津田梅子は何した人?生涯・年表まとめ【功績や性格、名言も紹介】

1891年 – 27歳「日本の女子教育に関心を持つ」

津田梅子が師事したトーマス・ハント・モーガン

ブリンマー大学で学ぶ

前述した通り、梅子はブリンマー大学で生物学を学び、大きな功績を残しました。生物学を専攻したのは、当時進化論に大きな注目が集まっていたからです。

日本婦人米国奨学金制度を設立

2度目の留学は、日本とアメリカの教育方針の違いも学びました。ベーコンがアメリカに戻ると「日本の女性」という書籍を出版しますが、梅子は手助けをしています。

この協力は梅子が「日本の女性」に何が出来るのかを考えるきっかけになりました。梅子は留学を1年延期し、前述し日本婦人米国奨学金制度を設立します。梅子は公演や募金活動を積極的に行いました。

1892年に梅子は帰国。ブリンマー大学からはアメリカに留まって研究を続ける事を勧められますが、梅子は教育者として日本に貢献する事を考えていたのです。

1892年 – 28歳「様々な学校で教壇に立つ」

華族女学校

再び華族女学校に勤める

梅子は再び華族女学校で教壇に立ちつつ、女学生を自宅で預かるなどの援助を行います。1984年には明治女学院で講師を務め、1898年には女子高等師範学校教授を兼任したのです。

ナイチンゲールやヘレンケラーとの出会い

1898年6月、コロラド州で行われた万国婦人連合大会デンバー会議に梅子は日本の女性代表として出席。3000人の聴衆の前で日本女性の現状について堂々たるスピーチを行います。このスピーチは大きな反響を呼びました。

梅子は時の人となり、8月に当時17歳だったヘレンケラーと会談します。ヘレンケラーは聾唖の才女として全米の注目を集めていたのです。更に梅子は1899年にイギリスに招かれ、ナイチンゲールのもとを訪問しています。

梅子はナイチンゲールについて日記で以下のように述べています。

目は活気と知性に満ち,顔はあまり老いてもいず,しわも少なく,昔の美しさがうかがえる顔でした。

ナイチンゲールは「近代看護教育の母」と呼ばれた看護師です。当時は80歳で病床での面会でした。この2人の出会いは梅子に大いなる感銘を与え、帰国後の梅子の生き方を決定づけるものになりました。

1899年 – 36歳「女子教育への機運が高まり始める」

同時期の女子教育者だった広岡浅子

高等女学校令が発布される

1899年7月に梅子は帰国。この時期、女子教育分野で活動していたのは梅子だけではありません。「あさが来た」の白岡あさのモデルとなった広岡浅子も、この時期に女子教育の為に奔走しています。

同年に政府は高等女学校令・私立学校令を発布するなど、女子教育への機運が高まっていたのです。時代は大きな節目を迎えていたのでした。

ただ「高等」と明記されるものの、実際のカリキュラムは男子の中学程度。梅子の望んだものではありません。だからこそ梅子は自らが望む学校の立ち上げに奔走するのでした。

1900年 – 37歳「女子英学塾を開校する」

再会した4人(左から津田梅子、
アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松)

女子英学塾の開校

梅子は華族女学校・女子師範学校を辞任し、1900年9月に「女子英学塾」を立ち上げます。女子英学塾の開校には、父親の仙、留学仲間の捨松や繁子、ベーコンなどの多くの協力があっての事でした。

梅子は開校式で以下のように語ります。

真の教育には、教師の熱心、学生の研究心が大切であること学生の個性に応じた指導のためには少人数教育が望ましいことさらに人間として女性としてall-roundでなければならないこと。

なお梅子はこれらの独自の教育方針を貫く為、スポンサーは最小限に留めています。広岡浅子が「日本女子大学校」を立ち上げる際に、三井財閥などの財界に協力を呼びかけた点とは対照的でした。

女子英学塾の初年度の入学者は10名。当初は無報酬で奉仕するなど経営は厳しかったようですね。

1904年 – 41歳「女子英学塾が専門学校として認可される」

女子英学塾五番町校舎

卒業生を送り出す

梅子の厳しい教育に脱落する生徒も現れるものの、1903年には第一回卒業式が行われます。同年に専門学校令が公布され、翌年に女子英学塾は専門学校として認可されるなど、1つの節目を迎えました。

長年の無理の影響か体調を損なう

1905年に梅子は体調を崩し、教育の第一線から退きます。ただ同年にキリスト教女子青年会(YWCA)の日本支部の会長に任命されるなど、身体面との両立を図り活動を続けました。

なおYWCAとはキリスト教の信仰をもとに会員の人格の向上、奉仕の精神の高揚を図り、キリスト教の理想とする社会の建国を目指す世界的な団体です。梅子はこの年にアメリカ会議に参加しています。

その後も梅子は1907年にはフランクリン・ルーズベルトと会見し、日本の教育の実情について話し合いました。1915年には授与対象を女性に限定した勲章である宝冠章(梅子は勲六等)を授与されました。

梅子の功績は国民にも支持されていったのですね。

1919年 – 55歳「塾長を引退」

塾長室に張り出された卒業生達の就任地

糖尿病や脳梗塞を発症

1917年には糖尿病を発症し、1919年には脳出血を3回も発症。女子英学塾の経営も軌道に乗っており、梅子は塾長を引退しました。

塾長室には大きな日本地図が貼られ、沢山の赤い印がつけられていました。これは卒業生達の就職先であり、梅子が卒業生達の事を大切に思っていた事が分かります。梅子の思いは全国に広がっていったのです。

関東大震災

関東大震災で全焼した女子英学塾

1923年9月に関東大震災が起こり、校舎は焼失してしまいます。友人であり英学塾の英語教師でもあったアナ・コープ・ハーツホンでした。彼女は国外やアメリカで寄付金を募り、校舎の再建計画が立てられます。

梅子も療養生活を送りながら、新たな校舎を見る事を楽しみにしていたのです。しかし梅子の身体はそれを待つ事が出来ませんでした。

1929年 – 64歳「津田梅子死去」

晩年の津田梅子(1927年撮影)

津田梅子死去

1929年8月16日、梅子は鎌倉の別荘で死去します。絶筆は「Storm last night」であり、訳すと「昨夜の嵐」です。女子教育の先駆者として苦難に立ち向かった梅子の人生は、まさに嵐のようでした。

17日には鎌倉に住んでいた卒業生やハーツホンが駆けつけて、その死を悼みました。20日には仮校舎の講堂で葬儀が行われ、親友の新渡戸稲造や二代目塾長の星野あいなどの多くの著名人が弔辞を読み上げたのです。

大学構内にお墓が建てられる

梅子は遺言で「自分の墓は新校地に」と遺していました。本来お墓は校地内に作るのは困難なのですが、梅子だけ特例で認められます。

1931年に小平の地に新校舎が完成し、梅子の墓は仮埋葬された青山の地から、小平の地に移されました。1948年に女子英学塾は現在の名称である「津田塾大学」と名前が変わります。

梅子は今でも女学生達を見守っているのです。

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