足利義昭とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係、子孫も紹介】

1576〜1586年 – 40〜50歳「鞆幕府」

潮待ちの港として古代から有名だった鞆の浦

毛利輝元を悩ます義昭

1576年、突如義昭は鞆(現在の広島県福山市)に姿を表します。安芸の大名・毛利氏を頼ろうとしたのです。当時、信長が西国にも勢力を拡大していたため、これまで友好関係にあった毛利氏とも勢力範囲がぶつかるようになってしまい、織田と毛利は和平交渉をしている最中でした。毛利氏にとって、義昭は最悪のタイミングで現れた、とんだ厄介者だったのです。

義昭が頼った毛利輝元
出典:Wikipedia

興味深いことに、毛利家文書にこの事態をどう切り抜けるかを検討した内容が残されています。そこには信長と戦う場合、戦いを避けた場合と2つのパターンが書かれています。

信長と戦うと、今交戦中の九州の大友宗麟や山陰の尼子勝久に加えて信長も相手にすることになり、厳しい状況が予測されました。

キリシタン大名としても有名な大友宗麟

一方で戦いを避けるとなると、仮にも将軍である義昭を放逐することになり、それは毛利の名前を貶めることになってしまうと考えたのです。また、このままいくと織田軍はさらに強大化してしまい、毛利としても手を出せない勢力になってしまうので、今戦う以外に信長を封じ込めるチャンスはないという判断もありました。

毛利は義昭を匿い、信長と戦う選択肢を選びます。結果的に義昭にとって歓迎すべき状況になったわけです。一方、毛利と織田にとっては、積極的に戦うつもりがなかったのに、義昭の来訪で戦わざるを得ない状況となりました。

そして後々、毛利との戦いが長引いたからこそ、豊臣秀吉はその援軍を信長に頼み、明智光秀が出兵し、信長も上洛したことで本能寺の変が起きるわけです。義昭の鞆への来訪は、歴史を大きく動かす一手となりました。

信長封じ込め作戦

上杉輝虎宛の足利義昭御内書

1576年5月、毛利氏が義昭からの信長打倒の上意に応じ、反信長の旗を掲げます。すると信長に同盟していた上杉謙信も反信長に転じます。義昭はすかさず御内書を遣わし、信長打倒の意思確認をしました。続いて武田勝頼、続いて大坂本願寺も信長打倒の約束をし、ここに反信長大同盟が成立するのです。

この頃になると、義昭は「足利将軍家」の看板を持っているという価値を最大限利用していることがわかります。毛利にとっても、義昭がいることで将軍家のための戦いという正義を示せるのは都合が良く、また世間的にも毛利は名を挙げることができました。

荒木村重の調略

荒木村重が籠城した有岡城の戦いでは、交渉にきた黒田官兵衛(如水)が土牢の幽閉されました。

義昭は多くの諸将を反信長派につけようと画策しますが、その調略が上手くいったものの一つとして、荒木村重の信長からの離反があると言われています。

荒木村重といえば、信長が重用した宿将であり、裏切りの知らせを聞いた信長は大きな衝撃を受けて激怒したという記録が残っています。この信長を慌てさせた荒木の造反は、義昭の家臣が毛利に帰順するよう説得した結果だというのです。

上手くいかない反信長軍の連携

信長一強の状況を避けようと、反信長派についた大名や集団は多々ありました。義昭が信長追討を命じる御内書を出したことで、動いた諸将もいます。しかし、反信長派として連携して動くことができなかったために、信長を封じ込めるまではいきません。

戦国時代でも指折りの謀将として知られる宇喜多直家

1578年3月には上杉謙信が他界し、1579年10月に宇喜多直家が信長に降参、12月には荒木村重も信長に降ります。再度蜂起していた石山本願寺も、1580年には白旗を上げ、1582年3月に信長は武田氏を滅亡させました。反信長派は追い詰められていきます。

本能寺の変

明治時代に描かれた本能寺の変

1582年6月2日、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれます。この知らせを聞いた義昭は、自分の帰京に尽力するよう、すぐ挙兵せよと毛利に命じます。しかし毛利は正確な情報を収集するのにも、同盟者たちに連絡を取るにも時間がかかり、すぐには動けませんでした。

義昭を利用する人々

継父・柴田勝家を失った浅井三姉妹(茶々・後に豊臣秀吉側室、初・後の京極高次正室、江・後に徳川秀忠正室)

信長亡き後、その後継者争いに名乗りを上げた柴田勝家も豊臣秀吉も、義昭に接近します。義昭が持つ人脈の広さ、政治的価値に魅力を感じたからでしょう。義昭は、豊臣秀吉と戦いを始めた柴田勝家に加勢するよう毛利に命じるも、毛利は様子見をして出兵しなかったため、柴田勝家は負けてしまいます。

豊臣秀吉

秀吉は、義昭の希望通り帰京させようとしていました。しかし、一番の懸念材料であった徳川家康が秀吉に屈服して以降は、秀吉がいわゆる天下人であり、義昭の将軍という存在価値は逆に邪魔なものでしかなく、義昭を京都に迎えようとはしませんでした。

将軍義昭の最後の仕事

豊臣秀吉と島津義久の和睦の様子
出典:ともちゃんの『徘徊と独り言』

1585年頃から、豊臣秀吉は天下統一に向け九州制圧に乗り出します。しかし島津は最後まで抵抗します。そこで1586年12月、義昭は島津に対し、和睦を周旋するから受け入れるように伝えます。1587年3月、秀吉は島津討伐に向かう途中で義昭に対面しています。そして5月、島津は秀吉に降伏するのです。

1587〜1597年 – 51〜61歳「穏やかな晩年」

歴代の足利将軍の木像が並ぶ等持院
出典:フォートラベル

念願の帰京

本能寺の変以降義昭が住んでいたとされる津之郷には、義昭を祀る惣堂神社がある
出典:ツーリング神社巡り 狛犬ウォッチング

島津の降伏が義昭の周旋の結果であったと秀吉は認め、1587年10月頃に義昭はようやく帰京しました。義昭は秀吉の臣下となり、1588年1月13日には秀吉に従って参内し、将軍の職を辞し、准三宮の位を授かりました。また、出家して昌山と号しています。

文禄の役

また、1592年3月には、秀吉は朝鮮出兵(文禄の役)の指揮のために九州へ出陣します。義昭もその出陣に従い、九州の名護屋まで行っている記録があります。

義昭の最期

1597年8月、義昭は病に倒れます。腫れ物が原因とも、高齢ながら名護屋まで出陣した疲れが死を招いたとも言われています。8月28日、ついに息を引き取りました。享年61歳でした。

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