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幕末最強の剣豪とは誰?21人の剣豪を功績や武勇伝と共に紹介!

幕末は、1853年の黒船来航の時期から戊辰戦争が終結した1869年頃の事を指す江戸時代末期ごろの事を言います。この黒船来航の時期は、各地に外国船が襲来し、「異国の人々が日本に攻め込んでくるのではないか」と日本全体が揺れていた時期でもありました。

黒船来航

その異国の襲来に備え、各地の武士や農民たちは、日本や自分の土地を守るべく剣術を習うようになりました。江戸時代中頃には、既に剣術道場が100以上存在し、様々な流派が誕生しておりました。

では、その剣豪ぞろいの幕末期の中でどの人物が最強だったのか。この記事では、幕末好きな筆者が選ぶ剣豪21人について今回はご紹介していきます。

幕末最強の剣豪集団・新選組

近藤勇

近藤勇の概要

近藤勇は、1834年11月9日、武蔵国多摩郡上石原村(現・東京都調布市野水)にて百姓の家である宮川久次郎の下で誕生しました。

1848年に、近藤は天然理心流剣術道場であった「試衛館」という剣術道場に入門します。翌年には目録を取得すると、近藤はこの試衛館の館長であった天然理心流剣術3代目宗家の近藤周助の元へ養子縁組をし、「近藤勇」という名を名乗るようになり、試衛館の館長を継ぐことになりました。

試衛館跡地

1863年には、試衛館時代の弟子であった土方歳三らと共に浪士組へ参加、そして、新選組として京都を警護する役回りを請け負うことになりました。それ以降、新選組として、京都の攘夷派の藩士を鎮圧するなど数々の功績をあげるなど、新選組は京都の町を警護する剣豪集団としてその名が知られるようになりました。

大政奉還後は、近藤ら新選組は旧幕府軍として戦うも、新政府軍の武力の前に圧倒され、各地で敗北を喫することになります。そして、近藤自身も1868年の4月3日に捕縛され、4月25日に板橋宿にて斬首されました。

近藤勇の墓

近藤勇の功績・武勇伝

新選組局長として最後まで幕府のために戦った近藤勇の主な功績はこちらです。

  • 試衛館の館長として、剣術・天然離心流を広めた事
  • 新選組局長として、自ら死番を務めるなど隊士のために命を張った事

この他にも日ごろから刀剣について話していたと記録されており、それだけ刀や剣術の事が好きだったのだなと言うことが伺えます。

沖田総司

沖田総司の墓

沖田総司の概要

沖田総司は、新選組一番隊隊長として有名な剣士です。1842年、もしくは1844年に白河藩藩士の足軽小頭の沖田勝次郎の息子として出生しました。9歳ごろから天然理心流剣術道場であった「試衛館」に入門し、若くして塾頭として塾生に剣術を指南していた事が記録されています。

近藤、土方らと共に新選組として活動し、一番隊隊長として真っ先に切り込んでいったと言われています。また、剣術の腕は近藤勇以上と言われ、新選組の支援者であった小野路村の名主・小島鹿之助は「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べていたそうです。

中でも有名な剣技として、「三段突き」があげられます。三段突きは、平正眼の構えから足音を鳴らさずに三段の突きを繰り出すという剣技で、相当な腕前だったことが分かります。ですが、結核にかかってしまい、沖田総司は若くしてこの世を去りました。

沖田総司の功績・武勇伝

沖田総司の墓がある専称寺

沖田総司の功績は、新選組一番隊隊長として、重要な案件を任されていたことです。

他の隊士とは異なり、朝廷のため、といった政治的ポリシーがないことを非難された記録や、陽気で子供たちと遊んでいたといった記録などがあります。このような部分が、後にフィクションとして描かれる「仲間重いの純情な天才剣士」といった沖田総司像に影響を与えているのではないかと思います。

土方歳三

土方歳三の概要

土方歳三は、新選組の副長を務めた人物で、「鬼の副長」と呼ばれ恐れられた人物です。1839年に誕生し、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)の農家出身で、幼少期から「バラガキ」と呼ばれるほど喧嘩に強かったと言われております。

1859年に天然離心流に入門し、近藤勇とともに義兄弟の契りを結ぶなど、試衛館での絆が深かったと言われております。そして、近藤らと共に浪士組に参加し、新選組結成へと繋がります。

土方歳三像

剣術の腕は、中極位目録までしか記録されていませんが、元来の喧嘩に強かったなどの下地があったためか、実戦では剣術の形に捉われない戦い方をしたことが記録されております。また、最前線などで戦い、斬殺されなかったことから、剣技は相当なものだったと考えられます。

その後、旧幕府軍として戊辰戦争に参加し、最後の激戦地となった箱館戦争にて、土方歳三は銃弾を受け絶命しました。現在も、函館には土方歳三の慰霊碑や土方を称える石像などが建立されております。

