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バッハとはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格、代表曲も紹介】

あなたはバッハについて、どのくらいご存知でしょうか?

おそらく「バッハ」という名前をどこかで一度は聞いたことがあると思います。しかし、バッハについてはどのような人物で、どのような功績があって、後世にどのような影響を残したのか、などということはあまり知られていないのではないかと考えられます。

J.S.バッハの肖像

学校の音楽室などに肖像画が飾られているバッハは、正式にはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(J.S.バッハ)といいます。彼は大バッハとも呼ばれ、生涯のうち20名もの子どもがいました。

そのうち10名は早逝してしまいますが、音楽家として大成した息子もいます。18世紀頃までは息子たちの知名度の方が高かったため、「バッハ」と言えば彼の次男・エマヌエルや末子・クリスティアンたちのことを指し、J.S.バッハは「バッハの父」と呼ばれていました。

しかし19世紀頃よりJ.S.バッハについてあらゆる再発見がされたため徐々にその知名度は逆転し、今や「バッハ」といえばJ.S.バッハのことを指します。この記事でもバッハ=J.S.バッハのこととして、声楽家である筆者がバッハの魅力を余すことなくご紹介していきます。

バッハとはどんな人?

名前ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)
誕生日1685年3月31日
生地神聖ローマ帝国 アイゼナハ(現在のドイツ・アイゼナハ)
没日1750年7月28日
没地神聖ローマ帝国 ライプツィヒ(現在のドイツ・ライプツィヒ)
配偶者マリア・バルバラ・バッハ(1720年病没)
アンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(ソプラノ歌手・音楽家)
埋葬場所聖トーマス教会

バッハが活躍した時代は?

バロック時代に活躍したバッハ

バッハが生きていた時代は音楽史でいうと「バロック時代(バロック音楽)」と分類されます。世界史でいえば王侯貴族に権力が集中した「絶対王政」の全盛期とほぼ同じです。バッハはその時代の中でも一番後期に登場した人物で、バッハの没年がバロック時代の終わりの年であると定義されることも多いです。

バロック音楽は同時代の美術や建築と同様に、生き生きとした躍動感やドラマティックな感情表現を追及しているのが特徴です。特にこの時代は王侯貴族のためにオペラが盛んに上演されるようになり、イタリアやフランスではオペラが目覚ましい発展を遂げていきました。

しかしバッハはバロック時代の代表的な音楽家でありながらも、オペラを作曲していません。バッハが活躍したのはドイツの教会などが中心であったため、劇場で仕事をすることがなかったのです。このように他の代表的なバロック時代の音楽家たちとバッハでは、作曲ジャンルや作風で異なる部分があるのも特徴です。

バッハはどんな生涯を送った?

オルガン奏者としてキャリアを積む

J.S.バッハは1685年3月31日現在のドイツ・アイゼナハに生まれました。宗教改革を行ったマルティン・ルターもアイゼナハ出身ということもあり、一家でルター派のプロテスタント教徒であったことがわかっています。

18歳の頃、バッハはヴァイマルの宮廷楽団のヴァイオリニストとして就職しますが、代役としてオルガン演奏も担当するようになり、その後もオルガニストとしてのキャリアを積み上げていくことになります。

1706年にマリア・バルバラと結婚し7名の子どもを授かりますが、マリアは1720年にバッハの出張中に急逝します。翌年、バッハはまだ幼い子どもたちのためにと16歳年下のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚しました。彼女は優れたソプラノ歌手であり、同じ音楽家としてバッハの仕事を助けることになります。

バッハはかなりの働き者だった

1723年にバッハはライプツィヒの聖トーマス教会にてカントルという仕事に就きました。当時のカントルの仕事はオルガン演奏家と作曲家、合唱指揮者、さらに小学校教諭の仕事を兼任したような仕事で、バッハも日々激務だったということが伝わっています。

1749年5月末にバッハは脳卒中で倒れました。何とか命は取り留めましたが、次いで眼科手術に失敗するなど度重なる不運と体調不良のため、病床に伏したまま1750年7月28日にこの世を去りました。

真面目な性格ながら、トラブルメーカーでもあった?

