1891年 – 51歳「帝国議会で鉱毒問題を追及する」
政府は公害を取り合わなかった
1891年の議会で正造は「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出。更に以下の正造質問演説を行いました。
とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は足尾銅山から流れて両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を及ぼし、2年も3年も収穫が無かったのである。特に明治23年という年は、1粒も実らない。実らないのみならず植物が生えないのである。
しかしこの訴えを政府は一切無視します。問題に対処する立場の人物は農商務大臣の陸奥宗光でしたが、次男の潤吉が古河の娘の婿養子になっており、古河とは親戚関係にあったのです。
古在由直による汚染水の分析
政府は古河財閥との繋がりに加え、銅が貴重な産業であった為に正造の訴えを一切無視します。政府は農作物の被害の原因は不明と断定し、汚染水の分析も拒否していました。
このような状況下において、1892年に農科大教授の古在由直が農民達の依頼を受け、学術調査を実施。汚染水に銅の化合物が含まれている事を突き止めます。
しかしこの頃から古河財閥は農民に示談を提案。目先のお金を選んで示談に応じる農民もおり、農民達にも意見の対立が出始めるのでした。
1896年 – 56歳「渡良瀬川が再度大反乱を起こす」
日清戦争勃発
1894年に日清戦争が勃発します。挙国一致で戦争に対処する為、与野党、民権派議員も団結して戦争に協力。それは正造も同様でした。示談の進展も相まって、議会での鉱毒事件の追及はしばらくは休止しています。
群馬栃木両県鉱毒事務所を設立
日清戦争の処理もひと段落した1897年に再び渡良瀬川で大洪水が起こります。この年は1年で3度も氾濫し、公害被害は1府5県に及び、大きな社会問題となりました。この年から正造は再び議会で鉱毒問題を追及しています。
やがて鉱毒問題を示談ではなく、足尾銅山鉱業停止を持って解決するべきという意見がまとまります。渡良瀬村に「群馬栃木両県鉱毒事務所」を設立し、鉱毒問題に対する組織作りが活発化するのです。
正造は議会における追及を重視しますが、農民はデモによる直接的な行動に出ます。彼らの行動は「押し出し」と呼ばれ、1897〜1898年に3度にわたり、千人規模で現地から東京まで向かう押し出しを実施します。
これらの行動により農商務省と古河財閥は予防工事を約束し、実際に脱硫装置が作られました。しかし実際のところは効果は薄かったようですね。
1900年 – 60歳「川俣事件」
川俣事件と政党の離脱
1900年2月には4度目の押し出しが行われます。過去の押し出しでは止めるように説得した正造も、今回は止めませんでした。むしろ押し出しの決行日に国会で質問する事を決めました。
しかし4度目の押し出しは東京に向かう途中の群馬県川俣村(現明和町)で、警官隊と大規模な衝突が起こり、多数の逮捕者が出た為に失敗に終わります(川俣事件)。
事件を知った正造はその後の国会で「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という日本の憲政史上に残る大演説を行います。その2日後、正造はその覚悟を持って所属していた憲政本党を離脱しました。
なお総理大臣の山縣有朋は「質問の意味がわからない」と答弁を拒否。正造の思いは伝わりませんでした。その後川俣事件の公判が行われ、正造は検事に憤慨しあくびをします。すると態度が悪いと正造は裁判にかけられたのでした。
1901年 – 61歳「議員の辞職と明治天皇への直訴」
議員を辞職する
正造は政府や議会への期待を一切捨て、1901年10月に議員を辞職。正造は命を捨てるつもりである事を計画します。それが明治天皇への直訴です。
明治天皇への直訴
同年12月10日、正造は帝国議会帰路に着く明治天皇の乗る馬車の前を訪れます。正造は黒の羽織と袴姿の正装に着替え、鉱毒事件の直訴状を高く差し上げて馬車の前に駆け寄りました。
結果、正造は警備の警官に拘束され直訴は失敗に終わります。しかし騒動は東京だけでなく日本中を巻き込みます。各地から義援金が被害地に送られたり、渡良瀬川へ視察に向かう人が続出する等、世論の注目を集めました。
ちなみに直訴直前に妻カツに離縁状を送る等、正造は死を覚悟していました(離縁状はカツは受け取らず)。政府は狂人が馬車の前によろめいただけだとして、正造の行動を不問にしています。
1903年 – 63歳「谷中村に移り住む」
谷中村が貯水池となる
鉱毒事件は世の大きな関心を集めるものの、政府は鉱毒被害に対し「足尾銅山に責任はない」と結論付けました。鉱毒事件は渡良瀬川の治水問題に話がすり替えられ、渡良瀬川下流に貯水池を作る計画を立ち上げます。
1903年には鉱毒事件の先頭に立つ谷中村が貯水池になる計画が持ち上がり、住民による反対運動が起こります。1904年7月に正造は谷中村に移住。結果的にこの地が正造の終の住処となりました。
谷中村が地図から消える
同年に栃木県は谷中村に続く堤防を破壊。谷中村は雨の度に洪水になるのです。12月に栃木県は秘密会で谷中村買収を決議し、谷中村の貯水池計画は着実に進められます。
1906年、とうとう谷中村は藤岡町に合併され地図から消えました。それでも正造をはじめとした百人程の残留民と共に谷中村に住み続けたのです。
1907年 – 67歳「政府が土地収用法の適用を発表」
土地収用法により強制退去を命じられる
立ち退きに応じない村民にしびれを切らした政府は1907年に土地収用法を谷中村に適応。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけた結果、多くの村民はこの地を離れます。
6月29日に残留民の家屋の強制破壊が実施されます。立ち退き先も仮小屋もなく、破壊費用も村民持ちという無慈悲なものでした。それでも諦めない精神に最も感化されたのはむしろ正造だったのです。
正造の心境の変化
それまでの正造は元議員という立場から、残留民、農民を教え諭すものと考えていました。正造は考えを改め、残留民に師事する姿勢を持ち始めます。
正造は残留民と寝食を共にし、彼らの元を去る事はありませんでした。その後の正造は「被害破道に関する質問書」を友人の議員に託す、関東各地の河川工事の実態を調べる等、独自の活動を進めました。