千葉周作
千葉周作の概要
千葉周作は北辰一刀流の創始者である人物です。出自は不明だったのですが、近年の研究により、宮城県気仙沼市出身であることが有力であるという見方がされました。幼少期から、北辰夢想流、一刀流中西派など様々な剣術を学び、北辰夢想流と一刀流中西派を合わせた北辰一刀流を開祖しました。
千葉周作の功績・武勇伝
千葉周作の大きな功績と言えば「北辰一刀流」を開祖したことです。
1822年に、江戸に「玄武館」という道場を設立し、数多くの門弟に北辰一刀流を伝授しました。その中には、清河八郎、山岡鉄舟、新選組の山南敬助と言った人物を輩出しました。また、弟である千葉定吉の方には坂本龍馬などが在籍し、数多くの藩士に北辰一刀流が伝授されました。
江戸では、「技の千葉(玄武館)、力の斎藤(練兵館)、位の桃井(士学館)」と呼ばれ、三大道場の一つとして評され、その形稽古の方法などは現代の剣道においても大きな影響を与えた人物として知られています。
寺田宗有
寺田宗有の概要
寺田宗有は、高崎藩士であり千葉周作に影響を与えた人物です。高崎藩士である寺田五郎右衛門宗定の子として生まれた宗有は、15歳の時に中西派一刀流の中西道場に入門し剣術を学びました。しかし、この道場の主流であった打ち込み稽古に不満を持ち、17歳の時に辞めてしまいます。
その後、宗有は平常無敵流の池田八左衛門成春の元に入門し、木刀による形稽古を基盤とする組太刀の研究に励み、弟子である白井亨や千葉周作などに影響を与えました。その後、天真一刀流を開祖し、白井亨がその道統を継ぐこととなります。
寺田宗有の功績・武勇伝
主な功績としては、香川県にある金刀比羅神社の分霊を高崎藩へ勧請するといった功績を残し、現在でも群馬県高崎市新後閑町にある琴平神社には、その功績を伝える看板が設置されております。
剣豪の逸話としては、1815年に藩主のお供として東海道を下っている時に、持参していた竹光(竹で出来た刀に似せたもの)を落とした際、それを見て駕籠かきが笑ったと言います。宗有は苦笑しながら、気に入らぬ者がいるとすぐに首を落としてしまうために真刀を持参しないようにしていると言いつつも、竹光も正宗の名刀であると言い、近くの大きな石を真っ二つに切ったと言われています。
模造刀でありながらも、石をも切り伏せるという伝説を持った宗有は、実戦ではどれぐらい強かったのか気になりますね。
榊原健吉
榊原健吉の概要
榊原健吉は、明治時代に「最後の剣客」と呼ばれた人物です。1830年に江戸の麻布・広尾にて御家人の榊原益太郎友直の長男として誕生しました。1842年には男谷信友の直心影流剣術の道場に入門し、途中母の死去や家が貧乏で会ったことなどを乗り越え、1849年に免許皆伝を取得しました。
1856年には男谷の推薦で、幕府の武芸訓練機関である講武所の教授方のち師範となり、1860年には将軍徳川家茂らが臨席する模範試合に出場し、槍術の高橋泥舟との戦いで見事勝利を収めました。このことから、健吉は家茂の個人教授をも務めるようになりました。
家茂が死去すると、健吉は江戸の下谷車坂にて道場を開き、明治維新にはあまり深くかかわらなかったそうです。明治維新後は、散髪脱刀令などの影響を受けた士族のために、浅草にて見世物として撃剣興行を開き、士族たちの生活を守りつつ、剣術の命脈も守ったと言われています。
榊原健吉の功績・武勇伝
榊原健吉の武勇伝として名高いのは「天覧兜割り試合」です。
1887年に、明治天皇が伏見宮を訪れた際に開かれた天覧兜割り試合に参加し、名刀「同田貫正国」を使用し、兜割に見事成功したと言われています。晩年は、車坂の道場にてお雇い外国人など様々な人物を指導し、中にはフェンシングの名手もいたそうです。そして、1894年に道場を弟子に譲り、9月に心不全のため65歳で亡くなりました。
佐々木只三郎
佐々木只三郎の概要
