田中新兵衛
田中新兵衛の概要
田中新兵衛は、幕末の四大人斬りとして知られる剣豪です。薩摩藩の藩士で、1832年に船頭の子として誕生したと言われております。幼少期から武芸に励んでいたと記録され、剣術の流派は薩摩藩を中心に伝わったとされる示現流ではないかという説が有力です。
1862年ごろに京都へ上ると、尊王派の藩士であった小河弥右衛門から、安政の大獄にて井伊直弼の家臣であった長野主善に協力し、京都で権力をたてに横暴をふるっていたという島田左近がいるという報せを受け、6人でこれを暗殺する計画を立てました。
最初は失敗するも、1か月間、島田を付け回した挙句、最後は木屋町にて3人で襲撃し、鴨川の河原で斬首。その首を先斗町にて晒し首にしたそうです。ここから、京都内で「天誅」という暗殺運動が活発になったのです。
田中新兵衛の功績・武勇伝
田中新兵衛の功績として語られるのが、「姉小路公知の暗殺」です。
1863年7月に、過激攘夷派論者として知られた公卿の姉小路公知が暗殺されるという「朔平門外の変」が発生し、現場に残されていた新兵衛の愛刀であったことから、容疑者として新兵衛は捕縛されました。
京都の町奉行であった永井主水正は、新兵衛を容疑者として尋問にかけるも、一言も話さず、最期は隙をついて脇差で切腹し、そのまま絶命しました。この「朔平門外の変」は、後の「八月十八日の政変」の遠因とされており、新兵衛の暗殺により幕末が大きく動いたと言っても過言ではないかもしれないです。
ちなみに、1969年に公開された五社英雄監督の「人斬り」という映画では、田中新兵衛役に作家である三島由紀夫が演じております。
河上彦斎
河上彦斎の概要
河上彦斎は、幕末四大人斬りに数えられる剣豪の1人です。肥後細川藩熊本城下の新馬借町(現・熊本市中央区新町3丁目)にて、下級藩士であった小森貞助の次男として誕生し、のちに下級藩士の河上源兵衛の養子となり、河上彦斎となりました。
16歳ごろから、儒学や国学を学び、攘夷論者としての思想を持つようになりました。剣術は我流で学んだと言われていますが、片手抜刀の天才であったと伝えられており、このことから熊本畔で流行していた伯耆流居合を学んでいたのではないかという説が有力視されています。
彦斎は京へ上り、各藩士と交流を深めながら情勢を知った後、熊本藩に戻り、攘夷を説こうとするも、藩の実権は既に佐幕派が握っており投獄されてしまいました。そして、大政奉還などは獄中で経験することとなります。明治維新後も彦斎は攘夷論者として活動するなど、政府の開国政策には反対する立場にいたそうです。
その後、彦斎は二卿事件、参議であった広沢真臣暗殺事件に関与したという疑いをかけられ、1872年1月に日本橋小伝馬町にて斬首されました。これは、攘夷論者であった彦斎を粛清するための政府側の陰謀であったと言われています。
河上彦斎の功績・武勇伝
河上彦斎の人斬り事件の中でも有名なのは、1864年の7月に、京都を闊歩していた思想家・佐久間象山を衝動的に斬殺したことです。主な原因として、この時に使用していた西洋の馬の鞍を見て、神聖な京都が汚されていると感じ実行したそうです。
それだけの恐怖心を与えていた彦斎ですが、容姿は女性のような容姿をしていたと言われており、他にも頑固な性格であった反面、人情に厚く、妻子を大事にしたと言われています。また、漫画「るろうに剣心」の緋村剣心は、この彦斎をモデルにしたと言われています。
岡田以蔵
岡田以蔵の概要
岡田以蔵は、幕末の四大人斬りの1人に数えられる人物です。土佐国香美郡岩村(現・高知県南国市)にて、郷士の岡田義平の長男として誕生しました。
剣術は、土佐一の剣豪と呼ばれた小野派一刀流の麻田直養の下で修行し、江戸に上り、江戸三大道場の一つである桃井春蔵の士学館にて鏡心明智流剣術を学びました。その後、武市瑞山らが結成した土佐勤皇党に加盟し、瑞山と共に行動を共にしました。
その後は、土佐藩の上士である目付であった井上佐市郎、勤王志士の本間精一郎、志士弾圧に協力した公卿・宇郷重国といった人物を天誅し、仲間内から天誅の名人と呼ばれていたそうです。
また、一時期、坂本龍馬からの依頼で勝海舟の警護を担当していたという逸話が残っており、のちに司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にもその場面が描かれております。
1864年には、犯罪者として捕縛され焼印・入墨の刑に処され、京都を追放され土佐藩へ引き渡しとなり、土佐藩では吉田東洋暗殺に関わったとして監獄に入れられました。この時に、勤王党の内情を全て自白してしまい、勤王党衰退の原因を作りました。そして、1865年に打ち首・獄門となり、28歳でこの世を去りました。
岡田以蔵の功績・武勇伝
岡田以蔵の功績として挙げられるのは以下の出来事です。
- 土佐勤皇党や薩摩藩士などらと共に尊王攘夷派の弾圧に関与した者達への天誅を行ったこと。
- 捕縛され、全てを自白したことで、土佐勤皇党が壊滅する原因となったこと。
ちなみに、「人斬り以蔵」と言う異名は司馬遼太郎が1964年に発表した短編「人斬り以蔵」からついたとされていて、この作品での岡田以蔵像が他の作品への影響などを与えております。ただし、作中で貧民出身として描かれていますが、実際は一般的な郷士の家で育ったというのが研究などで判明しております。