平塚らいてうとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、作品や出版した青鞜などの雑誌について紹介】

平塚らいてうは戦前から昭和にかけて活動した女性運動家であり「元始、女性は太陽であった」というフレーズを生み出した人物です。明治から大正にかけて女性は男性に従属し「男尊女卑」や「良妻賢母」が当然だと思われていました。

らいてうはそんな時代の中で、女性の権利を声高らかに主張したのです。らいてうの主張は男性の多くから批判を浴びたものの、抑圧されていた若い女性からは支持されました。更に戦後には世界平和を訴える活動家としても活躍する等、多岐にわたる功績を残しています。

青鞜を創刊した頃のらいてう

らいてうは学校の授業でも必ず習う人物であるものの、女性運動家という肩書きから真面目で堅苦しい人物だと思うかもしれません。具体的に何をした人物か知らない人も多いでしょう。らいてうは日本で初めて事実婚をする等、当時の発想に囚われない自由な発想の女性でした。

現在でも男女平等は完全に達成されてはいないものの、らいてうの主張は日本の社会のあり方に一石を投じた事は間違いありません。その点でもらいてうは、革命家といっても過言ではないのです。

今回は平塚らいてうの生き方に感銘し、力強く生きている女性を全力で応援する筆者が平塚らいてうの生涯について解説します。この記事が皆さんが「男女平等」について考えるきっかけになれば幸いです。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

平塚らいてうとはどんな人物か

名前平塚 明(はる)
誕生日1886年2月10日
没日1971年5月24日
生地東京市麹町区(現千代田区)
没地千駄ヶ谷にある代々木病院(渋谷区)
配偶者奥村博史
埋葬場所春秋苑墓地(川崎市)

平塚らいてうの生涯をダイジェスト

戦後のらいてう

平塚らいてうの生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1886年 平塚らいてう誕生
  • 1898年 東京女子高等師範学校に入学
  • 1908年 森田草平と心中未遂(塩原事件)を起こす
  • 1911年 女性による婦人月刊誌「青鞜」を刊行
  • 1912年 奥村博史と出会い、2年後に事実婚をする
  • 1919年 新婦人協会を結成する
  • 1929年 婦人による消費組合「我等の家」を設立
  • 1953年 「日本女性の平和への要望書」をダレス特使に提出
  • 1962年 「新日本婦人の会」を結成
  • 1966年 ベトナム戦争終結の為の平和運動を行う
  • 1971年 駄ヶ谷の代々木病院で死去(享年85歳)

女性の感性の解放を目指す青鞜社を結成!

青鞜の創刊号

らいてうは1911年に文学団体「青鞜社」を立ち上げます。青鞜社は「女の手による女の文芸雑誌」を出す事が目的で、機関誌として「青鞜」を刊行しました。立ち上げ当初のメンバーはらいてうを入れて女性5人です。

ちなみに青鞜は英語でBluestocking。ブルーストッキングの和訳です。18世紀のロンドンでは知性を尊重する婦人達が、紺色の長靴下を好んで履いていました。青鞜にはそれらの女性に敬意を示す為に付けられた名前です。

当時の日本は女性に自由な恋愛は認められず、参政権もありませんでした。青鞜では女性自身による独立を歌い、婦人の覚醒を説きました。女性達の反響は大きく、青鞜社に激励の手紙や入会する人が後を絶たなかったのです。

ただ青鞜は急進的な内容であり、家制度を重視する男性達は冷ややかでした。青鞜社に所属する女性達も当時の感覚としては奔放な性格であった為、世間からバッシングを浴びています。

  • 吉原登楼事件:尾竹紅吉(本名富本一枝)が叔父に連れられ吉原遊廓を見学した事が騒ぎになった事件
  • 五色の酒事件:更に尾竹がバーでカクテルを飲んだ事を記者に話して批判を浴びた事件
  • 荒木郁が不貞行為の小説「手紙」を青鞜に掲載して発禁処分を受ける

青鞜は何度か発禁処分を受け、1916年2月を最後に刊行は終了。発行後半になると女性の社会問題も取り上げられていたものの、それらの具体的な活動は新婦人協会の発足を待つ必要があります。

「元始、女性は太陽であった」というフレーズに込められた思いとは?

青鞜のメンバー逹(右端がらいてう)
出典:クーリエ・ジャポン

平塚らいてうと言えば「元始、女性は太陽であった」というフレーズがあまりにも有名ですが、実は続きがあります。

元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような青白い顔の月である。私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。

このフレーズは青鞜の創刊の辞として掲載されました。ちなみに創刊号の表紙は高村光太郎の妻である長沼智恵子が描き、巻頭の詩を与謝野晶子が担当する等、錚々たるメンバーが担当していたのです。

太古の時代の女性は社会の中心に位置し、平安時代は結婚制度に縛られない男女関係も普通でした。江戸時代には女性が家督を継ぐ事もあり、性差別や男尊女卑は明治時代に政府の都合により作られた一面がありました。

