津田梅子は何した人?生涯・年表まとめ【功績や性格、名言も紹介】

津田梅子の名言

環境より学ぶ意志があればいい。

梅子を代表する名言です。勉強環境の向上は大切ですが、金銭面や家族の問題からそれが難しい人がいるのも事実です。どんな環境であっても、自分で学ぶ意志を持つ事、それを続ける事で自ずと道は開けます。

普遍的な言葉だからこそ、皆さんの心にも響くのではないでしょうか?

文化、教育、経験がなくては、理想的な妻や母にはなり得ない

1898年、梅子が華族女学校や女子高等師範学校の教授などを歴任していた頃の名言です。男性と競争しながら社会進出する事も男女平等の一つの考え方ですが、全ての女性がそう考えていゆとは限りません。

パートナーを支える、家を守る選択を選んだ女性でも、相手の知的、精神的な支えになる事が日本の発展に繋がります。梅子が女性のあり方、ひいては日本の発展の為に広い視野を持っていた事が分かりますね。

高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。

梅子の人生を象徴する言葉です。帰国後の梅子は封建的な日本の風土に馴染む事が出来ませんでした。しかし高い志と熱意を持つ事で、人々への共感を得て学校の創設という偉業を成し遂げたのです。

津田梅子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ノーベル賞も夢じゃなかった?研究者としても超一流」

梅子がスケッチした蛙の受精卵

梅子は留学先のブリンマー大学で生物学を学んだ事は先程述べました。梅子はトーマス・ハント・モーガンに従事し、1892年に「カエル卵の卵割と体軸の方向性」についての研究をまとめました。

モーガンは生物の授業でもお馴染みのキイロショウジョウバエの遺伝子研究で、1933年にノーベル生理学賞を受賞した一流の学者です。梅子はモーガンと1893年に共作で論文を発表しています。

この論文は第5章からなりますが、梅子の成果は第2章にそのまま掲載されています。つまり梅子の研究の精度は高く、手直しをする必要がなかったのですね。

梅子は英語教師、教育者のイメージが強いですが、日本初のリケジョだった事も覚えておきましょう。

都市伝説・武勇伝2「梅子のお墓にお参りする回数で結婚生活が決まる?」

津田梅子のお墓

津田梅子のお墓は津田塾大学の構内にあります。このお墓には下記にあげた噂があります。「津田梅子 お墓」と検索するとかなりの数がヒットするので、有名なものだと思われます。

  • 1回お参りすると結婚が出来なくなる。
  • 2回お参りすると離婚してしまう。
  • 在学中に3回お参りすると呪いは解かれる。

これは梅子が生涯独身だった事から広がった噂です。また津田塾大学の卒業生は優秀で、仕事一筋な人が多い事も関係しているかもしれません。

なお、1回お参りをしても結婚した人もいれば、3回お参りをしても離婚した人もいるそうです。噂はあくまでも噂なので、津田塾大学を立ち寄った時にはお墓に行き、思いを馳せて欲しいものです。

都市伝説・武勇伝3「津田梅子とフリーメイソンは関係があった?」

フリーメイソンのシンボルマーク

皆さんはフリーメイソンを知っていますか?フリーメイソンは世界最古で最大の友愛組織であり、世界を裏で操る存在と囁かれています。日本では坂本龍馬・鳩山一郎・後藤新平などの人物が会員であったとされます。

フリーメイソンは男性しか入会出来ない為、梅子会員である事はないでしょう。しかし両者には間接的なかかわりがあり、お札に選ばれた背景にもフリーメイソンが関与していると噂されています。

  • 岩倉使節団はフリーメイソンの重鎮グラバーの出資によるもの
  • お札に選ばれた渋沢栄一や北里柴三郎はフリーメイソンではないが、関係者と親密な関係を築いていた
  • フリーメイソンは人口削減計画(5億人まで減らす)を画策している。女性の社会進出を促し少子化を進める為、津田梅子をお札に推挙した

…様々な憶測があるものの、個人的にはどれもこじつけのような気がします。ただフリーメイソンは謎の多い秘密結社です。これから先も真相が分かる事はないでしょう。

津田梅子の簡単年表

1864年 – 0歳
津田梅子誕生

津田梅子は1864年に江戸の牛込南御徒町で生まれます。明治になり、父である仙の仕事の影響で向田(旧墨田区)に移り住みます。幼少期の梅子は手習いや踊などを習っていたようです。

1871年 – 6歳
岩倉使節団に随行し、アメリカ留学を果たす

1871年に欧米使節として岩倉使節団が派遣されます。梅子を含む5人の少女が女子留学生として派遣。梅子は12月にワシントンに到着し、チャールズ・ランマン夫妻のもとで暮らします。1873年に洗礼も受けました。

1882年 – 18歳
帰国後、日本の文化に戸惑いながら英語教師となる

1882年に梅子は帰国。幅広い教養を得るものの、長い留学生活の中で日本語は通訳が必要な程に衰えていました。梅子は封建的な日本に戸惑いを覚えながらも、伊藤博文の通訳や、下田歌子と共に英語教師として働きました。

1889年 – 24歳
再渡米し、プリンター大学で生物学を専攻する

留学時代の友人であるアリス・ベーコンの薦めで再度留学。上記で紹介したように生物学の分野で大きな功績を残しました。研究者としてアメリカに留まる事を勧められるものの、日本の女性教育の為に帰国しました。

1892年 – 27歳
華族女学校に勤めながら、女子学生達を援助する

帰国後の梅子は以前勤めていた華族女学校に復職。教師生活を続けながら、自宅で女子学生を預かるなど積極的援助に動きます。1898年には女子高等師範学校の教授に就任するなど、その功績が認められるようになりました。

1900年 – 35歳
女子英学塾の校長となる

1899年に高等女学校令と私立学校令が発令されます。女子教育の機運が高まると、梅子は教授職を辞して学校作りに専念します。1900年には女子英学塾を設立しました。当初は無報酬で働くなど、厳しい時期もありましたが、1903年に社会法人として認可。梅子の目指した教育方針は大きな話題となりました。

1917年 – 52歳
糖尿病が悪化する

積極的に働き続けた梅子でしたが、1917年から糖尿病に悩まされます。1919年に脳出血を3回も発症。絶対安静を強いられた為、塾長を辞任しています。

1929年 – 64歳
脳出血により死去

梅子は塾長引退後に鎌倉の別荘で療養していましたが、1929年に脳出血で死去しました。

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