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津田梅子とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言、津田塾大学創設や留学生活についても紹介】

津田梅子は6歳の頃に岩倉使節団に随行してアメリカへ留学し、明治から大正にかけて津田塾大学の前進となる女子英学塾を創設して、日本の女子教育に多大なる貢献を果たした人物です。2024年に新しいお札に選ばれた事もあり、名前は聞いた事がある人も多いでしょう。

江戸から明治にかけての日本はまだまだ女子教育が整っていない時代でした。そんな中で梅子は10年にあたるアメリカ留学生活を経て、語学だけでなく文化や社会習慣を学びます。帰国後は男女平等を謳い、女子英学塾を創設。「性別も身分も関係なく、皆が等しく教育を受ける事」は梅子の努力により培われたものなのです。

女子英学塾開校当時の津田梅子

皆さんは梅子についてどのようなイメージを持つでしょうか?教育者という肩書きから、真面目で堅物という印象を受けるかもしれません。梅子は幼き頃からアメリカの文化や風習を学んだ事もあり、当時の女性としては珍しく、おおらかでよく笑う性格でした。また研究者としても一流であり、生物学の分野でも功績を残しています。

梅子の生涯を学ぶ事で、何故彼女が新たなお札の肖像に選ばれた事が分かると思います。今回は津田梅子が新たな肖像に選ばれた事で、思わずガッツポーズをしてしまった筆者が津田梅子の波乱の生涯について紹介していきます。

津田梅子とはどんな人物か

名前津田梅子
誕生日1864年12月31日
没日1929年8月16日
生地江戸の牛込南御徒町
(現新宿区)
没地神奈川県鎌倉市
配偶者なし
埋葬場所東京都小平市
(津田塾大学の構内)

津田梅子の生涯をダイジェスト

18歳の頃の津田梅子

津田梅子の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1864年 津田梅子誕生
  • 1871年 岩倉使節団に随行し、アメリカ留学
  • 1882年 アメリカから帰国
  • 1883年 伊藤博文の通訳や「桃夭女塾」の塾講師として活躍
  • 1889年 再度アメリカ留学を果たす
  • 1892年 帰国し、再び華族女学校に勤める
  • 1900年 津田塾大学の前身となる女子英学塾を創設
  • 1919年 健康上の理由で塾長を辞任
  • 1929年 脳出血の為死去(享年64歳)

6歳にして岩倉使節団に随行し、アメリカで学ぶ

岩倉使節団に随行した女子留学生達
(膝の上に乗っているのが津田梅子)

1871年12月、明治政府は「友好親善・文物視察・調査」を目的に欧米に岩倉使節団を派遣。内訳は使節46名・随員18名・留学生43名でした。女子留学生は5人で名前と年齢は上記の画像の左から以下の通りです。

  • 永井繁子 (10)
  • 上田貞子 (16)
  • 吉益亮子 (16)
  • 津田梅子 (6)
  • 山川捨松 (11)

梅子は当時6歳で使節団最年少でした。女子留学生達は1872年5月にワシントンに移り住み、梅子はチャールズ・ランマン夫妻に預けられます。ランマン夫妻は子供がおらず、梅子は実の子のように育てられました。

10月には年長者の貞子と亮子は眼病とホームシックの為に帰国し、繁子・捨松・梅子はアメリカに留まりました。梅子は夫妻から惜しみない愛情を受け、アメリカの語学や文化を学んでいます。1873年にはキリスト教の洗礼も受けました。

1882年11月に3人は日本へ帰国。留学して10年以上が経っての事でした。

津田梅子が創設した津田塾大学ってどんな大学?

