バッハの功績
功績1「数々の音楽家や後世に影響を与えた」

どうしてバッハは「音楽の父」と呼ばれているのでしょうか?理由は色々あるのですが、その一つにはバッハのファンには音楽家が多くおり、彼らに与えた影響が大きいといわれているからです。
メンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を再演させるまで広く一般には忘れられていたとはいえ、それまでも音楽を学ぶ者にとってバッハの作品たちというのは教科書のようなものでした。バッハの多声音楽が晩年のモーツァルトやベートーヴェンの作風に影響していたということは有名ですね。また、ショパンも、ピアノの演奏に変な癖が出てきた時などはバッハの曲を弾いて調子を整えていた、などといわれています。
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その影響力は21世紀となった今でも健在です。日本の音楽家たちにも影響を与えており、X JAPANのYOSHIKIなどもバッハの愛好家であることを公言していました。バッハの楽曲は今なおポップスやジャズ、ロックなど幅広くアレンジされています。もしかしたらテレビでよくみるあのアーティストも、密かにバッハの影響を受けているのかも知れません。
功績2「圧倒的な作品数・生涯に1000曲以上を作曲?」

バッハは生涯に非常に多くの作品を生み出しました。そのジャンルは管弦楽曲(独奏、協奏曲)から鍵盤曲、オルガン曲、ミサ曲など多岐にわたっており、作品数も1000曲以上と群を抜いています。
1951年より始まったバッハの全作品の編纂が完成したのは2007年で、現在に至っても作品の整理が継続されています。このようにバッハの作品は膨大な数になっているため、混乱を避けるために「シュミーダー番号」というナンバリングで管理されています。
シュミーダー番号の記載の仕方や、バッハ作品の有名なものなどはこちらの記事でもご紹介させていただいております。ご興味がございましたら、ぜひ併せてお読みください。
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バッハにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「バッハは大のコーヒー好き?」

当時は健康に悪いもの、という認識だったコーヒーですが、バッハは毎日浴びるように深煎りのコーヒーを飲んでいたとの噂です。
またコーヒー好きが高じて「コーヒーカンタータ」という世俗的な作品も書いており、バッハのユーモアのセンスを感じられる数少ない作品と言われていますので、後ほど動画でご紹介したいと思います。また、バッハはヘビースモーカーであったとも言われています。
歴史上の人物でコーヒー好きだという記録が残っている人物は多いようで、音楽家ではベートーヴェンなどもコーヒー好きであったことがわかっているようです。
都市伝説・武勇伝2「バッハは失明していた?怖すぎる300年前の眼科手術」

バッハは白内障を患っていたと言われており、65歳の頃に眼科の手術を受けます。イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーに手術を依頼し、手術後テイラーは「手術は成功し、バッハの視力は回復した」と言っていたそうですが、結果は失敗でした。
テイラーがどのような手術を行ったかは明らかになっていませんが、術後のバッハはとてつもない眼痛を訴えており緑内障を発症したと推測されています。
更には眼内炎を起こしており(水晶体に手を加えられた可能性があるようです)網膜剥離の可能性もあったとのことです。これらの後遺症によって、65歳のバッハの体力は急速に衰えたといわれています。そして病床に伏したままその半年後に亡くなってしまいました。
バッハと同い年で著名な音楽家・ヘンデルも同じ医師の手術を受け、バッハと同じように失明したと言われています。明らかになっていない部分も多いですが、当時の手術が如何にハイリスクだったのかが推測できます。
バッハの簡単年表
1685年3月31日、神聖ローマ帝国アイゼナハにて誕生します。町楽師であった父親はヨハン・アンブロジウス・バッハといい、8人目の末子として生まれました。
18歳の頃ヴァイオリニストとして就職しました。代役としてオルガン演奏も務めることも多く、同年アルンシュタットの新教会でオルガニストに選ばれました。
二人のなれそめについては不明、のちに高名な音楽家となるフリーデマンとエマヌエルが誕生します。しかし暮らし向きは厳しく、仕事のトラブルもいくつか抱えていました。
多くのオルガン曲がこの時期に作られます。1714年には楽師長に就任し、一か月に一度新曲のカンタータを作曲し、上演していたと言われています。
ヴァイマルとの契約関係のこじれもあり、バッハは一度投獄されるなどのトラブルを経て、招聘されていたケーテンの宮廷楽長に就任します。この頃は世俗音楽が多く作られました。
バッハが領主レオポルト公の旅行に行っている間に妻のマリア・バルバラが死去し、バッハが帰ってきたときはすでに埋葬が終わっていました。無伴奏ヴァイオリン作品などが同年に作曲されました。
遺児のためもあって16歳年下の人気歌手・アンナと結婚しました。アンナはマリアの遺児たちを我が子同然に大切に育てました。また同時にバッハの仕事を大いに助けました。
カントルとは教会の合唱団や礼拝の音楽、また教会附属の小学校の教諭のような仕事でした。当初この仕事は競争率が高く、バッハは5番目の候補者でしたが、他の選出者が次々と辞退したため就任しました。この頃は多くの宗教曲が作曲されました。
病気で倒れている間、聖トーマス教会楽長の人事をバッハ抜きで決められてしまいますが健康を回復したため復職します。この頃には視力をほぼ失っていたと言われています。
前年の脳卒中に加え白内障手術に失敗するなど健康状態が悪化し、1750年7月28日に死去しました。バッハの墓は生前精力的に活動した聖トーマス教会内にあります。
バッハの生涯年表
1685年 – 0歳「 J.S.バッハ誕生」
同い年の巨匠たち