佐々木只三郎は、京都見廻組の隊士であり、坂本龍馬を暗殺した近江屋事件の実行犯と言われている人物です。1833年に陸奥国の会津藩領内の藩士である佐々木源八の三男として誕生し、親戚であった旗本の佐々木弥太夫の養子となりました。
剣術は、神道精武流という流派を学び、「小太刀日本一」の腕前を持つと伝えられ、講武所の剣術師範を務めたことなども記録されています。また、兄の手代木直右衛門と共に、清河八郎の浪士組結成のきっかけを作った人物であるとされています。
それから、佐々木は清河八郎を暗殺し、旗本の松平忠敏を中心にした新徴組を結成。1864年には新選組と共に京都を警護する京都見廻組に参加し、隊士として京都を警護しました。
大政奉還後は、戊辰戦争に参加し、旧幕府軍として鳥羽・伏見の戦いに参戦。脇腹に銃弾を受け、和歌山への敗走中に亡くなりました。また、死の間際に兄から「貴様は今までずいぶん人を斬って来たのだから、これくらいの苦しみは当然だろう。」と言われたそうです。
佐々木只三郎の功績・武勇伝
佐々木只三郎の武勇伝として知られるのが「坂本龍馬の暗殺」です。
1867年11月には坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が襲撃される近江屋事件が発生。同じく見廻組の隊士であった今井信郎の証言では、佐々木只三郎が実行犯であったと言われています。確かに、只三郎なら、剣の達人であった竜馬を切り伏せるだけの実力を持っていたかもしれません。
白井亨
白井亨の概要
白井亨は、天真伝兵法の開祖となった人物です。1783年に江戸の町人であった大野家にて誕生し、母方の祖父であった信州の白井彦兵衛の養子となりました。彦兵衛が亡くなると、亨は機迅流の依田秀復の元へ入門し剣術を学びました。
1797年には、江戸で評判だった一刀流中西道場に入門。同門には、寺田宗有、千葉周作、高柳又四郎といった剣士たちがおり、亨はその中で必死に剣術を学んだそうです。それから、亨は1805年委武者修行の旅に出ることになり、神道無念流の道場や馬庭念流といった様々な剣客たちと試合を行ったそうです。
その後、兄弟子であった寺田宗有と試合をし、60歳を超えてもなお気迫のこもった寺田に敗北し、亨は寺田に弟子入りすることになりました。その後、寺田の後を継ぎ、白井は天真一刀流の二代目を継承しました。のちに、天真一刀流は弟子に継ぎ、亨は天真伝兵法を創始しました。そして、1843年に江戸で死去いたします。
白井亨の功績・武勇伝
白井亨の功績として挙げられるのは「天真一刀流」を継いだことなどが挙げられます。また、武勇伝として有名なのが、大石種次との一戦です。
1832年には当時、江戸の道場を回っていた大石種次と試合を行い、唯一江戸の道場で亨は大石から勝利し、江戸の剣術道場の面目を保ったと言われています。また、亨の稽古を受けたという勝海舟は「真に不思議なものであったよ」と述べ、神通力のような力を持った人物であったと称賛してます。
幕末の最強武士に関するまとめ
これまで、21人をご紹介しましたが、剣術の他流試合での強さ、実戦での強さなど基準がそれぞれに異るため、ひとえにこの人が最強であると判別するのは非常に難しいです。
また、紹介した人物以外にも、「千葉の子天狗」と言われ勝率9割以上を誇った千葉栄次郎や、「新徴組」の一員として戦った女性剣士の中沢琴などまだまだ剣豪エピソードを持っている人物は多数います。
個人的に、筆者が最強と思う剣豪は寺田宗有、白井亨と並び「中西道場の三羽烏」として知られる高柳又四郎です。高柳は、小説家である中里介山が書いた小説「大菩薩峠」に登場する主人公・机竜之介のモデルになったとされ、「音無しの剣」という自分の竹刀を触れさせずに勝つという漫画のような剣豪です。
本記事は、そういった人物たちが政治思想や国を変えるために奔走したという幕末と言う時代に興味を持っていただければ幸いです。本記事をきっかけに、他の幕末についての出来事などを参照してみてはいかがでしょうか。