功績2「明智光秀を世に出すきっかけを作った」
本能寺の変で織田信長を討ち取りながらも、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、3日天下といわれる明智光秀ですが、この人がいたから豊臣秀吉が天下を狙えたとも言えるので、近世を迎えるために必要な人物でした。
明智光秀はその前半生を示す資料が少なく、謎に包まれています。逆に言うと、足利義昭の側近として活躍し始めて以降は史料に名前を多く残しており、義昭が明智光秀を世に出したと言っても過言ではないでしょう。
義昭にとっても、信長に引き合わせてくれたのは明智光秀と言われており、この3人の出会いが歴史を大きく動かしたわけです。
功績3「室町幕府の存在意義を世に問う」
義昭は自分の意思で将軍になったというより、周囲に担がれてその地位を得て、それに見合う仕事をしようとした人だと思います。経緯はともかく、足利将軍家の血を引く者として、将軍になったからには職務を全うしたいと考えたことでしょう。
しかし足利将軍家も全盛期のような力はなく、大名同士の調停役などあくまで権威づけのための存在でした。それでも戦乱の世では役立つこともあり、実際義昭は和平交渉に尽力しています。しかし天下統一が成れば、それも必要なくなると、義昭は判断したのかもしれません。
足利義昭は室町幕府で将軍を務めた最後の人物となりました。義昭は1588年、将軍の職を朝廷に返しています。息子・義尋を還俗させ、将軍の座につけるという発想もなかったようで、後継者を定めませんでした。室町幕府の、将軍の意義を世間にも自分自身にも生涯に渡って問い続け、終わらせるべきと判断して職を返上した義昭の決断は、素晴らしいと思います。
何事も、幕引きというのはある意味一番難しい仕事です。江戸幕府も、大政奉還を決断したことは徳川慶喜の大きな功績であり、それがあったからこそ明治時代を迎えることができました。そう考えれば、200年以上続いた室町幕府に幕を下ろした足利義昭の功績は大きいと言えるでしょう。
足利義昭の名言
もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば
1568年3月下旬、足利義昭が朝倉義景の元にいた頃に、南陽寺で糸桜を観る会が開かれた時に義昭が読んだ歌と言われています。糸桜というのは枝垂れ桜のことです。「しだれる」という表現は家が没落するといったマイナスイメージがあるので、武士は枝垂れ桜のことを糸桜と呼んでいました。
「一緒に見た月を忘れないで欲しい。桜が長く枝垂れるように、長い年月にわたる契り(約束)だと思うなら」という意味で、義昭が朝倉義景に対し、長い付き合いを望んでいることが伝わってきます。
この歌に対し、朝倉義景はこのような返歌をしました。
君が代の時にあいあう糸桜 いともかしこき今日の言の葉
足利義昭の人物相関図
足利義昭にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「本能寺の変の黒幕は足利義昭?!」
2017年、明智光秀が室町幕府の再興を計画していたのではないか?と思わせる書状が発見されました。これは反信長派として知られる土橋重治から光秀が受け取った密書に対する返信です。義昭の上洛に向けて指示を受けた重治に、光秀が協力するという内容が書かれています。
これまでも、本能寺の変を起こした明智光秀の動機として、信長への怨恨説とは別に、義昭を京都に戻して室町幕府を復活させるためという説がありましたが、それを裏付ける史料として注目されています。
ただし、この書状が出されたのが本能寺の変より後という点が引っかかります。実際にはこの書状が出された翌日に光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、この世を去っているのです。つまり光秀は国内統治のために将軍という立場である義昭を利用しようとしたとも考えられ、室町幕府再興が本能寺の変の動機とは一概に言えない訳です。
本能寺の変についてはいまだに様々な議論が続いています。今後の研究結果を待ちたいところです。
都市伝説・武勇伝2「晩年は豊臣秀吉の話し相手」
足利義昭は晩年、京都へ戻り、豊臣秀吉の臣下となり御伽衆を務めていたようです。御伽衆とは主君のそばで話し相手になる役のことで、主に合戦や政治経験が豊富であったり、特殊な芸能を身についていた人が選ばれました。足利義昭のような波乱万丈の人生を送った人間にとっては、うってつけの役だったと言えるでしょう。
そして、豊臣秀吉はもともと百姓の身分であった訳で、そんな人物が元足利将軍を御伽衆に召抱えているという構図自体が秀吉にとって自らの権力の象徴であったと思われます。
都市伝説・武勇伝3「足利義昭の子孫は今も続く?」
足利義昭の子供としてはっきりしているのは、嫡男の義尋です。幼くして織田信長に人質として出され、出家します。興福寺大乗院門跡になるものの、還俗し2人の男子が生まれました。しかし2人とも出家し子供を儲けなかったため、嫡流は途絶えています。
一色藤長という、足利義輝の近臣であった武将が育てた一色義喬は、足利義昭の子供であるという説があります。栃木県足利市にある足利氏の菩提寺・鑁阿寺(ばんなじ)の文書に記載がありますが、明確な証拠は出てきていません。なお、江戸時代後期に坂本義辰という会津藩松平家家臣がいましたが、一色義喬の子孫だと主張していたようです。
また、永山義在(よしあり)という薩摩藩の人物が、足利義昭の息子という説が薩摩藩の史料にあります。薩摩藩で永山という薩摩藩士の娘婿となって永山を名乗るようになったようで、今も鹿児島でこの血統が続いています。西南戦争で戦死する永山弥一郎が子孫という説もありますが、定かではありません。