バッハは1685年3月31日・アイゼナハにて誕生します。町楽師をしていたヨハン・アンブロジウス・バッハの8番目の末子として誕生しました。兄弟構成などははっきりとわかっていません。
同い年の作曲家にはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがいます。彼らは同じ年に同じ国で生まれましたが、活躍した国や音楽ジャンルなどは対照的です。また、ドメニコ・スカルラッティも1685年生まれでバッハたちと同い年です。
ヘンデルの生涯・年表まとめ【音楽性や名言、代表曲についても紹介】
1705年 – 20歳「 20歳で大出世のチャンスがあるも辞退」
10歳上の女性と結婚させられそうになる

最初はバイオリニストとして音楽家のキャリアをスタートさせたバッハですが、アルンシュタットの新教会でオルガニストを務めていた頃からバッハは既にオルガンの名手として認められていました。しかし更に演奏の腕を磨くために400km離れたリューベックまで徒歩で行き、オルガニストのディートリヒ・ブクステフーデに演奏を習いに行きます。
ブクステフーデはバッハの演奏を認めて聖マリア教会のオルガニストに推薦します。しかしこれにはある条件がありました。当時約30歳だったブクステフーデの娘と結婚することを条件にされたのです。
当時68歳と高齢だったブクステフーデは娘のことが心配だったようで、ヘンデルやヨハン・マッデゾンにも同じ条件で聖マリア教会のオルガニストに推薦しますが、3人とも辞退しています。
1729年 – 44歳「 ヘンデルに会いたかったバッハ」
当時一番知名度が高い音楽家はヘンデルだった

ヘンデルは神聖ローマ帝国・ハレ生まれですが、イギリスに渡って音楽家として名声を博していました。1729年に帰省のためハレに滞在していたヘンデルに会いたいと切望していたバッハは、長男のフリーデマンを派遣して面会を求めました。
しかしその面会はヘンデルに断られたために実現せず、バッハは生涯ヘンデルに会うことはできませんでした。当時ヘンデルは国際的に活躍する高名な音楽家だったのに対し、バッハは地方の学校の校長先生のような立場でした。バッハはヘンデルの知名度や名声を意識していましたが、ヘンデルにとってバッハはあまり意識するような存在ではなかったと言われています。
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ありがとうございます
ありがとうございます
ありがとうございます。様々に参考になりました!バッハは教会で即興演奏をして!乗りすぎてミサの前に相当長い時間演奏しすぎて!教会オルガニストを首になり、様々な教会オルガニストを職業として渡り歩いたと聞きます!又作った曲はあまり厳密な譜面に残さず!息子たちが譜面化させたと聞ききます!詳細は割愛しますが!私はそんなバッハの神ががった演奏をあこがれる!無名の細竿三味線弾きです!そんな情報を知りたくてコメントしました!