土方歳三の功績・武勇伝
旧幕府軍として最後まで戦った土方歳三。その功績には、このようなものがあります。
- 新撰組副長として、近藤勇の代わりに隊士へ指示を出していた。
- 旧幕府軍達の蝦夷島政府にて、陸軍奉行として箱館戦争を戦い抜いた。
最前線で戦いながら、冷静に隊士や軍などに指示を出して戦い抜いてきた土方歳三。その姿は、今でも多くの新選組ファンに愛されております。
斎藤一
斎藤一の概要
斎藤一は、新選組三番隊隊長を務めた人物です。近藤、土方らとは異なり、浪士組に参加せずに、壬生浪士組から参加したという経歴になっています。1844年に誕生したことは記録されていますが、どこで誕生したのか詳しい出自は不明となっています。
20歳の時に、壬生浪士組へ加入し、新選組内では剣術師範として隊士たちに剣術を指導していたと記録されています。剣術の流派については詳細が未だにはっきりしていない部分が多く、一刀流という説や無外流といった説などが多数存在しております。
1869年の戊辰戦争へは旧幕府軍として戦うも、新政府軍側に従軍していた松平容保の使者の説得により斎藤ら会津藩士は投降し、謹慎生活などを経て、斎藤は藤田五郎へと改名、斗南藩の藩士として新たな生活を送りました。
その後、斎藤は、藤田五郎という名前に代わり、警視庁に採用されました。西南戦争では政府軍として西郷隆盛らの反乱士族と戦い、晩年は東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立博物館史跡の湯島聖堂)の看守、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛などの要職に就いたと記録され、1915年、72歳の時に胃潰瘍のため逝去しました。
斎藤一の功績・武勇伝
新選組として様々な戦いを生き抜いてきた斎藤一。その功績には次のようなものが挙げられます。
- 新選組三番隊隊長として、隊内の粛清や剣術指南などを任されていた。
- 戊辰戦争後も生き永らえ、警視庁の警部補にまで出世した。
他にも、子どもたちに剣術などを教えるなど、実は心の優しい人物だったのではないかと考えられます。
永倉新八
永倉新八の概要
永倉新八は新選組二番隊隊長を務めた人物です。1839年に松前藩江戸定府取次役であった長倉勘次の次男として江戸下谷三味線堀(現・東京都台東区小島2丁目)にて誕生しました。7歳の時に、の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。これをきっかけに剣術好きとなり、松前藩を脱藩するまでに至ります。
それから、剣術修行の旅などを経て、江戸で心形刀流剣術の道場師範代を務めるなど、剣の道を歩みます。そして、天然離心流道場「試衛館」の食客、つまり居候し、近藤勇らと知り合うことになりました。
浪士組結成の際は、近藤勇らと共に参加し、新選組結成してからは二番隊隊長、剣術指南役として新選組の中心人物として活躍しました。剣術においては、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と称され、「龍飛剣」といった下段構えから剣を上へ突き上げる技を得意としておりました。
その後、戊辰戦争では旧幕府軍として戦うも、会津藩の降伏を知ると、自身も降伏し松前藩への帰参を認められました。そして、晩年は杉村治備という名を名乗り、刑務所の剣術師範、牛込に剣術道場を開くなど剣術を生かした余生を過ごし、1915年に骨膜炎と敗血症の併合により、小樽にて77歳で逝去しました。
永倉新八の功績・武勇伝
剣士として新選組を支えた永倉新八。その功績にはこのようなものがあります。
- 土方などが負傷時には、副長代理として指示を出していた。
- 明治以降、新選組の生き残りとして新選組の顕彰に努め、近藤・土方らの墓の建立に尽力。
また、小樽新聞の記者である吉島力の取材に協力し、「新選組顛末記」という著作を残し、それまで悪の人斬り集団というイメージであった新選組を、再評価させるといった契機を作ったのも、偉大な功績の一つです。
服部武雄
服部武雄の概要
服部武雄は、新選組の隊士である剣豪です。1864年に伊東甲子太郎らと共に新選組に入隊し、五番隊の隊士として所属し、諸士調役兼監察(スパイのような役割)、及び剣術指南役なども務めました。剣術の流派は宮本武蔵が開祖した二天一流であったと言われ、二刀流の達人でもあったと言われています。
1867年に近藤らと対立し、新選組を脱退した伊東甲子太郎らによって結成された御陵衛士に服部は参加。ですが、これを粛正すべく、新選組は伊東甲子太郎を暗殺。その後、遺体を油小路に置き、引き取りに来た御陵衛士達を一斉に粛正するという策を立て、御陵衛士達を暗殺しました。これが、油小路事件です。
服部は、油小路事件において、二本の太刀を使い、新選組30人を相手に奮闘したと言われております。その気迫には、他の隊士も苦戦し、最後は槍術使いの原田左之助により絶命しました。
服部武雄の功績・武勇伝
服部の武勇伝として有名なのが、油小路事件です。
この事件を見ていた桑名藩士の小山正武は、「其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」と、壮絶な最期を語っています。
入隊が遅かったために、正確な記録などは残っておりませんが、新選組内ではかなり上位の剣術使いだったのかもしれません。