土方歳三の功績・武勇伝

五稜郭タワーの土方歳三像

旧幕府軍として最後まで戦った土方歳三。その功績には、このようなものがあります。

  • 新撰組副長として、近藤勇の代わりに隊士へ指示を出していた。
  • 旧幕府軍達の蝦夷島政府にて、陸軍奉行として箱館戦争を戦い抜いた。

最前線で戦いながら、冷静に隊士や軍などに指示を出して戦い抜いてきた土方歳三。その姿は、今でも多くの新選組ファンに愛されております。

斎藤一

斎藤一

斎藤一の概要

斎藤一は、新選組三番隊隊長を務めた人物です。近藤、土方らとは異なり、浪士組に参加せずに、壬生浪士組から参加したという経歴になっています。1844年に誕生したことは記録されていますが、どこで誕生したのか詳しい出自は不明となっています。

20歳の時に、壬生浪士組へ加入し、新選組内では剣術師範として隊士たちに剣術を指導していたと記録されています。剣術の流派については詳細が未だにはっきりしていない部分が多く、一刀流という説や無外流といった説などが多数存在しております。

斎藤が戦いに参加し、旧幕府軍の拠点となった会津若松城

1869年の戊辰戦争へは旧幕府軍として戦うも、新政府軍側に従軍していた松平容保の使者の説得により斎藤ら会津藩士は投降し、謹慎生活などを経て、斎藤は藤田五郎へと改名、斗南藩の藩士として新たな生活を送りました。

その後、斎藤は、藤田五郎という名前に代わり、警視庁に採用されました。西南戦争では政府軍として西郷隆盛らの反乱士族と戦い、晩年は東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立博物館史跡の湯島聖堂)の看守、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛などの要職に就いたと記録され、1915年、72歳の時に胃潰瘍のため逝去しました。

斎藤一の功績・武勇伝

新選組として様々な戦いを生き抜いてきた斎藤一。その功績には次のようなものが挙げられます。

  • 新選組三番隊隊長として、隊内の粛清や剣術指南などを任されていた。
  • 戊辰戦争後も生き永らえ、警視庁の警部補にまで出世した。

他にも、子どもたちに剣術などを教えるなど、実は心の優しい人物だったのではないかと考えられます。

永倉新八

永倉新八

永倉新八の概要

永倉新八は新選組二番隊隊長を務めた人物です。1839年に松前藩江戸定府取次役であった長倉勘次の次男として江戸下谷三味線堀(現・東京都台東区小島2丁目)にて誕生しました。7歳の時に、の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。これをきっかけに剣術好きとなり、松前藩を脱藩するまでに至ります。

それから、剣術修行の旅などを経て、江戸で心形刀流剣術の道場師範代を務めるなど、剣の道を歩みます。そして、天然離心流道場「試衛館」の食客、つまり居候し、近藤勇らと知り合うことになりました。

最晩年の写真(前列中央)

浪士組結成の際は、近藤勇らと共に参加し、新選組結成してからは二番隊隊長、剣術指南役として新選組の中心人物として活躍しました。剣術においては、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と称され、「龍飛剣」といった下段構えから剣を上へ突き上げる技を得意としておりました。

その後、戊辰戦争では旧幕府軍として戦うも、会津藩の降伏を知ると、自身も降伏し松前藩への帰参を認められました。そして、晩年は杉村治備という名を名乗り、刑務所の剣術師範、牛込に剣術道場を開くなど剣術を生かした余生を過ごし、1915年に骨膜炎と敗血症の併合により、小樽にて77歳で逝去しました。

永倉新八のお墓

永倉新八の功績・武勇伝

剣士として新選組を支えた永倉新八。その功績にはこのようなものがあります。

  • 土方などが負傷時には、副長代理として指示を出していた。
  • 明治以降、新選組の生き残りとして新選組の顕彰に努め、近藤・土方らの墓の建立に尽力。

また、小樽新聞の記者である吉島力の取材に協力し、「新選組顛末記」という著作を残し、それまで悪の人斬り集団というイメージであった新選組を、再評価させるといった契機を作ったのも、偉大な功績の一つです。

服部武雄

服部が使用した二天一流

服部武雄の概要

服部武雄は、新選組の隊士である剣豪です。1864年に伊東甲子太郎らと共に新選組に入隊し、五番隊の隊士として所属し、諸士調役兼監察(スパイのような役割)、及び剣術指南役なども務めました。剣術の流派は宮本武蔵が開祖した二天一流であったと言われ、二刀流の達人でもあったと言われています。

1867年に近藤らと対立し、新選組を脱退した伊東甲子太郎らによって結成された御陵衛士に服部は参加。ですが、これを粛正すべく、新選組は伊東甲子太郎を暗殺。その後、遺体を油小路に置き、引き取りに来た御陵衛士達を一斉に粛正するという策を立て、御陵衛士達を暗殺しました。これが、油小路事件です。