「洋服を着た勤勉」とまでいわれた

バッハがどのような性格をしていて、どんなことを言ったのか?ということに関しては、残された手紙や語録の少なさからわかっていないことも多いと思われます。しかし、バッハのことを研究している学者などの間では「バッハはとても真面目」な性格なのではないかと推測されており、その度合いは極端すぎるほどだったのではないか、とも思われています。

具体的なエピソードについては、以下の記事にて記載させていただきました。バッハの人となりや作品への関連など興味がある方は、併せてお読みください。

バッハはどんな性格だった?発言や行動から人物像を考察

しかしそんなバッハに対して、バッハ息子たちは楽観的で外向的な性格をしていたことがわかっています。これはバッハの2番目の妻であり、人気ソプラノ歌手であったアンナ・マグダレーナの性格を引き継いでいたといわれています。

バッハが再発見されたのは?

バッハの死後は作品たちは急速に忘れ去られることになります。当時の音楽の流行は、より「わかりやすく」「聴きやすく」「取っつきやすい」ものへと変化していったのに対し、当時のバッハ作品は対位法を極限まで進化させた精緻なものでした。

精巧で完成度が高い作品であるからこそ、皮肉にもバッハの楽曲は「難解なもの」とみなされ、時代遅れの作風とされました。また、当時は楽曲が再演されることが珍しかったということもあり、J.S.バッハの楽曲は80年ほど聴衆に忘れられることになります。

モーツァルトなどに影響を与えた

しかし誰からも忘れ去られていたわけではなく、モーツァルトやベートーベン、リストなどに影響を与えながら細々と愛好家たちの間でその音楽は受け継がれていきました。

ベートーベンの生涯・年表まとめ【名言や功績、死因、性格についても解説】

そして18世紀の後半頃より「古楽」の研究が活発になったという時代の動きもあって、1829年3月11日メンデルスゾーンが20歳の若さでバッハの晩年の大作「マタイ受難曲」を指揮し、大成功させました。このことをきっかけにバッハの作品が大きく見直され、今日の評価に至ります。

バッハの代表曲や名曲

多作で有名なバッハ。その数なんと1000曲を超えます。

「G線上のアリアは知っているけど、それ以外の曲あんまり知らない・・・」

という方も少なくはないと思います。そこでバッハの代表曲・人気曲・隠れた名曲などをまとめました。それだけで一つの記事になってしまうのでもし興味がある方は下記の記事からご覧ください。

  • 「オルガン編」バッハの代表曲3選
  • 「鍵盤曲編」バッハの代表曲2選
  • 「無伴奏曲編」バッハの代表曲2選
  • 「マタイ受難曲編」バッハの代表曲2選
  • あのミュージシャンたちも?意外すぎるバッハのカバー曲2選
  • 筆者オススメの隠れたバッハの名曲編
【隠れた名曲も】バッハの代表曲13選!ジャンルごとに分けて紹介

バッハの功績

功績1「数々の音楽家や後世に影響を与えた」

数々の有名音楽家に影響を与えた

どうしてバッハは「音楽の父」と呼ばれているのでしょうか?理由は色々あるのですが、その一つにはバッハのファンには音楽家が多くおり、彼らに与えた影響が大きいといわれているからです。

メンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を再演させるまで広く一般には忘れられていたとはいえ、それまでも音楽を学ぶ者にとってバッハの作品たちというのは教科書のようなものでした。バッハの多声音楽が晩年のモーツァルトやベートーヴェンの作風に影響していたということは有名ですね。また、ショパンも、ピアノの演奏に変な癖が出てきた時などはバッハの曲を弾いて調子を整えていた、などといわれています。

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その影響力は21世紀となった今でも健在です。日本の音楽家たちにも影響を与えており、X JAPANのYOSHIKIなどもバッハの愛好家であることを公言していました。バッハの楽曲は今なおポップスやジャズ、ロックなど幅広くアレンジされています。もしかしたらテレビでよくみるあのアーティストも、密かにバッハの影響を受けているのかも知れません。

功績2「圧倒的な作品数・生涯に1000曲以上を作曲?」

幅広く多くの作品を制作した

バッハは生涯に非常に多くの作品を生み出しました。そのジャンルは管弦楽曲(独奏、協奏曲)から鍵盤曲、オルガン曲、ミサ曲など多岐にわたっており、作品数も1000曲以上と群を抜いています。