津田塾大学

梅子は1900年に女子英学塾を創設。1948年に現在の津田塾大学と名を変えました。津田塾大学は「深い知性」「豊かな人間性」を兼ね揃えた女性の育成を目指す女子大学です。難易度の高さからかつては女東大とも呼ばれました。

津田塾大学は2011年に発表された大学別生涯給料ランキングにおいて、東大や一橋大を凌いでトップランクに格付けされています。少人数教育や、学生の主体性を重んじる校風なども高い評価を受けています。

梅子が帰国した1880年代における女子教育は、良妻賢母の育成が主でした。そんな時代の中で、梅子は学問重視の女子高等教育機関を創設する事を決意します。梅子達は無報酬で働くなど、当初の経営は厳しかったようです。

その後は高い評価から多くの女学生が進学。1903年には塾が社団法人となり軌道に乗り始めます。現在津田塾大学は誕生して120年が経過し、多くの女性達が社会で活躍しています。実業家の南場智子さんも津田塾大学の卒業生です。

津田梅子は結婚したの?独身を貫いたって本当?

津田梅子の戸籍上のひ孫である津田直

梅子は生涯独身を貫きました。梅子が帰国したのは18歳の頃であり、いくつかの縁談が梅子には舞い込んでいます。当時の日本は14歳から16歳で結婚するのが当たり前。それを過ぎると「売れ残り」と呼ばれてしまいます。

梅子はそんな日本のあり方に嫌気がさし、20歳の時には生涯独身でいる事を誓いました。梅子は女子教育に人生の全てを捧げたのです。

ただ津田梅子は甥の津田眞を養子に迎え入れています。眞の娘あい子は西郷隆盛のひ孫の隆晄と結婚し、直が誕生。2000年に津田家の家督を相続しています。直は戸籍上、梅子のひ孫であり、血筋としては西郷の玄孫です。

直氏は1976年生まれの写真家であり、国内外で幅広い活躍を続けています。積極的な性格は津田家の性格をしっかりと引き継いでいますね。

梅子の父親の津田仙は農業・教育に尽力

津田仙(1837年〜1908年)

梅子が6歳で留学を果たしたのは、父親である津田仙の推薦によるものです。仙は幕末の老中堀田正睦を輩出した佐倉藩の藩士であり、佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれる程に蘭学が盛んな地域でした。

仙は幕末に通訳として活躍し、維新期には築地ホテル館や、西洋野菜の栽培業などを営んでいました。1871年には北海道開拓使節として働き、当時の次官である黒田清隆の勧めにより、娘の梅子を留学生に応募したのです。

仙は農作物の普及に多大なる功績を残し、1875年に農産物の栽培・販売・輸入・書籍・雑誌の出版などを受け持つ学農社を立ち上げます。教育にも熱心であり、学農社農学校を設立し、キリスト教的指導も行っています。

仙は足尾銅山事件で田中正造を支援する、キリスト者の親睦交流や伝道上の協議をする第三回全国基督教信徒大親睦会の幹部となるなど、多方面で活躍。新島襄、中村正直と共に「キリスト教界の三傑」と称されます。

仙の行動力、思想は梅にもしっかりと受け継がれています。まさに「この親にこの子あり」でした。

津田梅子の功績

功績1「日本の女子教育の先駆者となる」

津田梅子が在籍したブリンマー大学

梅子の最大の功績は日本の女子教育の先駆者となった事でしょう。梅子は1889年に2度目の留学を果たし、ブリンマー大学で生物学を専攻。最初の留学と違い、梅子は「日本とアメリカの教育制度の違い」に気づくのでした。

ブリンマー大学は男性も女性も分け隔てなく学問を追求し、「良い妻を育てる」という日本の女性教育とは大きく異なっていました。質の高い教育環境、少人数教育などの方針は女子英学塾にも大きな影響を与えています。

当時女学校に進学するのは華族の娘など、裕福な家庭の女子達でした。梅子が創設した女子英学塾は華族平民の区別はなく、学ぶ意思があれば誰もが等しく、そして厳しく学ぶ事が出来たのです。

梅子の教育方針は日本の教育のあり方に、一石を投じたのでした。

功績2「日本婦人米国奨学金制度を設立する」

二代目塾長であり、津田塾大学の学長にもなった星野あい

梅子は環境的にも恵まれ、2度も留学を果たす事が出来ましたが、多くの女性はそうではありません。梅子はブリンマー大学在学中に、「日本女性が留学する為の奨学金制度」を企画し、公演や募金活動を行います。