服部は、油小路事件において、二本の太刀を使い、新選組30人を相手に奮闘したと言われております。その気迫には、他の隊士も苦戦し、最後は槍術使いの原田左之助により絶命しました。

服部武雄の功績・武勇伝

油小路事件跡地

服部の武勇伝として有名なのが、油小路事件です。

この事件を見ていた桑名藩士の小山正武は、「其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」と、壮絶な最期を語っています。

入隊が遅かったために、正確な記録などは残っておりませんが、新選組内ではかなり上位の剣術使いだったのかもしれません。

服部武雄の墓

芹沢鴨

芹沢鴨

芹沢鴨の概要

芹沢鴨は、新選組の初代局長である人物です。しかし、出自は未だに不明な部分が多く、出生年や出身地などは未だに分かっておりません。近年の研究から、1832年に誕生したという説が有力となっていますが、真相は未だに不明です。

浪士組結成の際、新見錦、平山五郎などと共に参加し、そのまま京都に残り、壬生浪士組に参加しました。神道無念流の免許皆伝を持ち、剣術の腕は確かだったものの、脅迫・酒席での乱暴など、かなり粗暴な性格だったために、問題も多く起こしておりました。

なかでも、大阪へ下った際、すれ違いの際に道を譲らなかったとして、小野川部屋の力士に暴行し、その後駆け付けた力士と乱闘し、力氏側に死傷者が出るといった事件などがあります。

角屋もてなし文化美術館

そして、1863年に島原の角屋という店で芸妓と共に酒席を開いた後、壬生浪士組の協力者であった八木邸にて寝ているところを数人の男たちに襲撃され、あっけなく斬殺されました。

この事件の発端は、壬生浪士組としての仕事を果たさない芹沢派の新見錦らに憤慨した近藤、土方らの手によって実行され、表向きは長州藩士によって暗殺された、という事になりました。ですが、暗殺の経緯については未だに新説が出るなど、詳しい詳細は分かっておりません。

芹沢鴨の功績・武勇伝

芹沢鴨の具体的な功績にはこのようなものがあります。

  • 壬生浪士の頭取として、浪士組をまとめたこと。
  • 新選組として、八月十八日の政変に御所の警護についたこと

また、近年の研究では子どもと陽気に遊んでいたという記録なども残っており、それまでの悪人というイメージが変わりつつある人物でもあります。

幕末三剣士と四大人斬り

男谷信友

男谷信友を題材にした漫画「竜車の剣」

男谷信友の概要

男谷信友を描いた小説「空の剣」

男谷信友は、別名男谷精一郎と呼ばれ、幕末の剣聖と呼ばれるほどの剣術使いとして有名な人物です。1798年に視覚障害者でありながら鍼医として大成した男谷検校の孫である男谷信連の息子として誕生しました。

1805年、8歳の時に直心影流剣術の団野源之進に入門し、他にも兵法や槍術、射術など様々な分野を学んでおりました。そして、1824年に麻布狸穴に道場を開き、剣術界の改革に励むようになりました。

主な改革として、それまであまり行われなかった他の剣術との他流試合を推奨し、信友は積極的に他流試合を行ったと言われております。信友は、江戸中の剣客たちと他流試合を行い、立ち会わなかった者はいないと言われるほど、多くの剣客と他流試合を行いました。

そして、天保期に入ると、幕府は幕臣の武芸訓練機関となる講武所を設立し、信友はその講武所の頭取並に就任し、形稽古ではなく、竹刀を用いた実戦形式の稽古を多く行いました。また、竹刀の長さを決めるなど、現代の剣道において大きな影響を与えたと言われています。

男谷信友の功績・武勇伝

男谷信友の功績をまとめるとこのようなものになります。

  • 他流試合を広く行い、剣術界を活発化させたこと。
  • 竹刀の長さを制定し、現代の剣道にまで大きな影響を与えた。

また、信友はその強さが異常と言われるほどの剣の腕が立つ人物ではありましたが、傲慢な態度をとることはなく、温和な人格者でもあったことから「君子の剣」とも称されていたそうです。

島田虎之助

マンガ・中津市郷土の偉人シリーズ第四弾
島田虎之助 剣は心なり

島田虎之助の概要

島田虎之助は、幕末の三剣士に数えられる剣士の1人です。1814年に、豊前中津藩士であった島田市郎右衛門親房の子として生まれ、10歳の頃から藩の剣術師範を務めていた堀十郎左衛門の下で剣術修行を行いました。

1831年頃から江戸を目指し、その間に下関や近江水口藩で管楽を学ぶなど様々な経験をし、7年後に江戸へやって来ました。

江戸に着くと、島田は当時評判だった男谷信友の道場へ行き、他流試合を申し込みました。島田は男谷と三本勝負を行い、一本奪取するも、結果的には敗れてしまいました。実は、これは男谷の作戦であり、三本中一本は必ず取らせるというものだったのです。