1951年より始まったバッハの全作品の編纂が完成したのは2007年で、現在に至っても作品の整理が継続されています。このようにバッハの作品は膨大な数になっているため、混乱を避けるために「シュミーダー番号」というナンバリングで管理されています。

シュミーダー番号の記載の仕方や、バッハ作品の有名なものなどはこちらの記事でもご紹介させていただいております。ご興味がございましたら、ぜひ併せてお読みください。

【隠れた名曲も】バッハの代表曲13選!ジャンルごとに分けて紹介

バッハにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「バッハは大のコーヒー好き?」

コーヒーに夢中だったバッハ

当時は健康に悪いもの、という認識だったコーヒーですが、バッハは毎日浴びるように深煎りのコーヒーを飲んでいたとの噂です。

またコーヒー好きが高じて「コーヒーカンタータ」という世俗的な作品も書いており、バッハのユーモアのセンスを感じられる数少ない作品と言われていますので、後ほど動画でご紹介したいと思います。また、バッハはヘビースモーカーであったとも言われています。

歴史上の人物でコーヒー好きだという記録が残っている人物は多いようで、音楽家ではベートーヴェンなどもコーヒー好きであったことがわかっているようです。

都市伝説・武勇伝2「バッハは失明していた?怖すぎる300年前の眼科手術」

目の病を患っていた

バッハは白内障を患っていたと言われており、65歳の頃に眼科の手術を受けます。イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーに手術を依頼し、手術後テイラーは「手術は成功し、バッハの視力は回復した」と言っていたそうですが、結果は失敗でした。

テイラーがどのような手術を行ったかは明らかになっていませんが、術後のバッハはとてつもない眼痛を訴えており緑内障を発症したと推測されています。

更には眼内炎を起こしており(水晶体に手を加えられた可能性があるようです)網膜剥離の可能性もあったとのことです。これらの後遺症によって、65歳のバッハの体力は急速に衰えたといわれています。そして病床に伏したままその半年後に亡くなってしまいました。

バッハと同い年で著名な音楽家・ヘンデルも同じ医師の手術を受け、バッハと同じように失明したと言われています。明らかになっていない部分も多いですが、当時の手術が如何にハイリスクだったのかが推測できます。

バッハの略歴年表

1685年
1685年3月31日、神聖ローマ帝国アイゼナハにて誕生します。町楽師であった父親はヨハン・アンブロジウス・バッハといい、8人目の末子として生まれました。
1703年
ヴァイマルの宮廷楽団に就職・アルンシュタットの新教会のオルガニストに就任
18歳の頃ヴァイオリニストとして就職しました。代役としてオルガン演奏も務めることも多く、同年アルンシュタットの新教会でオルガニストに選ばれました。
1706年
マリア・バルバラと結婚
二人のなれそめについては不明、のちに高名な音楽家となるフリーデマンとエマヌエルが誕生します。しかし暮らし向きは厳しく、仕事のトラブルもいくつか抱えていました。
1708年
ザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガニストとして就任
多くのオルガン曲がこの時期に作られます。1714年には楽師長に就任し、一か月に一度新曲のカンタータを作曲し、上演していたと言われています。
1714年
アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長に就任
ヴァイマルとの契約関係のこじれもあり、バッハは一度投獄されるなどのトラブルを経て、招聘されていたケーテンの宮廷楽長に就任します。この頃は世俗音楽が多く作られました。
1720年
妻マリア・バルバラ急逝
バッハが領主レオポルト公の旅行に行っている間に妻のマリア・バルバラが死去し、バッハが帰ってきたときはすでに埋葬が終わっていました。無伴奏ヴァイオリン作品などが同年に作曲されました。
1720年
アンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚
遺児のためもあって16歳年下の人気歌手・アンナと結婚しました。アンナはマリアの遺児たちを我が子同然に大切に育てました。また同時にバッハの仕事を大いに助けました。
1723年
聖トーマス教会のカントルに就任
カントルとは教会の合唱団や礼拝の音楽、また教会附属の小学校の教諭のような仕事でした。当初この仕事は競争率が高く、バッハは5番目の候補者でしたが、他の選出者が次々と辞退したため就任しました。この頃は多くの宗教曲が作曲されました。
1749年
脳卒中で倒れる
病気で倒れている間、聖トーマス教会楽長の人事をバッハ抜きで決められてしまいますが健康を回復したため復職します。この頃には視力をほぼ失っていたと言われています。
1750年
J.S.バッハ没
前年の脳卒中に加え白内障手術に失敗するなど健康状態が悪化し、1750年7月28日に死去しました。バッハの墓は生前精力的に活動した聖トーマス教会内にあります。