「かつては太陽のように輝いていた女性が、男性の力がないと輝く事が出来ない」という時代がまさに明治時代でした。らいてうは「女性が持っていた真の輝きを取り戻す」為に、青鞜の創刊号に自らの思いを込めたのです。

世間を賑わせたスキャンダル?塩原事件

らいてうと心中未遂をした森田草平

らいてうの名が初めて世の中に知られたのは、1908年に作家の森田草平と起こした自殺未遂です。当時のらいてうは本名の明を名乗り、学校の文学会で「愛の末日」と言う小説を書いていました。

既婚者だった森田は明の小説を高く評価し、手紙を通じて2人は恋仲になります。しかし3月21日のデートの際に森田は拳銃を購入し、心中する事を告げます。明も同意し塩原温泉の尾頭峠まで着いて行きました。

結局2人は心中する事が出来ず、山中を彷徨っているところを保護されます。当時の明は日本女子大学校の女学生。森田も夏目漱石の弟子だった為、新聞は2人の事を面白おかしく連日書きたてたのです。

森田は事件を元にした小説「煤煙」を執筆し有名作家となり、明は日本女子大から名前を抹消されます。現在でも芸能人の不倫が報道されると、女性側の方が批判される事はありませんか?当時はその傾向が今より強かったのです。

明はこの事件をきっかけに、性差別や女性の自我の解放に興味を持つようになったのでした。

平塚らいてうの家族構成は?事実婚って本当?

らいてうと奥村博史

らいてうは1914年に5歳年下の洋画家である奥村博史(1889〜1964年)結婚し、長女と長男をもうけました。2人は従来の結婚や家制度を良しとせず、婚姻届を提出せずに事実婚を選択。らいてうは以下のように述べています。

私たちは愛するもの同士なので、日本婚姻法に定められているような夫と妻との関係ではありませんし、また、あってはならないのです。

2人は新たな結婚の形を「共同生活」と呼ぶものの、世間は「野合(やごう)」と批判。ただ2人は周りの声を気にせず仲睦まじく暮らしました。奥村は「妻の指を飾る指輪」を作る為、指輪の先駆者として名を馳せています。

子どもはらいてうの戸籍に入り育てられますが、当時の法律では子どもが母側の戸籍に入ると兵役が不利になりました。子どもを守る為、2人は後に婚姻届を提出しています。婚姻届の提出は子どもを守る為に選択されたものでした。

ちなみに長女の曙生(あけみ 1915-1993年)は社会学者の築添正二と結婚し、母子随筆という本を記しています。また長男の敦史(あつふみ 1917-2015年)は早稲田大学理工学部の教授を務めました。

平塚らいてうの功績

功績1「日本初の婦人運動団体である新婦人協会を結成」

新婦人協会が創刊していた女性同盟

らいてうは市川房枝・奥むめお達と1919年に新婦人協会を結成します。らいてうは繊維工場で働く女性労働者の過酷な環境をみて、婦人参政権・母性の保護・女性の社会的自由の確立が必要と考えたのです。

ただ全てを達成する事は難しく、当面は「治安警察法第5条改正」と「花柳病男子結婚制限」を目標とします。当時の女性は政治結社への加入、政治演説会の参加や主催する事は出来ませんでした。

また花柳病とは性病の事です。当時は売買春を認める公娼制度があり、新婚の夫から花柳病に妻が感染する事例がありました。らいてうは母性保護の立場から、花柳病男子結婚制限に熱心に取り組んでいたのです。

新婦人協会は1922年に治安警察法の一部改正に成功。女性の政治演説会の参加と主催が認められます。政治結社の加入は1945年まで待つ必要がありますが、戦前の婦人団体が政治的権利獲得に成功した唯一の例でした。

なお協会の発起人のらいてうと市川房枝は、意見の対立から1921年に脱退。改正運動は奥むめおが主導しています。ただらいてうがいなければ、協会そのものが存在しなかった事から、らいてうの功績は大きいでしょう。

功績2「消費組合「我等の家」を設立」

らいてうが影響を受けた高群逸枝

らいてうは1929年に消費組合「我等の家」を設立しました。当時のらいてうはアナキスト(無政府主義)の高群逸枝や、クロポトキンの「相互扶助論」に共鳴し、相互に恩恵のある協力関係を作りたいと考えていました。

1929年といえば世界恐慌が始まり、日本も経済的に困窮する人が続出した時代です。そんな中でらいてうは消費者の利益を守り、商品の品質や価格を消費者の負担にならないように声をあげたのです。

我等の家を設立した時にらいてうは以下の言葉を残しています。

消費者自身による消費者のための協同生産が行われることになり、こうして消費者が同時に生産者である全然利潤のない経済的自治の消費世界が打ち立てられるということです

らいてうの主張は経済的自治による消費社会の樹立であり、資本主義の否定でした。らいてうの考えは世の中に一石を投じたものの、到底受け入れられるものではありませんでした。

1938年に制定された国家総動員法成立により、「我等の家」は解散させられています。

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