小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

平塚らいてうとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、作品や出版した青鞜などの雑誌について紹介】

平塚らいてうの年表

1886年 – 0歳「平塚明誕生」

幼少期のらいてう(右)と姉の孝(左)

平塚明誕生

らいてうは1886年2月10日に明治政府の役人の定二郎と、光沢(つや)との間に生まれます。三人姉妹の末娘で、本名は明(はる)と言いました。当時はまだ明なので、しばらくは明と表記していきます。

幼少期の明は食が細く、頭痛もち。声帯が弱く声が出づらい体質でした。ただ周囲への観察力は鋭く、感性豊かな子どもだったそうです。

日本主義者となった父親

父親の定二郎は欧米視察の経験もあり、幼少期の明は非常にハイカラな環境で育ちました。当時の日本は井上馨の鹿鳴館政策により極端な欧化主義が花開いた時代で、定二郎もその影響を受けています。

ただ1892年、明が高等小学校に入学した頃に鹿鳴館政策は終焉。定二郎は「古き日本の文化や伝統を守る」という日本主義(国粋主義)に傾倒します。ハイカラな生活は一転し、母の光沢も江戸時代の髪型である丸髭に戻したのです。

1898年 – 12歳「東京女子高等師範学校附属女学校に入学」

東京女子高等師範学校時代のらいてう

良妻賢母教育への反発

1898年には父の意志で日本主義のモデル校である東京女子高等師範学校に入学させられました。「わたし」は厳禁で、常に「わたくし」と言う事が求められます。ここで明は苦痛の5年間を過ごしたと後年語りました。

当時の明はテニスに熱中した他、授業で習った倭寇に憧れました。自分の理想を海賊だと確信し、女友達と「海賊組」を結成して修身の授業をサボる等、それなりに楽しい学生生活を過ごしていたようです。

また金権政治家のはしりと言われ、暗殺された星亨に憧れを抱き、墓参りにも出かけています。周囲が「星は悪玉だ」と言う程、明は星を庇いました。ただ当時の明は新聞を読んでおらず、星の人物像までは把握していません。

倭寇に星亨。当時の明は社会に反抗し、命を投げ出す覚悟で生きた者達への強い思いがありました。これが後の塩原事件に繋がっているのかもしれません。

1903年 – 17歳「日本女子大学校に入学」

日本女子大学校の授業の様子

日本女子大学校へ入学

1903年に明は広岡浅子が設立した日本女子大学校へ入学。これは「女子を人として、婦人として、国民として教育する」と言う理念に惹かれたからです。ただ日露戦争が勃発すると、日本女子大も日本主義の度合いが強くなります。

禅の世界への没頭

当時の明は自分探しに没頭しています。キリスト教や哲学書等を学ぶものの、精神だけでなく身体も没入しないと納得は出来ません。1905年に明は禅の存在と出会い、禅の道場「両忘庵」に通い、悟りを開いた証明を得ています。

ただ明は禅の勉強ばかりではなく、貪欲に知識を吸収しました。日本女子大に通いつつ、津田梅子が立ち上げた女子英学塾で英語を学び、漢文を学ぶ為に二松学舎にも通っています。

1906年には女子大を卒業。明は英語をもっと学ぶ為に1907年に成美女子英語学校へ入学しました。

1907年 – 21歳「「愛の末日」の執筆と塩原事件」

塩原事件を起こした頃のらいてう

閨秀文学会に参加する

1908年、成美女子に閨秀文学会という文学講座が発足します。当時の明はゲーテの「若きウェルテルの悩み」に感銘し、文学に興味を持っていました。閨秀文学会では与謝野晶子や島崎藤村等が講師として参加しています。

明は万葉集や古今和歌集等の古典文学を学んだ他、「愛の末日」と言う小説を書きました。これは閨秀文学会で回覧雑誌を作る事が目的であり、明の処女作です。愛の末日を高く評価したのが森田草平でした。

塩原事件

森田は明に手紙で作品の批評をし、2人は恋仲になります。その後の1908年に2人が心中未遂である塩原事件を起こした事は先程述べた通りです。新聞は2人の事を面白く書き、明の顔写真も掲載されました。

事件の後に森田は明の元を訪れた他、事件を元にした小説「煤煙」が掲載されています。余波は続くものの、明にとっては過ぎた事でした。塩原事件後の明は信州に身を寄せており、その後は再び禅に没頭しています。

1911年 – 25歳「青鞜を創刊する」

青鞜の立ち上げを勧めた生田長江

青鞜とらいてうの誕生

1911年9月に、明は女性による女性の為の文芸誌「青鞜」を創刊します。創刊は明の意志ではなく、閨秀文学会の主催者だった生田長江が明に打診したものでした。明は動機も決まらぬまま創刊に同意しています。

ちなみに青鞜という雑誌名も生田が決めたものでした。生田が青鞜の創刊を明に勧めたのは、1905年に河合酔茗が「女子文壇」を創刊し、女性の為の文芸登竜門が作られており、それに対抗する為と言われています。

