足利義昭とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係、子孫も紹介】

1570年 – 34歳「足利義昭と織田信長のピンチの一年」

浅井長政は信長の妹を妻に迎えたものの、浅井氏は朝倉氏に恩があり同盟関係にあったため難しい立場でした。

信長が負けた金ヶ崎の戦い

1570年4月、織田信長に危機が訪れます。越前の朝倉義景討伐のため20日に出陣した信長は、徳川家康軍とともに25日には金ヶ崎(現在の福井県敦賀市)に攻め込み、朝倉軍を打ち負かします。しかしその直後、信長の妹が嫁いで同盟関係にあった北近江の浅井氏の謀反にあい、信長は朝倉軍・浅井軍に挟み撃ちされるのです。

信長撤退の際に秀吉が立てこもっていた金ヶ崎城

信長は京都へ逃げ帰ります。わずか10名ほどの家臣しか連れていない状態だったと史料には書かれています。この時の撤退作戦は「金ヶ崎の退き口」とも呼ばれ、殿(しんがり)軍には明智光秀や豊臣秀吉が関わっていたとされています。

信長に加勢しようとした義昭

信長は軍勢を立て直すため、岐阜に戻ります。そして柴田勝家・佐久間信盛に兵を授け、近江で六角軍と戦い、勝利を収めました。そしてその勢いで、裏切った浅井氏の征伐をしようと信長は出陣します。浅井氏には朝倉氏が、信長には徳川家康軍が加勢し、近江で対峙しました。いわゆる「姉川の戦い」です。

姉川合戦図屏風

この際、義昭も出陣を予定していました。しかし摂津国にいた池田氏の一門が三好三人衆と手を組み、信長を見限ったのです。そのため、義昭が出陣してしまうと京都の守りが薄くなってしまうということで、出陣は取りやめになったのです。この辺り、義昭が信長と共に政権を維持しようとする様子が見て取れます。

四面楚歌の織田信長

1570年6月28日、近江浅井郡姉川(現在の滋賀県長浜市)で行われた姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍が勝利します。そして信長は義昭に戦勝の報告をするために上京しました。しかし、この戦いでは織田軍のダメージも大きかったため、信長は岐阜に引き揚げてしまいます。

野田城(現在の大阪府大阪市福島区付近)

すると信長不在の京都を、また三好三人衆が襲います。義昭は少ないながらも直属軍を率いて孤軍奮闘しました。8月には信長も大軍を率いて上洛、義昭とともに三好三人衆を討伐しようとしました。野田城・福島城の戦いとも呼ばれます。三好三人衆を追い詰めたその時、中立を保っていた本願寺が突然信長を討つべく挙兵するのです。

石山本願寺住職・顕如が門徒へ信長軍に対する蜂起を呼びかける檄文

さらに信長をピンチが襲います。朝倉・浅井連合軍、そして六角氏が本願寺に呼応し、信長に襲いかかったのです。9月23日、包囲された信長は、義昭とともに京都へ戻ります。信長はすぐさま近江へ向かい、朝倉・浅井連合軍を討とうとするも11月には延暦寺の僧兵までもが朝倉軍に加勢し、信長は危機的状況に陥るのです。

僧兵

この危機を救ったのは義昭でした。義昭は信長と朝倉氏との和睦を図ります。冬が近づいていたこともあり、北国が領国である朝倉氏は今後雪で閉ざされることを恐れ、和睦に応じます。その流れで浅井氏や本願寺も兵を引くことになったのです。

1571〜1572年 – 35〜36歳「織田信長との関係にヒビが入る」

織田信長

義昭が下す御内書

表面的には上手くいっていたような義昭と信長の関係でしたが、実際には1569年ごろから対立する火種が燻っていました。その一つと考えられているのが、義昭の御内書です。御内書とは、将軍家が発給する直状形式の文書のことで、特に室町時代後期に多く見られます。

六角氏第15代当主六角義賢

1571年ごろから、義昭は六角氏や武田信玄、毛利輝元などに御内書を送り、信長以外の大名と交誼を結ぶようになります。その背景には、1570年のピンチを見てもわかるように、信長がまだ盤石の基盤を持っていなかったこともあるでしょう。しかし信長にとって、これは義昭が信長に不満を持っているからだと捉えてしまう一つの要因でした。

十七箇条の意見書

1572年10月に信長が義昭に向けて提示した十七箇条の意見書で、二人の決裂が表面化します。「朝廷に参内するようにお願いしたのに、行ってないようですね」といった細かい話がつらつらと書き連ねてあります。今まで信長が黙って見過ごしてきたことをここで爆発させているようで、信長は義昭に対して我慢の限界だったのかもしれません。

