津田梅子は何した人?生涯・年表まとめ【功績や性格、名言も紹介】

津田梅子の生涯年表

1864年 – 0歳「津田梅子誕生」

梅の花

梅に込められた思い

津田梅子は1864年12月31日に津田仙と初子の次女として生まれます。幕末という情勢下であり、仙は後継として男児を望んでいました。しかし誕生したのはまたしても女の子。仙は失望のあまり家出をしたそうです。

仙を見かねて初子は新たに生まれた女の子を「むめ(梅)」と名付けます。梅は2月に最盛期を迎えた後、春に向けて綺麗な花を咲かせます。新たな時代の節目にぴったりの花であり、梅子の運命を暗示するようでした。

女子教育に着眼する

失望していた仙ですが、1867年に幕府の任務でアメリカに通訳として派遣されます。仙は文化的に大きく発展したアメリカを見て、教育の大切さを感じたようです。前線で活躍する女性達を見たのかもしれません。

仙は男や女に関係なく、梅子にも惜しみなく教育を施しています。梅子の留学は仙の留学が影響していたのでした。余談ですが、仙と初子は1862年から1884年の間に五男7女に恵まれ、跡取り問題は解決しています。

1871年 – 6歳「女子留学生としてアメリカに渡米する」

渡米直後の津田梅子

岩倉使節団に随行する

明治を迎え、政府は岩倉使節団を欧米に派遣する事を決めました。仙は長女の琴子を女子留学生として応募するものの、琴子は拒否します。結果的に僅か6歳だった梅子が選ばれたのでした。

なお留学生の多くは戊辰戦争で幕府側についた家の子女でした。前向きに梅子を送り出した仙とは違い、他の留学生の留学は前向きなものではありませんでした。

例えば留学生の1人捨松は、幕末に多くの犠牲者が生まれた会津藩の出身です。元々は咲子という名前でしたが「捨てるつもりで待つ」と親が名を変えています。

1871年12月に横浜港を出発した使節団はサンフランシスコを経由し、ワシントンに到着。使節一行はヨーロッパへ向かいますが、梅子達はこの地に降り立ち、長い留学生活を送るのでした。

1872年 – 7歳「ランマン夫妻のもとで暮らす」

チャールズ・ランマン(1819-1895)

チャールズ・ランマン夫妻との出会い

梅子は日本弁務館書記であり画家でもあったチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられます。血の繋がりはないものの、梅子と夫妻は親子のような関係を築きました。

当初は若くて心配された梅子でしたが、若さが逆に功を奏しました。年長の悌子、亮子は留学生活が合わずに帰国しているからです。ランマン夫妻、残った留学生の捨松や繁子は生涯を通じ、梅子の支えとなりました。

洗礼を受ける

梅子はランマン夫妻のもとで、英語やピアノを学びます。キリスト教への信仰が生まれ、1873年には洗礼を受けています。1878年には私立の女学校、アーチャー・インスティチュートに通いました。

梅子はそこでラテン語やフランス語、更には自然科学や芸術なども学んでいます。もちろん勉強だけでなく、休暇にはランマン夫妻と各地を旅行する事もありました。

梅子達が留学して10年後の1881年に、彼女達を派遣した北海道開拓使から帰国命令が出ました。ただ梅子や捨松はまだ在学中であった為、留学を延長しています。1882年7月に卒業後、梅子達は日本へ帰国しました。

1882年 – 18歳「帰国後の戸惑い」

大山捨松

日本に対してカルチャーショックを受ける

梅子達は「経験を日本の為に活かしたい」と意気込んで帰国するものの、当時の日本は儒学が色濃く残っており、彼女達が活躍する分野はほとんどありませんでした。北海道開拓使も1882年に廃止されています。

梅子は留学を経て日本語は通訳が必要な程に衰えており、精神や考え方はアメリカ人だったのです。仙や初子は梅子の為にベッドや洋食を用意するものの、親子の間には精神的な距離感が生まれていました。

当時の梅子はランマン夫妻に手紙を書く事で寂しさを紛らわせていました。夫妻は梅子にアメリカに戻る事も提案したものの、梅子は日本の為に尽くしたいという気持ちは変わらず、日本に残る事を選びます。

親友達の結婚

前述した通り、当時の日本では14歳から16歳で結婚するのが当たり前でした。帰国して早々に繁子は海軍軍人の瓜生外吉と結婚。捨松も1883年に薩摩藩の軍人大山巌と結婚しています。

梅子にもいくつか縁談の話があったものの、日本の結婚観にうんざりし、生涯未婚を誓っています。

1883年 – 19歳「桃夭女塾で英語教師となる」

下田歌子

下田歌子との出会い

帰国して一年が過ぎた1883年、梅子は繁子に誘われて鹿鳴館の舞踏会に参加。その時に岩倉使節団に随行していた伊藤博文と再会しています。伊藤は梅子の境遇を知り、梅子に下田歌子を紹介しました。

歌子は華族子女を育てる為の私塾「桃夭女塾」を開設した人物です。梅子は敦子から日本語を教わると共に、英語教師として働き始めました。

伊藤博文の通訳としても活動する

この期間に梅子は伊藤家に滞在し、伊藤への英語指導や通訳も行なっています。伊藤と梅子との間に何かがあったという記録はなく、2人の関係は国家の発展の為であった事は間違いありません。

ただ伊藤は箒と呼ばれる程に女好きだった為、梅子は強い嫌悪感を持っていたようです。伊藤家に滞在して僅か1年後、梅子は通訳としての仕事を辞しています。

1889年 – 25歳「再度の留学」

ブリンマー大学入学時の津田梅子

華族女学校で英語教師となる

1885年に梅子は華族女学校で英語教師として招かれます。年俸は500円と破格の地位であり、梅子の教養の高さを評価したものでした。ただ華族女学校は良妻賢母を育てる機関であり、梅子の望んだものではありません。

1888年には留学時代の友人、アリス・メイベル・ベーコンが来日します。梅子はベーコンと話し合い、2度目の留学を決意しました。

仙の知人でお雇い外国人だったウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘を仲介にブリンマー大学から学費免除の許可を貰います。更に華族女学校校長の西村茂樹から2年の留学許可を得ました。

このように梅子の留学には様々な協力があったのです。1889年7月、梅子は2度目のアメリカ留学を果たします。

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