明は青鞜の製作にあたり青鞜社を立ち上げます。そして青鞜の創刊号に有名な「元始、女性は太陽であった」と言う創刊の辞を掲載。この時に初めて「平塚らいてう」と名乗ったのです。

なお青鞜が女性を中心に大きな反響を得た事は前述して述べた通りですね。

1912年 – 26歳「奥村博史との出会い」

奥村博史との共同生活

奥村博史との出会い

青鞜の製作が多忙を極めていた1912年夏に、らいてうは5歳年下の画家である奥村博史と出会います。2人はその時の出会いをこのように残しました。

眼と眼が合った瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見た(奥村博史)

わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間に生まれたのでした(平塚らいてう)

1914年にらいてうは奥村と「共同生活」を始めます。2人は青鞜と家庭の両立を目指すものの、奥村は結核を発症。1915年にらいてうは奥村の看病に専念する為、青鞜社の一員である伊藤野枝に編集権を譲り、青鞜から退きます。

青鞜の終焉

その後の青鞜は伊藤野枝が主導するものの、1年後に「日蔭茶屋事件」が起こりました。これは伊藤が大杉栄と交際を始めた事で、元々大杉と交際していた青鞜社の神近市子が嫉妬して大杉を刺した事件です。

幸い大杉は一命を取り留めるものの、元々風当たりの強かった青鞜への影響は甚大でした。後に青鞜は1916年4月号を最後に休刊しています。

1919年 – 33歳「新婦人協会を立ち上げる」

らいてうと新婦人協会を立ち上げた市川房枝

市川房枝との出会い

青鞜休刊後のらいてうは奥村の看病、子どもの育児に追われる日々を送りました。前述した母性保護論争が起こったのもこの時期です。

1919年にらいてうは山田わかから市川房枝を紹介されます。2人は繊維工場で働く女性労働者の現状を視察し、新婦人協会を立ち上げています。らいてうは婦人論や軍縮論等を執筆し、問題提起の役割を担ったのです。

奥村と信州に住み始める

なお前述した通り、1921年にはらいてうと市川は新婦人協会から脱退しています。らいてうは声が出にくい体質であり、演説は苦手でした。自分の存在が政治活動の担い手や突破者になる事に不満があったようです。

新婦人協会は治安維持法の一部改定に成功するものの、らいてうと市川という指導者を欠いた結果、徐々に活動は停滞。1922年12月の臨時総会により解散しています。

らいてうは新婦人協会から脱退後、信州の農村に移り住みます。これはらいてうによる生活実験であり、らいてうは初めて日本の農村の実態に触れました。

1929年 – 44歳「消費組合「我等の家」を設立」

戦前の成城学園

消費者運動に携わる

農村での生活実験を続けたらいてうですが、1927年には砧村(現在の世田谷区)に移り住みます。1925年には奥村がこの近くに建てられた成城学園の美術講師になった事も関係してあるかもしれません。

この頃のらいてうが関心を寄せたのは、消費者運動でした。らいてうは1929年にこの地に消費組合「我等の家を設立。組合長を務めています。

その他にもいくつかの団体に参加する

その後もらいてうは積極的に活動を推進します。1930年には「新しい自治社会の建設と、母性文化の創造」を目的とした無産婦人芸術連盟に参加。更に翌年には無産婦人芸術連盟にも参加しています。

1938年 – 53歳「日中戦争と経済統制」

日中戦争の発端となった盧溝橋事件

日本が統制下に置かれるようになる

様々な活動を続けたらいてうですが、1937年に日中戦争が起こり、国家総動員体制が敷かれるようになると活動に制約が出てきます。1938年には「我等の家」は解散を命じられました。

らいてうは息子を兵役の面で不利にならないように、この時期に奥村と正式に夫婦となっています。1942年には夫と共に茨城県の小安川で疎開生活を始めました。ヤギを飼い、ほぼ自給自足の生活をしています。

戦争期のらいてうは戦争に対する言及をほとんどしていません。らいてうが沈黙を守り続けたのは、戦争体制側に引き込まれないようにする為と言われています。やがて来る「その時」をらいてうは待ち続けるのでした。

1945年 – 60歳「終戦を迎える」

日本国憲法

新しい時代の幕開け

1945年に太平洋戦争が終結すると、女性活動家達は再び動き始めます。共に新婦人協会を立ち上げた市川房枝は「新日本夫人同盟」を立ち上げ、らいてうに参加を呼びかけますが、らいてうからの反応はありませんでした。

その後もGHQによる「婦人民主クラブ」、文部省による「婦人教育研究会」等、女性の権利の獲得を目指した団体が作られるものの、らいてうは参加していません。

日本国憲法の制定

1946年に日本国憲法が制定され、女性の参政権が認められます。それに伴いらいてうは1948年に刊行された女性雑誌に「わたしの夢は実現したか」と言う一文を掲載しています。この時らいてうは以下のように述べました。