1891年に梅子は帰国し、奨学金制度を利用して25名の女子学生が留学を果たします。その後も奨学金制度は活用され、彼女達は後の教育に大きな貢献を果たしたのです。

  • 松田道(1868-1956):同志社女子高等学校の校長を務める
  • 星野あい(1884-1972):1947-1952年に津田塾大学の学長となる
  • 河井道(1877-1953):恵泉女学園を創設する

なお彼女達が留学したのは、梅子も留学したブリンマー大学でした。梅子が育てた女学生達は立派に成長し、新たな学校が創設されていきました。そして現在の私達にも大きな影響を与えているのです。

功績3「新しいお札の肖像に選ばれる」

新たなお札

2024年より日本のお札が以下のように刷新されます。

新たな五千円札の裏面には「藤の花」が描かれており、花言葉は「優しさ・歓迎」です。カラーリングは淡い桃色で、女性らしい印象を与えますね。

渋沢栄一は「近代日本経済の父」と呼ばれ、経済界に多大なる功績を残しました。また北里柴三郎は破傷風の治療法を開発しています。津田梅子を含め、彼らはそれぞれの領域で功績を残し、日本を代表する偉人です。

津田梅子がお札に選ばれる理由は以下になります。

  • 文化人である
  • (偽札防止の為に)精密な肖像画が存在する
  • 一般的によく知られている
  • 日本が世界に誇れる人物である

お札の肖像に選ばれた理由は毎回詳細に明かされません。お札の肖像に選ばれるという事は、日本を代表する顔になる事を意味します。

梅子が選ばれた理由は推し量るしかありませんが、女性の社会進出を願うメッセージが込められているかもしれませんね。

津田梅子の名言

環境より学ぶ意志があればいい。

梅子を代表する名言です。勉強環境の向上は大切ですが、金銭面や家族の問題からそれが難しい人がいるのも事実です。どんな環境であっても、自分で学ぶ意志を持つ事、それを続ける事で自ずと道は開けます。

普遍的な言葉だからこそ、皆さんの心にも響くのではないでしょうか?

文化、教育、経験がなくては、理想的な妻や母にはなり得ない

1898年、梅子が華族女学校や女子高等師範学校の教授などを歴任していた頃の名言です。男性と競争しながら社会進出する事も男女平等の一つの考え方ですが、全ての女性がそう考えていゆとは限りません。

パートナーを支える、家を守る選択を選んだ女性でも、相手の知的、精神的な支えになる事が日本の発展に繋がります。梅子が女性のあり方、ひいては日本の発展の為に広い視野を持っていた事が分かりますね。

高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。

梅子の人生を象徴する言葉です。帰国後の梅子は封建的な日本の風土に馴染む事が出来ませんでした。しかし高い志と熱意を持つ事で、人々への共感を得て学校の創設という偉業を成し遂げたのです。

津田梅子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ノーベル賞も夢じゃなかった?研究者としても超一流」

梅子がスケッチした蛙の受精卵

梅子は留学先のブリンマー大学で生物学を学んだ事は先程述べました。梅子はトーマス・ハント・モーガンに従事し、1892年に「カエル卵の卵割と体軸の方向性」についての研究をまとめました。

モーガンは生物の授業でもお馴染みのキイロショウジョウバエの遺伝子研究で、1933年にノーベル生理学賞を受賞した一流の学者です。梅子はモーガンと1893年に共作で論文を発表しています。

この論文は第5章からなりますが、梅子の成果は第2章にそのまま掲載されています。つまり梅子の研究の精度は高く、手直しをする必要がなかったのですね。

梅子は英語教師、教育者のイメージが強いですが、日本初のリケジョだった事も覚えておきましょう。

都市伝説・武勇伝2「梅子のお墓にお参りする回数で結婚生活が決まる?」

津田梅子のお墓

津田梅子のお墓は津田塾大学の構内にあります。このお墓には下記にあげた噂があります。「津田梅子 お墓」と検索するとかなりの数がヒットするので、有名なものだと思われます。