別の道場にてその事を知り、島田はその道場の紹介状を持参し、再度対決を男谷に申し込むと、以前の時とは違い、男谷の眼光に圧倒され手も足も出ないまま道場の隅まで追いやられたと言われております。そして、島田は男谷の弟子となりました。

その後、島田は浅草の新堀に道場を開き、武蔵国忍藩五代目藩主である松平忠敬の出入り師範として俸禄を貰っておりました。しかし、1852年に病のため39歳の時に逝去しました。

島田虎之助の功績・武勇伝

島田の主な功績として挙げられるのは、男谷の門弟として、様々な人物に男谷の教えを伝授していたことです。

39歳という若さで亡くなった時、師匠である男谷は「片腕を失った」と嘆いたそうです。それだけ、島田の存在は男谷にとっても大きかったのではないでしょうか。

島田虎之助の名言

島田が残した言葉の中に、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉があります。これは、剣とは心であり、心が正しくないものは剣も正しくない、剣を学ぶ者は心を学べ、という意味です。

また、一説によると島田は勝海舟の剣の師匠としても知られており、剣術を通して心を学ぶという大事さを様々な人物に伝授していたのかもしれません。

大石種次

大石神影流

大石種次の概要

大石種次は、男谷信友、島田虎之助と並び、幕末の三剣士の1人として名を連ねている剣豪です。1797年に、筑後国三池郡宮部村(現・福岡県大牟田市大字宮部)柳河藩士であった大石種行の次男として誕生しました。

大石家は祖父の種之が新陰流の剣術、また大島流槍術剣槍術の師範であったため、種次は4歳ごろから剣術修行を学んでおりました。その後、種次は18歳の時に、ある御前試合の敗北をきっかけに、独自の剣技である「左片手突き」を編み出し、大石神影流を称するようになりました。

1822年には新陰流の免許皆伝を取得し、九州各地へ剣術修行したのち、1825年に父の種之が亡くなった後、家督を継ぎ、柳河藩の剣槍術師範として、藩士たちに剣術指導を行うようになりました。

1832年に江戸へ出向後、様々な道場にて他流試合を行い、1839年には、老中であった水野忠邦の前で島田虎之助などと御前試合を行うほどの高名な剣士であったと言われています。そして、1848年には息子の種昌に家督を譲り、自身は隠居し、1863年に67歳でこの世を去りました。

大石種次の功績・武勇伝

大石種次の墓

そんな大石種次の武勇伝として語られるのが、独自の剣術である「大石神影流」を18歳で開祖し、江戸で大石旋風を起こしたことです。

1832年に藩から江戸へ出向を命じられると、種次は江戸の名門道場への他流試合を申し込みました。種次は身長7尺(約2m)あり、5尺3寸の長竹刀を使用し、左片手突きで様々な剣士たちと渡り合い、ほとんどの道場が種次の前に敗れ去ったと言われています。

中でも、翌年である1833年には、幕末の剣聖こと男谷信友と試合を行い、初日は敗れたものの、翌日、前日の反省を生かし、少し狙いを下げてから突きを狙うという戦法で男谷から勝利しました。この勝利は祖国にも知られ、帰国後には60石の石高が与えられました。

男谷からの勝利は、勝海舟の記録にも「御一新以上の騒ぎ」と記録されており、また江戸の剣術界の間で長竹刀が流行ったそうです。また、現在も、種次が開祖となった大石神影流は、故郷である大牟田市や柳川市に受け継がれております。

田中新兵衛

田中新兵衛の愛刀・奥和泉守忠重のレプリカ

田中新兵衛の概要

田中新兵衛は、幕末の四大人斬りとして知られる剣豪です。薩摩藩の藩士で、1832年に船頭の子として誕生したと言われております。幼少期から武芸に励んでいたと記録され、剣術の流派は薩摩藩を中心に伝わったとされる示現流ではないかという説が有力です。

1862年ごろに京都へ上ると、尊王派の藩士であった小河弥右衛門から、安政の大獄にて井伊直弼の家臣であった長野主善に協力し、京都で権力をたてに横暴をふるっていたという島田左近がいるという報せを受け、6人でこれを暗殺する計画を立てました。

最初は失敗するも、1か月間、島田を付け回した挙句、最後は木屋町にて3人で襲撃し、鴨川の河原で斬首。その首を先斗町にて晒し首にしたそうです。ここから、京都内で「天誅」という暗殺運動が活発になったのです。

田中新兵衛の功績・武勇伝

姉小路公知

田中新兵衛の功績として語られるのが、「姉小路公知の暗殺」です。

1863年7月に、過激攘夷派論者として知られた公卿の姉小路公知が暗殺されるという「朔平門外の変」が発生し、現場に残されていた新兵衛の愛刀であったことから、容疑者として新兵衛は捕縛されました。

