芹沢鴨
芹沢鴨の概要
芹沢鴨は、新選組の初代局長である人物です。しかし、出自は未だに不明な部分が多く、出生年や出身地などは未だに分かっておりません。近年の研究から、1832年に誕生したという説が有力となっていますが、真相は未だに不明です。
浪士組結成の際、新見錦、平山五郎などと共に参加し、そのまま京都に残り、壬生浪士組に参加しました。神道無念流の免許皆伝を持ち、剣術の腕は確かだったものの、脅迫・酒席での乱暴など、かなり粗暴な性格だったために、問題も多く起こしておりました。
なかでも、大阪へ下った際、すれ違いの際に道を譲らなかったとして、小野川部屋の力士に暴行し、その後駆け付けた力士と乱闘し、力氏側に死傷者が出るといった事件などがあります。
そして、1863年に島原の角屋という店で芸妓と共に酒席を開いた後、壬生浪士組の協力者であった八木邸にて寝ているところを数人の男たちに襲撃され、あっけなく斬殺されました。
この事件の発端は、壬生浪士組としての仕事を果たさない芹沢派の新見錦らに憤慨した近藤、土方らの手によって実行され、表向きは長州藩士によって暗殺された、という事になりました。ですが、暗殺の経緯については未だに新説が出るなど、詳しい詳細は分かっておりません。
芹沢鴨の功績・武勇伝
芹沢鴨の具体的な功績にはこのようなものがあります。
- 壬生浪士の頭取として、浪士組をまとめたこと。
- 新選組として、八月十八日の政変に御所の警護についたこと
また、近年の研究では子どもと陽気に遊んでいたという記録なども残っており、それまでの悪人というイメージが変わりつつある人物でもあります。
幕末三剣士と四大人斬り
男谷信友
男谷信友の概要
男谷信友は、別名男谷精一郎と呼ばれ、幕末の剣聖と呼ばれるほどの剣術使いとして有名な人物です。1798年に視覚障害者でありながら鍼医として大成した男谷検校の孫である男谷信連の息子として誕生しました。
1805年、8歳の時に直心影流剣術の団野源之進に入門し、他にも兵法や槍術、射術など様々な分野を学んでおりました。そして、1824年に麻布狸穴に道場を開き、剣術界の改革に励むようになりました。
主な改革として、それまであまり行われなかった他の剣術との他流試合を推奨し、信友は積極的に他流試合を行ったと言われております。信友は、江戸中の剣客たちと他流試合を行い、立ち会わなかった者はいないと言われるほど、多くの剣客と他流試合を行いました。
そして、天保期に入ると、幕府は幕臣の武芸訓練機関となる講武所を設立し、信友はその講武所の頭取並に就任し、形稽古ではなく、竹刀を用いた実戦形式の稽古を多く行いました。また、竹刀の長さを決めるなど、現代の剣道において大きな影響を与えたと言われています。
男谷信友の功績・武勇伝
男谷信友の功績をまとめるとこのようなものになります。
- 他流試合を広く行い、剣術界を活発化させたこと。
- 竹刀の長さを制定し、現代の剣道にまで大きな影響を与えた。
また、信友はその強さが異常と言われるほどの剣の腕が立つ人物ではありましたが、傲慢な態度をとることはなく、温和な人格者でもあったことから「君子の剣」とも称されていたそうです。
島田虎之助
島田虎之助の概要
島田虎之助は、幕末の三剣士に数えられる剣士の1人です。1814年に、豊前中津藩士であった島田市郎右衛門親房の子として生まれ、10歳の頃から藩の剣術師範を務めていた堀十郎左衛門の下で剣術修行を行いました。
1831年頃から江戸を目指し、その間に下関や近江水口藩で管楽を学ぶなど様々な経験をし、7年後に江戸へやって来ました。
江戸に着くと、島田は当時評判だった男谷信友の道場へ行き、他流試合を申し込みました。島田は男谷と三本勝負を行い、一本奪取するも、結果的には敗れてしまいました。実は、これは男谷の作戦であり、三本中一本は必ず取らせるというものだったのです。
別の道場にてその事を知り、島田はその道場の紹介状を持参し、再度対決を男谷に申し込むと、以前の時とは違い、男谷の眼光に圧倒され手も足も出ないまま道場の隅まで追いやられたと言われております。そして、島田は男谷の弟子となりました。
その後、島田は浅草の新堀に道場を開き、武蔵国忍藩五代目藩主である松平忠敬の出入り師範として俸禄を貰っておりました。しかし、1852年に病のため39歳の時に逝去しました。
島田虎之助の功績・武勇伝
島田の主な功績として挙げられるのは、男谷の門弟として、様々な人物に男谷の教えを伝授していたことです。
39歳という若さで亡くなった時、師匠である男谷は「片腕を失った」と嘆いたそうです。それだけ、島田の存在は男谷にとっても大きかったのではないでしょうか。
島田が残した言葉の中に、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉があります。これは、剣とは心であり、心が正しくないものは剣も正しくない、剣を学ぶ者は心を学べ、という意味です。
また、一説によると島田は勝海舟の剣の師匠としても知られており、剣術を通して心を学ぶという大事さを様々な人物に伝授していたのかもしれません。
大石種次
大石種次の概要
大石種次は、男谷信友、島田虎之助と並び、幕末の三剣士の1人として名を連ねている剣豪です。1797年に、筑後国三池郡宮部村(現・福岡県大牟田市大字宮部)柳河藩士であった大石種行の次男として誕生しました。
大石家は祖父の種之が新陰流の剣術、また大島流槍術剣槍術の師範であったため、種次は4歳ごろから剣術修行を学んでおりました。その後、種次は18歳の時に、ある御前試合の敗北をきっかけに、独自の剣技である「左片手突き」を編み出し、大石神影流を称するようになりました。
1822年には新陰流の免許皆伝を取得し、九州各地へ剣術修行したのち、1825年に父の種之が亡くなった後、家督を継ぎ、柳河藩の剣槍術師範として、藩士たちに剣術指導を行うようになりました。
1832年に江戸へ出向後、様々な道場にて他流試合を行い、1839年には、老中であった水野忠邦の前で島田虎之助などと御前試合を行うほどの高名な剣士であったと言われています。そして、1848年には息子の種昌に家督を譲り、自身は隠居し、1863年に67歳でこの世を去りました。
大石種次の功績・武勇伝
そんな大石種次の武勇伝として語られるのが、独自の剣術である「大石神影流」を18歳で開祖し、江戸で大石旋風を起こしたことです。
1832年に藩から江戸へ出向を命じられると、種次は江戸の名門道場への他流試合を申し込みました。種次は身長7尺(約2m)あり、5尺3寸の長竹刀を使用し、左片手突きで様々な剣士たちと渡り合い、ほとんどの道場が種次の前に敗れ去ったと言われています。
中でも、翌年である1833年には、幕末の剣聖こと男谷信友と試合を行い、初日は敗れたものの、翌日、前日の反省を生かし、少し狙いを下げてから突きを狙うという戦法で男谷から勝利しました。この勝利は祖国にも知られ、帰国後には60石の石高が与えられました。
男谷からの勝利は、勝海舟の記録にも「御一新以上の騒ぎ」と記録されており、また江戸の剣術界の間で長竹刀が流行ったそうです。また、現在も、種次が開祖となった大石神影流は、故郷である大牟田市や柳川市に受け継がれております。