幕末最強の剣豪とは誰?21人の剣豪を功績や武勇伝と共に紹介!

中村半次郎

中村半次郎

中村半次郎の概要

中村半次郎は、幕末の四大人斬りに数えられる人物です。鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現・鹿児島県鹿児島市吉野町)にて、薩摩藩士・中村与右衛門の三男として誕生しました。

少年期に、父が罪を着せられ徳之島へ流罪になるなど壮絶な幼少期を過ごしながらも、薩摩藩を中心に広まっていた剣術流派・示現流に打ち込み、剣術の腕を挙げていきました。そして、1862年に島津久光に同行し、京へ上りました。

赤松小三郎

京に上ってからは、小松帯刀や西郷隆盛らに重用され、討幕の意思を持つようになりました。そして、1867年に薩摩藩で陸軍を教えていた軍学者であり公武合体派の人物であった赤松小三郎を暗殺しました。これは、赤松が佐幕派や討幕派など分け隔てなく接していたため、薩摩の情報が漏洩するのではないかと思われていたためです。

この一件により、半次郎は「人斬り半次郎」と呼ばれることになりますが、実際に暗殺をした記録はこの一件のみだそうです。その後、半次郎は戊辰戦争では新政府軍として参加し、様々な功績を挙げました。

会津若松城天守閣

中でも、会津藩が降伏し、会津若松城が開城し、受取人としてやってきた半次郎は、会津藩のことを思い男泣きをしたと記録されています。それだけ、情に厚い人物だったということが伺えます。

明治維新後は桐野利秋と改名し、明治政府において陸軍少尉に就くも、征韓論にて大久保利通らと対立し、西郷と共に辞表を提出、薩摩へと下野しました。その後、薩摩では軍人による私学校が開校し、半次郎はそこに参加。そして、1877年に私学校の生徒や西郷隆盛らと共に西南戦争へ参加し、最後は政府軍の銃撃により戦死しました。

中村半次郎の功績・武勇伝

中村半次郎の功績にはこのような物が挙げられます。

  • 人斬りとして赤松小次郎を暗殺したこと。
  • 西南戦争において、私学性の士族達や西郷隆盛らと共に新政府へ反乱を起こしたこと。

半次郎の人物像はきわめて秀才であったと言われ、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」であったと称賛しておりました。また、剣術については、軒先から雨粒が落ちるまでに三度抜刀したという伝説的な逸話が多く残っています。

その他の代表的な剣豪たち

坂本龍馬

坂本龍馬の概要

坂本龍馬は、薩長同盟を結ぶなど幕末期に活躍した人物の一人です。剣術は、北辰一刀流の桶町千葉道場にて免許皆伝し、地元である土佐藩では日根野道場の師範なども務めておりました。

どちらかと言えば、拳銃などのイメージが強い竜馬ですが、剣の腕は相当なものであったと言われています。これまでに龍馬は剣術修行で2回江戸に修行に出ており、桶町千葉道場にて千葉周作の弟である千葉定吉の下で北辰一刀流を学びました。

1858年には定吉から「北辰一刀流長刀兵法目」の免許皆伝を授けられました。これは、薙刀術の目録であり、長年「剣術は貰っていないのでは?」という見解がされていましたが、2017年には剣術の目録が発見されました。

その後、脱藩し、1862年から勝海舟の弟子になると、神戸海軍操練所の設立、亀山社中、薩長同盟の成立など、独自のやり方で国を変えようと各地を奔走します。そして、大政奉還後、1867年11月15日に、京都・近江屋にて中岡慎太郎と共に何者かに暗殺され、35歳で亡くなりました。

坂本龍馬の功績・武勇伝

坂本龍馬の功績と言うと、いくつかありますが代表的なものを挙げると以下のようなものになります。

  • 薩長同盟を成立させたこと日本初の商社である「亀山社中」を創業したこと
  • 後の明治政府の政策の元になる「船中八策」を草案したこと

この他にも、神戸海軍操練所の設立など、ありますが、詳しく知りたい方は当サイトの坂本龍馬のページをご参照ください。

竜馬の愛刀・陸奥守吉行
出典:刀剣ワールド

龍馬は、人を斬ることをあまり好まず、生涯に人を斬ったことはなかったと言われています。また、刀剣を大事に扱っていたと言われており、中でも近江屋事件の際に最後まで所持していたという「吉行」は、兄である権平から貰ったものであると、周囲に自慢していたそうです。

また、他にもいくつか刀剣を所持していたとされ、三吉慎蔵に形見として渡された伝相州正宗の無銘刀や、姉の乙女に渡された刃渡り二尺四分直刀の銘備前修理亮盛光など、刀剣コレクターとしての一面もあったのではないかと思われます。

桂小五郎

木戸孝允(桂小五郎)

桂小五郎の概要

桂小五郎は、長州藩士であり、木戸孝允として明治維新後、政府の参与として活躍した人物です。1846年には長州藩にて剣術師範である柳生新陰流の内藤作兵衛の道場に入門し、その後、江戸へ剣術修行に上り、江戸三大道場の一つである神道無念流の道場である練兵館に入門しました。

それから、幕末期は主に変名を用いながら、長州藩における尊王攘夷派のリーダーとして、他藩などのとの外交などを担当し、薩長同盟締結などにも大きく関わりました。明治維新後は、木戸孝允と言う名前になり、新政府の参与として五か条の御誓文の草案や廃藩置県と言った日本の近代化を進めておりました。

木戸孝允の墓

1877年には、明六年の政変にて下野した西郷隆盛らを掃討すべく、京都へ出勤するも持病が悪化したために5月26日に京都の別邸にて大久保利通らに看取られ、45歳で亡くなりました。最期は、「西郷もいいかげんにしないか」と西郷隆盛や明治政府を案じた言葉を残したと言われています。

桂小五郎の功績・武勇伝

桂小五郎の功績は数多くありますが、大きくまとめるとこのようになります。

  • 尊王攘夷派の指導者として、長州藩を幕府の敵から、明治維新の原動力に押し上げた事。
  • 維新後、参与として日本の近代化・富国強兵などを進めた事。
練兵館跡地

剣術においては、入門1年で塾頭になるなどその腕は確かなもので、同時期に免許皆伝を取得した大村藩の渡辺昇と共に、練兵館の双璧と称され、その実力は男谷信友の直弟子を破るなどのものであったと言われています。また、2017年に発見された資料によると、他流試合にて坂本龍馬と対戦し、2対3で竜馬に勝利したという記録が発見されました。

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