京都の町奉行であった永井主水正は、新兵衛を容疑者として尋問にかけるも、一言も話さず、最期は隙をついて脇差で切腹し、そのまま絶命しました。この「朔平門外の変」は、後の「八月十八日の政変」の遠因とされており、新兵衛の暗殺により幕末が大きく動いたと言っても過言ではないかもしれないです。

映画「人斬り」

ちなみに、1969年に公開された五社英雄監督の「人斬り」という映画では、田中新兵衛役に作家である三島由紀夫が演じております。

河上彦斎

河上彦斎

河上彦斎の概要

河上彦斎は、幕末四大人斬りに数えられる剣豪の1人です。肥後細川藩熊本城下の新馬借町(現・熊本市中央区新町3丁目)にて、下級藩士であった小森貞助の次男として誕生し、のちに下級藩士の河上源兵衛の養子となり、河上彦斎となりました。

16歳ごろから、儒学や国学を学び、攘夷論者としての思想を持つようになりました。剣術は我流で学んだと言われていますが、片手抜刀の天才であったと伝えられており、このことから熊本畔で流行していた伯耆流居合を学んでいたのではないかという説が有力視されています。

彦斎は京へ上り、各藩士と交流を深めながら情勢を知った後、熊本藩に戻り、攘夷を説こうとするも、藩の実権は既に佐幕派が握っており投獄されてしまいました。そして、大政奉還などは獄中で経験することとなります。明治維新後も彦斎は攘夷論者として活動するなど、政府の開国政策には反対する立場にいたそうです。

河上彦斎の墓

その後、彦斎は二卿事件、参議であった広沢真臣暗殺事件に関与したという疑いをかけられ、1872年1月に日本橋小伝馬町にて斬首されました。これは、攘夷論者であった彦斎を粛清するための政府側の陰謀であったと言われています。

河上彦斎の功績・武勇伝

佐久間象山

河上彦斎の人斬り事件の中でも有名なのは、1864年の7月に、京都を闊歩していた思想家・佐久間象山を衝動的に斬殺したことです。主な原因として、この時に使用していた西洋の馬の鞍を見て、神聖な京都が汚されていると感じ実行したそうです。

河上彦斎がモデルとなった漫画
「るろうに剣心」主人公・緋村剣心

それだけの恐怖心を与えていた彦斎ですが、容姿は女性のような容姿をしていたと言われており、他にも頑固な性格であった反面、人情に厚く、妻子を大事にしたと言われています。また、漫画「るろうに剣心」の緋村剣心は、この彦斎をモデルにしたと言われています。

岡田以蔵

岡田以蔵の墓

岡田以蔵の概要

岡田以蔵は、幕末の四大人斬りの1人に数えられる人物です。土佐国香美郡岩村(現・高知県南国市)にて、郷士の岡田義平の長男として誕生しました。

剣術は、土佐一の剣豪と呼ばれた小野派一刀流の麻田直養の下で修行し、江戸に上り、江戸三大道場の一つである桃井春蔵の士学館にて鏡心明智流剣術を学びました。その後、武市瑞山らが結成した土佐勤皇党に加盟し、瑞山と共に行動を共にしました。

その後は、土佐藩の上士である目付であった井上佐市郎、勤王志士の本間精一郎、志士弾圧に協力した公卿・宇郷重国といった人物を天誅し、仲間内から天誅の名人と呼ばれていたそうです。

勝海舟

また、一時期、坂本龍馬からの依頼で勝海舟の警護を担当していたという逸話が残っており、のちに司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にもその場面が描かれております。

1864年には、犯罪者として捕縛され焼印・入墨の刑に処され、京都を追放され土佐藩へ引き渡しとなり、土佐藩では吉田東洋暗殺に関わったとして監獄に入れられました。この時に、勤王党の内情を全て自白してしまい、勤王党衰退の原因を作りました。そして、1865年に打ち首・獄門となり、28歳でこの世を去りました。

岡田以蔵の功績・武勇伝

岡田以蔵の功績として挙げられるのは以下の出来事です。

  • 土佐勤皇党や薩摩藩士などらと共に尊王攘夷派の弾圧に関与した者達への天誅を行ったこと。
  • 捕縛され、全てを自白したことで、土佐勤皇党が壊滅する原因となったこと。
司馬遼太郎「人斬り以蔵」

ちなみに、「人斬り以蔵」と言う異名は司馬遼太郎が1964年に発表した短編「人斬り以蔵」からついたとされていて、この作品での岡田以蔵像が他の作品への影響などを与えております。ただし、作中で貧民出身として描かれていますが、実際は一般的な郷士の家で育ったというのが研究などで判明しております。

中村半次郎

中村半次郎

中村半次郎の概要

中村半次郎は、幕末の四大人斬りに数えられる人物です。鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現・鹿児島県鹿児島市吉野町)にて、薩摩藩士・中村与右衛門の三男として誕生しました。

少年期に、父が罪を着せられ徳之島へ流罪になるなど壮絶な幼少期を過ごしながらも、薩摩藩を中心に広まっていた剣術流派・示現流に打ち込み、剣術の腕を挙げていきました。そして、1862年に島津久光に同行し、京へ上りました。

