幕末最強の剣豪とは誰?21人の剣豪を功績や武勇伝と共に紹介!

幕末は、1853年の黒船来航の時期から戊辰戦争が終結した1869年頃の事を指す江戸時代末期ごろの事を言います。この黒船来航の時期は、各地に外国船が襲来し、「異国の人々が日本に攻め込んでくるのではないか」と日本全体が揺れていた時期でもありました。

黒船来航

その異国の襲来に備え、各地の武士や農民たちは、日本や自分の土地を守るべく剣術を習うようになりました。江戸時代中頃には、既に剣術道場が100以上存在し、様々な流派が誕生しておりました。

では、その剣豪ぞろいの幕末期の中でどの人物が最強だったのか。この記事では、幕末好きな筆者が選ぶ剣豪21人について今回はご紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

幕末最強の剣豪集団・新選組

近藤勇

近藤勇の概要

近藤勇は、1834年11月9日、武蔵国多摩郡上石原村(現・東京都調布市野水)にて百姓の家である宮川久次郎の下で誕生しました。

1848年に、近藤は天然理心流剣術道場であった「試衛館」という剣術道場に入門します。翌年には目録を取得すると、近藤はこの試衛館の館長であった天然理心流剣術3代目宗家の近藤周助の元へ養子縁組をし、「近藤勇」という名を名乗るようになり、試衛館の館長を継ぐことになりました。

試衛館跡地

1863年には、試衛館時代の弟子であった土方歳三らと共に浪士組へ参加、そして、新選組として京都を警護する役回りを請け負うことになりました。それ以降、新選組として、京都の攘夷派の藩士を鎮圧するなど数々の功績をあげるなど、新選組は京都の町を警護する剣豪集団としてその名が知られるようになりました。

大政奉還後は、近藤ら新選組は旧幕府軍として戦うも、新政府軍の武力の前に圧倒され、各地で敗北を喫することになります。そして、近藤自身も1868年の4月3日に捕縛され、4月25日に板橋宿にて斬首されました。

近藤勇の墓

近藤勇の功績・武勇伝

新選組局長として最後まで幕府のために戦った近藤勇の主な功績はこちらです。

  • 試衛館の館長として、剣術・天然離心流を広めた事
  • 新選組局長として、自ら死番を務めるなど隊士のために命を張った事

この他にも日ごろから刀剣について話していたと記録されており、それだけ刀や剣術の事が好きだったのだなと言うことが伺えます。

沖田総司

沖田総司の墓

沖田総司の概要

沖田総司は、新選組一番隊隊長として有名な剣士です。1842年、もしくは1844年に白河藩藩士の足軽小頭の沖田勝次郎の息子として出生しました。9歳ごろから天然理心流剣術道場であった「試衛館」に入門し、若くして塾頭として塾生に剣術を指南していた事が記録されています。

近藤、土方らと共に新選組として活動し、一番隊隊長として真っ先に切り込んでいったと言われています。また、剣術の腕は近藤勇以上と言われ、新選組の支援者であった小野路村の名主・小島鹿之助は「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べていたそうです。

中でも有名な剣技として、「三段突き」があげられます。三段突きは、平正眼の構えから足音を鳴らさずに三段の突きを繰り出すという剣技で、相当な腕前だったことが分かります。ですが、結核にかかってしまい、沖田総司は若くしてこの世を去りました。

沖田総司の功績・武勇伝

沖田総司の墓がある専称寺

沖田総司の功績は、新選組一番隊隊長として、重要な案件を任されていたことです。

他の隊士とは異なり、朝廷のため、といった政治的ポリシーがないことを非難された記録や、陽気で子供たちと遊んでいたといった記録などがあります。このような部分が、後にフィクションとして描かれる「仲間重いの純情な天才剣士」といった沖田総司像に影響を与えているのではないかと思います。

土方歳三

土方歳三の概要

土方歳三は、新選組の副長を務めた人物で、「鬼の副長」と呼ばれ恐れられた人物です。1839年に誕生し、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)の農家出身で、幼少期から「バラガキ」と呼ばれるほど喧嘩に強かったと言われております。

1859年に天然離心流に入門し、近藤勇とともに義兄弟の契りを結ぶなど、試衛館での絆が深かったと言われております。そして、近藤らと共に浪士組に参加し、新選組結成へと繋がります。

土方歳三像
出典:Wikipedia

剣術の腕は、中極位目録までしか記録されていませんが、元来の喧嘩に強かったなどの下地があったためか、実戦では剣術の形に捉われない戦い方をしたことが記録されております。また、最前線などで戦い、斬殺されなかったことから、剣技は相当なものだったと考えられます。

その後、旧幕府軍として戊辰戦争に参加し、最後の激戦地となった箱館戦争にて、土方歳三は銃弾を受け絶命しました。現在も、函館には土方歳三の慰霊碑や土方を称える石像などが建立されております。

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