足利義昭とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係、子孫も紹介】

足利義昭の生涯年表

1537〜1565年 – 1〜29歳「世間から隔絶された僧侶時代」

唐招提寺御影堂は、一乗院宸殿の遺構で重要文化財に指定されています。

足利義昭の誕生

京都御苑にある近衛邸跡

1537(天文6)年 11月3日、第12代室町幕府将軍足利義晴の次男として千歳丸、後の足利義昭が生まれました。母は関白を務めた近衛家15代・近衛尚通の娘であった慶寿院です。

高僧・覚慶の時代

覚慶の時代から現在も残っている興福寺東金堂(国宝)

足利家では、家督相続争いを避けるため、嫡男以外は仏門に入るしきたりになっていました。千歳丸もそれに倣い、6歳の時に興福寺の塔頭(たっちゅう・大寺に所属する別坊)である一乗院の門跡に入室し、出家して覚慶と名を改めます。将来は高僧となり生涯を過ごす予定でした。

三好家最後の当主となった三好義継

ところが、思わぬ事態が起きます。1つ上の兄・足利義輝は1546年以降、父の跡を継いで将軍職についていましたが、1565年5月に三好義継や松永久通らに襲われて討死します。これによってにわかに将軍次期後継者となった覚慶が、世に出ることになるのです。

和田城全景

覚慶も三好一派に狙われる可能性があったため、7月に一乗院のある奈良を脱出し、幕府の奉公衆がいた近江の和田城へ移りました。そして覚慶は足利将軍家を継ぐ腹を決め、三好に対して打倒の兵を挙げます。12月には和田城から矢島へ行き、少林寺へ入って矢島御所が作られます。

1566〜1567年 – 30〜31歳「将軍の座を目指す」

義昭が匿われた、一乗谷の朝倉氏庭園

矢島御所での日々

現在の滋賀県守山市にある矢島御所

1566年2月、覚慶は矢島で還俗し「足利義秋」と名を改めます。4月には次期将軍が任官するしきたりとなっている左馬頭に任じられました。和田と比べ矢島は琵琶湖にも近く、地の利が良い場所であり、味方を集めるには適当と思われましたが、8月にはここにも三好軍が攻め込み、義秋は若狭へ逃げることになります。

義秋は、実の妹が嫁いでいた武田義統が守護をしている若狭へ庇護を求めるも、武田氏が内乱を抱えている状況であったため頼りにならず、9月には朝倉義景の治める越前敦賀へ行くことになりました。

将軍職を争っていた足利義栄

現在の大阪府高槻市富田町にある普門寺

一方、次期将軍を狙う義秋の対抗馬と目されていたのは、従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)でした。1566年9月、義栄は三好一門の一人・三好康長らに擁立されて摂津(現在の大阪府)に入り、12月には普門寺城を本営とします。

1567年には義栄が左馬頭に任官されます。当時京都の実権を握っていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が義栄を支持していたこともあり、義秋よりも次期将軍への道が開けていました。

1568〜1569年 – 32〜33歳「室町幕府の再興」

足利義昭を苦しめた三好三人衆の連署

第14代将軍足利義栄

足利義栄

1568年2月、摂津富田にて足利義栄は第14代将軍に就任します。しかし義栄は腫れ物が悪化し、将軍でありながら京都に入ることさえ叶わず、将軍職を継いで数ヶ月で病死してしまいました。

信長のバックアップで義昭が将軍職に就任

足利義昭が織田信長と初めて顔を合わせた立政寺

1568年4月、義秋は朝倉義景を加冠役として元服を行い、「義昭」と名を改めます。この時点で義昭は、朝倉義景の軍事力をバックに京都へ上洛するつもりでした。しかし義景は動こうとしなかったので、義昭は織田信長を頼るため、7月に岐阜へ移ります。この時に義昭を信長に引き合わせるきっかけを作ったのが明智光秀と細川藤孝でした。

なお、明智光秀がいつから義昭に仕えていたのかは定かでありませんが、この義昭と信長の対面には関わっていたことが史料で裏付けられており、これ以降は義昭を支える幕臣であったことは確かです。

摂津芥川城跡(現在の大阪府高槻市にある)
出典:高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ

9月には義昭を上洛させるため、織田信長が軍勢を率いて六角軍や三好三人衆の城を攻略し、義昭は摂津芥川城に入ります。10月には信長のもとで入京を果たし、義栄はすでに病死していたことから、義昭は第15代将軍に任命されるのです。

義昭と信長との共同支配時代

義昭が三好三人衆に襲われた仮御所・本圀寺
出典:日蓮宗 寺院ページ

無事に上洛することができた義昭は、織田信長に宛てた感状(感謝状)に「父」という名称を用い、褒め称えています。これは武士にとってこの上なく名誉なことでした。ただ、信長は称号や爵位は全て謝絶します。この対応が素晴らしいと世間は信長を褒めそやしました。信長は義昭の将軍就任後、帰国します。

1569年、年が改まった直後に三好三人衆は、信長のいなくなった京都で義昭を襲います。義昭は明智光秀ら幕臣の活躍で難を逃れました。

殿中掟

乱の直後には「殿中掟」が制定されます。これは義昭の近臣たちが将軍御所内で守るべき規則をまとめたものです。またこれは、信長が以後も義昭の政治を支えていくということを世間に示したものとなりました。一方、殿中掟は将軍の権力を制限するために信長が義昭に認めさせたものだという説もあります。

旧二条城(1576年に解体され、一部は安土城築城に再利用されました。)

さらに新たな御所の整備も急がれました。御所は約70日で完成したと言われています。御所の再興には信長が大きな役割を果たしたものの、義昭の呼びかけということで、幕府の奉公衆など数多くの者が参加し、室町幕府の威光を示すこととなりました。

4月、義昭が新将軍御所(旧二条城と呼ばれる)に入ったのを見届け、信長は一時帰国しました。この時、信長と義昭は涙を流して別れを悲しんだと言われています。

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