バッハの具体年表

1685年 – 0歳「 J.S.バッハ誕生」

同い年の巨匠たち

ミュージアムとして残るバッハの生家

バッハは1685年3月31日・アイゼナハにて誕生します。町楽師をしていたヨハン・アンブロジウス・バッハの8番目の末子として誕生しました。兄弟構成などははっきりとわかっていません。

同い年の作曲家にはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがいます。彼らは同じ年に同じ国で生まれましたが、活躍した国や音楽ジャンルなどは対照的です。また、ドメニコ・スカルラッティも1685年生まれでバッハたちと同い年です。

ヘンデルの生涯・年表まとめ【音楽性や名言、代表曲についても紹介】

1705年 – 20歳「 20歳で大出世のチャンスがあるも辞退」

10歳上の女性と結婚させられそうになる

キャリアと交換条件の結婚

最初はバイオリニストとして音楽家のキャリアをスタートさせたバッハですが、アルンシュタットの新教会でオルガニストを務めていた頃からバッハは既にオルガンの名手として認められていました。しかし更に演奏の腕を磨くために400km離れたリューベックまで徒歩で行き、オルガニストのディートリヒ・ブクステフーデに演奏を習いに行きます。

ブクステフーデはバッハの演奏を認めて聖マリア教会のオルガニストに推薦します。しかしこれにはある条件がありました。当時約30歳だったブクステフーデの娘と結婚することを条件にされたのです。

当時68歳と高齢だったブクステフーデは娘のことが心配だったようで、ヘンデルやヨハン・マッデゾンにも同じ条件で聖マリア教会のオルガニストに推薦しますが、3人とも辞退しています。

1729年 – 44歳「 ヘンデルに会いたかったバッハ」

当時一番知名度が高い音楽家はヘンデルだった

ヘンデル

ヘンデルは神聖ローマ帝国・ハレ生まれですが、イギリスに渡って音楽家として名声を博していました。1729年に帰省のためハレに滞在していたヘンデルに会いたいと切望していたバッハは、長男のフリーデマンを派遣して面会を求めました。

しかしその面会はヘンデルに断られたために実現せず、バッハは生涯ヘンデルに会うことはできませんでした。当時ヘンデルは国際的に活躍する高名な音楽家だったのに対し、バッハは地方の学校の校長先生のような立場でした。バッハはヘンデルの知名度や名声を意識していましたが、ヘンデルにとってバッハはあまり意識するような存在ではなかったと言われています。

1749年 – 64歳「 脳卒中で倒れる」

聖トーマス教会の人事に介入される

1549年5月末にバッハは脳卒中で倒れます。当時聖トーマス教会の学長という地位にあったため、その地位を羨んだ人たちの企みでゴットロープ・ハラーという後任を勝手に決められてしまいました。

しかしバッハは一時健康を取り戻して復職します。当時ほとんど視力を失っていたため翌年眼科手術を受けますが、その手術は失敗し、術後の容体は悪くそのまま病床で亡くなってしまいます。

1829年 – 没後79年「 マタイ受難曲が再演される」

若き日のメンデルスゾーンによって蘇った傑作

バッハの死後、一部の鍵盤練習曲以外は忘れられてしまいます。しかし愛好家や演奏家たちの手でその音楽や手法は細々と受け継がれていきました。時代が下ると古楽研究が活発になったということもあり、当時20歳で新進気鋭の音楽家・メンデルスゾーンの指揮によって晩年の名作「マタイ受難曲」が蘇演されます。