  • 1回お参りすると結婚が出来なくなる。
  • 2回お参りすると離婚してしまう。
  • 在学中に3回お参りすると呪いは解かれる。

これは梅子が生涯独身だった事から広がった噂です。また津田塾大学の卒業生は優秀で、仕事一筋な人が多い事も関係しているかもしれません。

なお、1回お参りをしても結婚した人もいれば、3回お参りをしても離婚した人もいるそうです。噂はあくまでも噂なので、津田塾大学を立ち寄った時にはお墓に行き、思いを馳せて欲しいものです。

都市伝説・武勇伝3「津田梅子とフリーメイソンは関係があった?」

フリーメイソンのシンボルマーク

皆さんはフリーメイソンを知っていますか?フリーメイソンは世界最古で最大の友愛組織であり、世界を裏で操る存在と囁かれています。日本では坂本龍馬鳩山一郎後藤新平などの人物が会員であったとされます。

フリーメイソンは男性しか入会出来ない為、梅子会員である事はないでしょう。しかし両者には間接的なかかわりがあり、お札に選ばれた背景にもフリーメイソンが関与していると噂されています。

  • 岩倉使節団はフリーメイソンの重鎮グラバーの出資によるもの
  • お札に選ばれた渋沢栄一北里柴三郎はフリーメイソンではないが、関係者と親密な関係を築いていた
  • フリーメイソンは人口削減計画(5億人まで減らす)を画策している。女性の社会進出を促し少子化を進める為、津田梅子をお札に推挙した

…様々な憶測があるものの、個人的にはどれもこじつけのような気がします。ただフリーメイソンは謎の多い秘密結社です。これから先も真相が分かる事はないでしょう。

津田梅子の簡単年表

1864年 - 0歳
津田梅子誕生

津田梅子は1864年に江戸の牛込南御徒町で生まれます。明治になり、父である仙の仕事の影響で向田(旧墨田区)に移り住みます。幼少期の梅子は手習いや踊などを習っていたようです。

1871年 - 6歳
岩倉使節団に随行し、アメリカ留学を果たす

1871年に欧米使節として岩倉使節団が派遣されます。梅子を含む5人の少女が女子留学生として派遣。梅子は12月にワシントンに到着し、チャールズ・ランマン夫妻のもとで暮らします。1873年に洗礼も受けました。

1882年 - 18歳
帰国後、日本の文化に戸惑いながら英語教師となる

1882年に梅子は帰国。幅広い教養を得るものの、長い留学生活の中で日本語は通訳が必要な程に衰えていました。梅子は封建的な日本に戸惑いを覚えながらも、伊藤博文の通訳や、下田歌子と共に英語教師として働きました。

1889年 - 24歳
再渡米し、プリンター大学で生物学を専攻する

留学時代の友人であるアリス・ベーコンの薦めで再度留学。上記で紹介したように生物学の分野で大きな功績を残しました。研究者としてアメリカに留まる事を勧められるものの、日本の女性教育の為に帰国しました。

1892年 - 27歳
華族女学校に勤めながら、女子学生達を援助する

帰国後の梅子は以前勤めていた華族女学校に復職。教師生活を続けながら、自宅で女子学生を預かるなど積極的援助に動きます。1898年には女子高等師範学校の教授に就任するなど、その功績が認められるようになりました。

1900年 - 35歳
女子英学塾の校長となる

1899年に高等女学校令と私立学校令が発令されます。女子教育の機運が高まると、梅子は教授職を辞して学校作りに専念します。1900年には女子英学塾を設立しました。当初は無報酬で働くなど、厳しい時期もありましたが、1903年に社会法人として認可。梅子の目指した教育方針は大きな話題となりました。

1917年 - 52歳
糖尿病が悪化する

積極的に働き続けた梅子でしたが、1917年から糖尿病に悩まされます。1919年に脳出血を3回も発症。絶対安静を強いられた為、塾長を辞任しています。

1929年 - 64歳
脳出血により死去

梅子は塾長引退後に鎌倉の別荘で療養していましたが、1929年に脳出血で死去しました。

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