1573〜1575年 – 37〜39歳「流浪の日々」

紀伊にいた義昭が名刀「来國光」として寺に贈ったものの、2017年に「来國光」の偽物と判明しました。

義昭の挙兵

三方ヶ原の戦いで負けた直後に自戒のために家康が描かせたと言われています。

1573年2月13日、義昭は反信長の兵を挙げます。挙兵の理由として、武田軍の存在があると思われます。1572年、信長が同盟を結んでいる徳川家康が、武田軍と激突し大敗するという三方ヶ原の戦いがありました。信長にとって、徳川家の領地はすぐ隣であり、武田軍は大きな脅威でした。そのため、信長は京都に駐屯させていた軍を岐阜へ戻す判断をする可能性があります。

三方ヶ原の戦い

義昭にとって、それは一番困ることでした。京都に信長軍が手薄になれば、朝倉氏など反信長軍が殺到してきてしまい、自らの命も危うくなりかねない訳です。

信長はすぐに義昭に使いを出し、義昭の出す条件を全て受け入れる形で義昭に翻意させます。そして十七箇条の意見書を世間に公表し、義昭の振る舞いが問題であること、信長が逆臣というわけではないことを訴えるのです。

ただし十七箇条の意見書は、信長にとって、自分の世間のイメージをよく見せるための材料であったわけで、ここに書かれていることが真実とは言い切れないということは、後世の私たちは心に留め置くべきことでしょう。

武田信玄の死

義昭は挙兵することで信長を追い詰めていったつもりでしたが、思い通りにならない事態があちこちで発生します。まず、期待していた朝倉軍が上洛を拒否します。するとそれに対して反信長派として共闘していた大坂の本願寺が不満を言い出します。本願寺は浅井軍とも不仲でした。

武田信玄

そして極め付けは武田信玄の死去です。武田軍は「西上作戦」と呼ばれる遠江・三河へ侵攻する作戦の途上でしたが、1573年4月12日に信玄が亡くなったことでその進軍は取りやめられ、撤退します。武田軍を恐れていた信長にとって、これは天佑であり、義昭にとっては血の気が引くような知らせだったことでしょう。

信長に降伏

信玄の死を知るや、信長は直ちに上洛し、義昭に降伏勧告をします。しかし義昭は応じなかったため、京都を焼き討ちにします。義昭は、朝倉軍に上洛を頼むも断られ、信長に追い詰められていきます。

室町時代末期を治めていた第106代正親町天皇

4月7日、信長は朝廷を動かし、「勅命」で義昭に降伏させます。義昭は信長に人質として息子(後の義尋)を差し出しました。これによって信長と義昭は和平がなったのです。

義昭の再挙兵と京都追放

現在の京都府宇治市にあった槙島城

しかし7月、義昭は再挙兵します。将軍御所を出て真木島城に籠城したのです。なぜ再度信長に背いたのかは推測でしかありませんが、信長に不審があるといった助言を義昭が聞き入れたからという史料が残っており、一度は許されたといえ、義昭は信長を信じきれなかったからではないかと思われます。

信長は義昭の再挙兵の知らせを聞くとすぐに上洛し、将軍御所を占拠します。そして真木島城を取り囲み、周囲を焼き払いました。恐れをなした義昭は信長に降ります。信長は義昭を京都から追放しました。

ただ、信長は室町幕府自体を否定していたわけではありませんでした。義昭から人質として出されていた義尋を擁立し、諸大名に年始の挨拶をするよう求める文書を出しているからです。

朝倉義景

8月、信長はまずは朝倉氏を、そして浅井氏を討伐し、滅亡させます。もし義昭が京都で健在であれば、義昭が間に立って朝倉氏も信長と和睦できる可能性があり、このような結末を迎えずに済んだかもしれません。そして義昭にとっても、信長に対抗できる力のある大名がいなくなったことは大きな痛手でした。

現在の和歌山県日高郡由良町にある興国寺

11月、信長と同盟関係にあった毛利氏の仲介もあって、義昭と信長は和睦交渉の席につきました。しかし義昭が信長に人質を求めたことで話は決裂し、義昭は京都に戻ることができず、1574年には紀伊にあった興国寺に身を寄せました。この時に義昭に同行した臣下は20名ほどしかいなかったと言われています。

力をつけていく信長

伊勢長島の本願寺門徒による一向一揆の様子

1574年、信長は長年苦しめられてきた伊勢国長島の本願寺門徒との激戦を制し、陥落させます。そして1575年5月21日、徳川軍とともに挑んだ長篠の戦いで武田勝頼軍を敗走させました。8月には越前へ軍勢を送り込み、越前の門徒衆を討ち果たします。この時信長は、性別も年齢も関係なく徹底的な殺戮を行い、死者は万単位であったと記録に残っています。

石山本願寺住職・顕如

この事態に恐れをなした大坂本願寺も10月には信長に降伏します。11月、信長には権大納言・右近衛権大将の官位を与えられました。義昭と同じ位に並んだのです。それだけでなく、長年将軍家近親者にしか与えられていない地位を信長が得たことで、他の大名とは別格であることを示すものとなりました。

この信長の快進撃の最中にも義昭は紀伊国にいながらにして信長包囲網を作るべく、情報収集に務め、味方になってくれそうな大名に上使を遣わしたり、御内書を出して呼び掛けていましたが、有力大名は誰一人として応じることはありませんでした。

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