メンデルスゾーン

初演当時の書評は大絶賛というほどでもなく、どちらかというと題材のストイックさや作品の精巧さが一般市民には敬遠され、無理解な記者による批判的なものもありました。しかしこの再演は今日のバッハの知名度に至るきっかけとなりました。

この再演は学校設立のためのチャリティー公演として、俳優のエドゥアルト・デヴリエントが協賛し、興業的には成功をおさめました。メンデルスゾーンは「キリスト教徒の最も偉大な音楽を世界に蘇らせるには、俳優とユダヤ人の息子が必要だったということになりますね!」と思わず皮肉を言ったようです。メンデルスゾーンはユダヤ人ですが、バッハと同じ敬虔なルター派教徒でもありました。

フェリックス・メンデルスゾーンとはどんな人?生涯・年表まとめ

バッハの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

J.S.バッハ (講談社現代新書)

日本国内のバッハ研究におけるパイオニアである磯山雅の著書です。この本はその中でも特に読みやすく、「バッハの雑学集」としても楽しめます。明日から誰かに言いたくなるようなバッハの知識が沢山書かれています。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

「バロック音楽」「古典派」「ポリフォニー・ホモフォニー」といったような用語にピンとこない方は、一度体系的に音楽史を網羅したこの本をお勧めします。西洋音楽史全体について1人の筆者が書いていますので、分断されることなく物語のように楽しく読むことができます。

マタイ受難曲

こちらも磯山氏の著書になります。マタイ受難曲を理解することは決して簡単なことではありませんが、やさしい言葉遣いで安心して読むことができます。読みやすいのに、内容はとても本格的で、多くの人に読まれている一冊です。

バッハがよく知れるおすすめ本12選【初めての一冊から上級者向けまで】

おすすめ代表曲・作品

J.S.バッハ《マタイ受難曲》第1部全曲 カール・リヒター(1958)

演奏は古いですが、バッハのオルガン作品やチェンバロ作品を多く演奏したカール・リヒターの指揮によるマタイ受難曲です。対訳としてドイツ語と日本語を字幕で見ながら動画を視聴できます。第2部もリンクから視聴できます。

Bach (1685-1750) Kaffeekantate BWV 211 – Harnoncourt

こちらも演奏が古いですが前述した「コーヒーカンタータ」の動画です。コーヒー中毒の娘とそれをやめさせたい父親とのやりとりがコミカルな小喜歌劇となっており、作曲者がバッハというのも驚きですが、なんと作詞は「マタイ受難曲」の台本を書いたピカンダーだというのが面白いです。彼らがもしオペラを書くことがあったなら、このような喜歌劇だったのでしょうか。

おすすめの映画

アンナ・マグダレーナ・バッハの日記

俳優ではなく若い頃の古楽演奏家・グフタフ・レオンハルトがバッハ役をつとめ、演奏シーンではリテイク無しで実際に演奏しています。できるだけ服飾品や建物などで当時を再現しており、演奏場所の環境の悪さなどにリアリティを感じます。

「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」

2020年公開の映画で、実在するブラジルのピアニスト「ジョアン・カルロス・マルティンス」の半生を描いた作品です。病やハンディキャップを抱えながらバッハの全ピアノ曲収録という難業に挑戦しようとする姿を描くピアニストのストーリーとなっています。

バッハ曲の解釈というのは人それぞれ大きく差がありますので、「史上最高のバッハ奏者」という宣伝文句に対する解釈もそれぞれであり、ストーリー自体は賛否が分かれる映画となっていますが、マルティンス本人の演奏が使用されており、とても素晴らしいです。バッハ作品の名曲と名演をダイジェストで味わいたい、という人にはお勧めできる映画です。

関連外部リンク

バッハについてのまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者は声楽家ですが、マタイ受難曲のソロやコーヒーカンタータは歌ってみたい憧れの曲です。

ジャズやロックなど、即興性のある音楽を演奏する人にもバッハの愛好家は多く、日本で「音楽の父」と呼ばれている理由がよくわかります。

ストイックな作風で敬遠されがちなバッハですが、バッハについて知っていると良いことが沢山ある気がします。少しでも興味を持って頂けると嬉しいです。

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