赤松小三郎

京に上ってからは、小松帯刀や西郷隆盛らに重用され、討幕の意思を持つようになりました。そして、1867年に薩摩藩で陸軍を教えていた軍学者であり公武合体派の人物であった赤松小三郎を暗殺しました。これは、赤松が佐幕派や討幕派など分け隔てなく接していたため、薩摩の情報が漏洩するのではないかと思われていたためです。

この一件により、半次郎は「人斬り半次郎」と呼ばれることになりますが、実際に暗殺をした記録はこの一件のみだそうです。その後、半次郎は戊辰戦争では新政府軍として参加し、様々な功績を挙げました。

会津若松城天守閣

中でも、会津藩が降伏し、会津若松城が開城し、受取人としてやってきた半次郎は、会津藩のことを思い男泣きをしたと記録されています。それだけ、情に厚い人物だったということが伺えます。

明治維新後は桐野利秋と改名し、明治政府において陸軍少尉に就くも、征韓論にて大久保利通らと対立し、西郷と共に辞表を提出、薩摩へと下野しました。その後、薩摩では軍人による私学校が開校し、半次郎はそこに参加。そして、1877年に私学校の生徒や西郷隆盛らと共に西南戦争へ参加し、最後は政府軍の銃撃により戦死しました。

中村半次郎の功績・武勇伝

中村半次郎の功績にはこのような物が挙げられます。

  • 人斬りとして赤松小次郎を暗殺したこと。
  • 西南戦争において、私学性の士族達や西郷隆盛らと共に新政府へ反乱を起こしたこと。

半次郎の人物像はきわめて秀才であったと言われ、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」であったと称賛しておりました。また、剣術については、軒先から雨粒が落ちるまでに三度抜刀したという伝説的な逸話が多く残っています。

その他の代表的な剣豪たち

坂本龍馬

坂本龍馬の概要

坂本龍馬は、薩長同盟を結ぶなど幕末期に活躍した人物の一人です。剣術は、北辰一刀流の桶町千葉道場にて免許皆伝し、地元である土佐藩では日根野道場の師範なども務めておりました。

どちらかと言えば、拳銃などのイメージが強い竜馬ですが、剣の腕は相当なものであったと言われています。これまでに龍馬は剣術修行で2回江戸に修行に出ており、桶町千葉道場にて千葉周作の弟である千葉定吉の下で北辰一刀流を学びました。

1858年には定吉から「北辰一刀流長刀兵法目」の免許皆伝を授けられました。これは、薙刀術の目録であり、長年「剣術は貰っていないのでは?」という見解がされていましたが、2017年には剣術の目録が発見されました。

その後、脱藩し、1862年から勝海舟の弟子になると、神戸海軍操練所の設立、亀山社中、薩長同盟の成立など、独自のやり方で国を変えようと各地を奔走します。そして、大政奉還後、1867年11月15日に、京都・近江屋にて中岡慎太郎と共に何者かに暗殺され、35歳で亡くなりました。

坂本龍馬の功績・武勇伝

坂本龍馬の功績と言うと、いくつかありますが代表的なものを挙げると以下のようなものになります。

  • 薩長同盟を成立させたこと日本初の商社である「亀山社中」を創業したこと
  • 後の明治政府の政策の元になる「船中八策」を草案したこと

この他にも、神戸海軍操練所の設立など、ありますが、詳しく知りたい方は当サイトの坂本龍馬のページをご参照ください。

竜馬の愛刀・陸奥守吉行

龍馬は、人を斬ることをあまり好まず、生涯に人を斬ったことはなかったと言われています。また、刀剣を大事に扱っていたと言われており、中でも近江屋事件の際に最後まで所持していたという「吉行」は、兄である権平から貰ったものであると、周囲に自慢していたそうです。

また、他にもいくつか刀剣を所持していたとされ、三吉慎蔵に形見として渡された伝相州正宗の無銘刀や、姉の乙女に渡された刃渡り二尺四分直刀の銘備前修理亮盛光など、刀剣コレクターとしての一面もあったのではないかと思われます。

桂小五郎

木戸孝允(桂小五郎)

桂小五郎の概要

桂小五郎は、長州藩士であり、木戸孝允として明治維新後、政府の参与として活躍した人物です。1846年には長州藩にて剣術師範である柳生新陰流の内藤作兵衛の道場に入門し、その後、江戸へ剣術修行に上り、江戸三大道場の一つである神道無念流の道場である練兵館に入門しました。

それから、幕末期は主に変名を用いながら、長州藩における尊王攘夷派のリーダーとして、他藩などのとの外交などを担当し、薩長同盟締結などにも大きく関わりました。明治維新後は、木戸孝允と言う名前になり、新政府の参与として五か条の御誓文の草案や廃藩置県と言った日本の近代化を進めておりました。

