六角家に対する批判書である「陳情的願書」を作成。これが林達に知られ、正造は仲間の釈放と引き換えに捕縛されました。正造は10ヶ月20日もの間、縦横高さ共に1m程の牢獄に投獄されたのです。

1870年 – 30歳「江刺県の下級役人となる」

五箇条御誓文の原本
出典:Wikipedia

手習塾を開いた後に役人へ

釈放された正造は手習塾を開きます。幕末にかけての正造の行動は村人の尊敬を集め、村民達は正造の食事の準備を進んで行ったそうです。やがて同郷のツテを借りて、江刺県(現秋田県)花輪支庁の下級役人になりました。

1871年2月に上司の木村新八郎が殺害される事件が起こり、正造が逮捕されました。これは物的証拠もなく、よそ者で上役達にも物怖じしない正造をうとましく思い、犯人に仕立て上げたものだと言われています。

正造は無罪を訴えるものの懲役2年9か月を言い渡されます。獄中では様々な本を読み、後の自由民権運動に繋がる思想を学んでいます。やがて木村の息子が正造の無罪を証言した事もあり、1874年2月に無罪放免となります。

小中村へ戻る

その年に小中村に戻るものの母サキは既に死去。しばらくは隣町の石塚村で酒屋蛭子屋の番頭を務めています。

1880年 – 41歳「自由民権運動に身を投じる」

古河市兵衛

栃木県議会議員になる

西南戦争が終結すると、明治政府への不満は武力による解決ではなく、自由民権運動として加熱していきます。正造もこれに呼応し、1878年には区会議員になるなど政治活動を再開します。

主な功績は「自由民権運動の指導者として活動」「栃木県会議員として鬼県令・三島通庸と対立する 」で述べた通りです。なお三島が栃木を去った後は、1886年に正造は栃木県会議長に任命されています。

足尾銅山で大鉱脈が発見される

正造が自由民権運動に身を投じていた1885年に、足尾銅山で大鉱脈が発見。足尾銅山は1877年に実業家古河市兵衛の経営となっていました。古河は鉱山事業の近代化を進め、足尾銅山をアジア有数の銅の産地へと発展させます。

これらの資金は陸奥宗光や、渋沢栄一の援助を得ていました。銅の輸出は日本の財政を支え、日本の国際的な地位を高める事に繋がりました。足尾銅山の開発は日本の近代化には不可欠な存在となっていたのです。

1890年 – 50歳「第一回衆議院議員選挙に当選する」

現在の渡良瀬川

衆議院議員となる

1890年に行われた第1回衆議院議員選挙では立憲改進党に属し、栃木三区から当選します。正造は西南戦争時の土地の売買で得た3000円で選挙費用をまかなうものの、費用は3485円に達しました。

正造は選挙にお金がかかる事と、得た利益がすぐに吹き飛んだ事に衝撃を受けて「驚くべき散財なり」と書き記しています。以降の選挙では費用をかける事なくとも、支持者達が正造に票を投じる事で当選を続けました。

渡良瀬川の視察

足尾銅山の現状については、1885年に下野新聞で報道される等、徐々に世の中に知られていきます。そして1890年に起きた渡良瀬川の大洪水により、上流にあった足尾銅山の鉱毒が周辺の農作物にも被害を与えました。

この時、田んぼの稲が立ち枯れる現象が相次ぎ、大きな騒ぎとなります。更には渡良瀬川付近では死産や目の見えない子供も多く生まれました。正造は周辺一帯の視察を行い、鉱毒事件を議会で取り上げる事を約束したのです。

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