木戸孝允の墓

1877年には、明六年の政変にて下野した西郷隆盛らを掃討すべく、京都へ出勤するも持病が悪化したために5月26日に京都の別邸にて大久保利通らに看取られ、45歳で亡くなりました。最期は、「西郷もいいかげんにしないか」と西郷隆盛や明治政府を案じた言葉を残したと言われています。

桂小五郎の功績・武勇伝

桂小五郎の功績は数多くありますが、大きくまとめるとこのようになります。

  • 尊王攘夷派の指導者として、長州藩を幕府の敵から、明治維新の原動力に押し上げた事。
  • 維新後、参与として日本の近代化・富国強兵などを進めた事。
練兵館跡地

剣術においては、入門1年で塾頭になるなどその腕は確かなもので、同時期に免許皆伝を取得した大村藩の渡辺昇と共に、練兵館の双璧と称され、その実力は男谷信友の直弟子を破るなどのものであったと言われています。また、2017年に発見された資料によると、他流試合にて坂本龍馬と対戦し、2対3で竜馬に勝利したという記録が発見されました。

千葉周作

千葉周作

千葉周作の概要

千葉周作は北辰一刀流の創始者である人物です。出自は不明だったのですが、近年の研究により、宮城県気仙沼市出身であることが有力であるという見方がされました。幼少期から、北辰夢想流、一刀流中西派など様々な剣術を学び、北辰夢想流と一刀流中西派を合わせた北辰一刀流を開祖しました。

千葉周作の功績・武勇伝

千葉周作の大きな功績と言えば「北辰一刀流」を開祖したことです。

千葉周作の墓

1822年に、江戸に「玄武館」という道場を設立し、数多くの門弟に北辰一刀流を伝授しました。その中には、清河八郎、山岡鉄舟、新選組の山南敬助と言った人物を輩出しました。また、弟である千葉定吉の方には坂本龍馬などが在籍し、数多くの藩士に北辰一刀流が伝授されました。

江戸では、「技の千葉(玄武館)、力の斎藤(練兵館)、位の桃井(士学館)」と呼ばれ、三大道場の一つとして評され、その形稽古の方法などは現代の剣道においても大きな影響を与えた人物として知られています。

寺田宗有

寺田宗有の概要

寺田宗有は、高崎藩士であり千葉周作に影響を与えた人物です。高崎藩士である寺田五郎右衛門宗定の子として生まれた宗有は、15歳の時に中西派一刀流の中西道場に入門し剣術を学びました。しかし、この道場の主流であった打ち込み稽古に不満を持ち、17歳の時に辞めてしまいます。

その後、宗有は平常無敵流の池田八左衛門成春の元に入門し、木刀による形稽古を基盤とする組太刀の研究に励み、弟子である白井亨や千葉周作などに影響を与えました。その後、天真一刀流を開祖し、白井亨がその道統を継ぐこととなります。

寺田宗有の功績・武勇伝

主な功績としては、香川県にある金刀比羅神社の分霊を高崎藩へ勧請するといった功績を残し、現在でも群馬県高崎市新後閑町にある琴平神社には、その功績を伝える看板が設置されております。

寺田宗有の逸話が残る琴平神社

剣豪の逸話としては、1815年に藩主のお供として東海道を下っている時に、持参していた竹光(竹で出来た刀に似せたもの)を落とした際、それを見て駕籠かきが笑ったと言います。宗有は苦笑しながら、気に入らぬ者がいるとすぐに首を落としてしまうために真刀を持参しないようにしていると言いつつも、竹光も正宗の名刀であると言い、近くの大きな石を真っ二つに切ったと言われています。

竹光

模造刀でありながらも、石をも切り伏せるという伝説を持った宗有は、実戦ではどれぐらい強かったのか気になりますね。

榊原健吉

榊原健吉

榊原健吉の概要

榊原健吉は、明治時代に「最後の剣客」と呼ばれた人物です。1830年に江戸の麻布・広尾にて御家人の榊原益太郎友直の長男として誕生しました。1842年には男谷信友の直心影流剣術の道場に入門し、途中母の死去や家が貧乏で会ったことなどを乗り越え、1849年に免許皆伝を取得しました。

1856年には男谷の推薦で、幕府の武芸訓練機関である講武所の教授方のち師範となり、1860年には将軍徳川家茂らが臨席する模範試合に出場し、槍術の高橋泥舟との戦いで見事勝利を収めました。このことから、健吉は家茂の個人教授をも務めるようになりました。

浮世絵に描かれた榊原健吉

家茂が死去すると、健吉は江戸の下谷車坂にて道場を開き、明治維新にはあまり深くかかわらなかったそうです。明治維新後は、散髪脱刀令などの影響を受けた士族のために、浅草にて見世物として撃剣興行を開き、士族たちの生活を守りつつ、剣術の命脈も守ったと言われています。

榊原健吉の功績・武勇伝

榊原健吉の武勇伝として名高いのは「天覧兜割り試合」です。

兜割にて同田貫正国で割ったとされる兜の模造品

1887年に、明治天皇が伏見宮を訪れた際に開かれた天覧兜割り試合に参加し、名刀「同田貫正国」を使用し、兜割に見事成功したと言われています。晩年は、車坂の道場にてお雇い外国人など様々な人物を指導し、中にはフェンシングの名手もいたそうです。そして、1894年に道場を弟子に譲り、9月に心不全のため65歳で亡くなりました。

佐々木只三郎

竜馬を暗殺した近江屋事件

佐々木只三郎の概要

佐々木只三郎は、京都見廻組の隊士であり、坂本龍馬を暗殺した近江屋事件の実行犯と言われている人物です。1833年に陸奥国の会津藩領内の藩士である佐々木源八の三男として誕生し、親戚であった旗本の佐々木弥太夫の養子となりました。

剣術は、神道精武流という流派を学び、「小太刀日本一」の腕前を持つと伝えられ、講武所の剣術師範を務めたことなども記録されています。また、兄の手代木直右衛門と共に、清河八郎の浪士組結成のきっかけを作った人物であるとされています。

会津まつりにて京都見廻組に扮する人々

それから、佐々木は清河八郎を暗殺し、旗本の松平忠敏を中心にした新徴組を結成。1864年には新選組と共に京都を警護する京都見廻組に参加し、隊士として京都を警護しました。

大政奉還後は、戊辰戦争に参加し、旧幕府軍として鳥羽・伏見の戦いに参戦。脇腹に銃弾を受け、和歌山への敗走中に亡くなりました。また、死の間際に兄から「貴様は今までずいぶん人を斬って来たのだから、これくらいの苦しみは当然だろう。」と言われたそうです。

佐々木只三郎の功績・武勇伝

佐々木只三郎の武勇伝として知られるのが「坂本龍馬の暗殺」です。

1867年11月には坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が襲撃される近江屋事件が発生。同じく見廻組の隊士であった今井信郎の証言では、佐々木只三郎が実行犯であったと言われています。確かに、只三郎なら、剣の達人であった竜馬を切り伏せるだけの実力を持っていたかもしれません。

白井亨

白井亨が開祖した天真伝兵法

白井亨の概要

白井亨は、天真伝兵法の開祖となった人物です。1783年に江戸の町人であった大野家にて誕生し、母方の祖父であった信州の白井彦兵衛の養子となりました。彦兵衛が亡くなると、亨は機迅流の依田秀復の元へ入門し剣術を学びました。

1797年には、江戸で評判だった一刀流中西道場に入門。同門には、寺田宗有、千葉周作、高柳又四郎といった剣士たちがおり、亨はその中で必死に剣術を学んだそうです。それから、亨は1805年委武者修行の旅に出ることになり、神道無念流の道場や馬庭念流といった様々な剣客たちと試合を行ったそうです。

その後、兄弟子であった寺田宗有と試合をし、60歳を超えてもなお気迫のこもった寺田に敗北し、亨は寺田に弟子入りすることになりました。その後、寺田の後を継ぎ、白井は天真一刀流の二代目を継承しました。のちに、天真一刀流は弟子に継ぎ、亨は天真伝兵法を創始しました。そして、1843年に江戸で死去いたします。

白井亨の功績・武勇伝

白井亨の功績として挙げられるのは「天真一刀流」を継いだことなどが挙げられます。また、武勇伝として有名なのが、大石種次との一戦です。

1832年には当時、江戸の道場を回っていた大石種次と試合を行い、唯一江戸の道場で亨は大石から勝利し、江戸の剣術道場の面目を保ったと言われています。また、亨の稽古を受けたという勝海舟は「真に不思議なものであったよ」と述べ、神通力のような力を持った人物であったと称賛してます。

幕末の最強武士に関するまとめ

これまで、21人をご紹介しましたが、剣術の他流試合での強さ、実戦での強さなど基準がそれぞれに異るため、ひとえにこの人が最強であると判別するのは非常に難しいです。

また、紹介した人物以外にも、「千葉の子天狗」と言われ勝率9割以上を誇った千葉栄次郎や、「新徴組」の一員として戦った女性剣士の中沢琴などまだまだ剣豪エピソードを持っている人物は多数います。

個人的に、筆者が最強と思う剣豪は寺田宗有、白井亨と並び「中西道場の三羽烏」として知られる高柳又四郎です。高柳は、小説家である中里介山が書いた小説「大菩薩峠」に登場する主人公・机竜之介のモデルになったとされ、「音無しの剣」という自分の竹刀を触れさせずに勝つという漫画のような剣豪です。

本記事は、そういった人物たちが政治思想や国を変えるために奔走したという幕末と言う時代に興味を持っていただければ幸いです。本記事をきっかけに、他の幕末についての出来事などを参照してみてはいかがでしょうか。

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