『いまこそ、解放された日本の女性の心の底から、大きな、大きな太陽が上がるのだ。みよ、その日がきたのだ』わたしの心は、いまかぎりないよろこびにあふれている

女性の参政権がアメリカの指示のもとで達成された事に対して、複雑な心境をらいてうは述べています。60を超えたらいてうはまだまだ活動を続ける事を宣言したのです。

1950年 – 65歳「「日本女性の平和への要望書」を提出」

安保廃棄のデモ行進をするらいてう

「日本女性の平和への要望書」を提出

戦後のらいてうが心を惹かれたのは、世界平和に対する活動でした。らいてうは「これぞ探しもとめていたもの」として、世界連邦建設同盟に参加した事を自叙伝で明かしています。

1950年にはアメリカのダレス特使に「日本女性の平和への要望書」を提出。「非武装の日本」をアメリカに訴えるのでした。

安保条約の締結

1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結し、アメリカやイギリスと単独講和を結びます。同時に日米安全保障条約が締結され、アメリカ軍はその後も日本に駐留する事が決まりました。

らいてうは条約に反対し、それ以降様々な団体に関わっていきます。

  • 1951年12月に再軍備反対婦人委員会を発足
  • 1953年4月に日本婦人団体連合会を発足
  • 1953年12月に国際民主婦人連盟の副会長に就任
  • 1955年11月に世界平和アピール七人委員会の立ち上げに参加

1962年 – 76歳「新日本婦人の会の発足と、ベトナム戦争」

75歳頃のらいてう

新日本婦人の会の発足

1962年には新日本婦人の会を発足。新婦人協会で掲げた治安維持法の改定等が目的ではなく、核戦争の根絶や憲法改定への反対等も盛り込まれています。らいてうは代表委員として参加し、その後顧問となりました。

ベトナム戦争

またベトナム戦争が勃発すると、らいてうは戦争の早期終結を主張。この時も1966年にベトナム話し合いの会を結成した他、1970年にはベトナム母と子保健センターを設立しています。

1970年の時点でらいてうは84歳。既にかなりの高齢でしたが、世界平和への想いは尽きる事はなかったのです。

1971年 – 85歳「平塚らいてう死去」

らいてうの墓

平塚らいてう死去

1970年頃かららいてうは自叙伝の作成に取り掛かるとのの、胆嚢・胆道癌を患うようになります。その後も口述で作成を続けるものの、1971年5月24日にらいてうは85歳で死去しました。

なお、自叙伝「元始、女性は太陽であった」は支援者の手によって1973年に完結。最後の言葉はこのように締められています。

途中、どんなに困難に試されることがあろうとも、わたくしは永遠に失望しないでしょう

平塚らいてうの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

元始、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝

らいてうの自叙伝です。この記事で引用した文章の多くはこちらの自叙伝から引用しています。らいてうの行動理念や生き様を学びたい時に選びたい一冊です。塩原事件や青鞜の一件等、小説のように読めてしまいます。

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ

らいてう達が青鞜を立ち上げた事は有名ですが、その行程や掲載内容についてはほとんど語られる事はありません。この本は青鞜の歩みについて掘り下げられており、一枝達らいてう以外の女性達の足跡も分かります。

雑誌を刊行する苦労、そして達成感等、彼女達の冒険心が伝わってくる一冊です。

平塚らいてう/萱野茂:女性・先住民の権利をもとめた人びと (非暴力の人物伝)

らいてうの思想や生涯について子供向けに書かれた本です。らいてうについて知りたいけど、活字は大変。そんな人にオススメの一冊です。ちなみに同書で紹介された萱野茂はアイヌ人の為に人生を捧げています。

女性、そして先住民の権利を求める事は当時の日本ではとても大変な事でした。それがよく分かる一冊です。

おすすめの動画

声でつづる 昭和人物史【 平塚 らいてう 】

らいてうが1954年2月のNHKのラジオ放送に出演した肉声です。青鞜を立ち上げた経緯等がらいてうによって語られています。当事者から話を聞くことでよりリアリティがありますね。

らいてうの肉声も貴重なので是非聴いてみてください。

【中学 社会】 大正③ ~ 労働争議、平塚らいてう、関東大震災等の大正時代を3分で!【3分で歴史】

大正時代における労働争議等の経緯について分かりやすくまとめられています。当時は部落問題に対する全国水平社等、デモクラシーが大きく躍進した年だった事が分かりますね。

【高校生のための倫理】大正時代の思想(日本思想)

倫理の学習を想定した動画ですが、吉野作造や美濃部達吉等、学生時代に習った思想家や学者達の事を一気に復讐できます。私達が当たり前に感じている事や社会の制度も彼らの手によって生まれた事が良く分かる動画です。

おすすめドラマ

今のところ平塚らいてうを主人公にしたドラマは放送されていません。ただらいてう自身は朝ドラ等に何回か出演しています。

連続テレビ小説 あさが来た 完全版 DVDBOX3

2015年に放送された朝ドラであり、主人公の白岡あさは教育者の広岡浅子をモデルにしています。らいてうは日の出女子大学の学生として登場。あさを超える事を宣言する等、芯の強いキャラクターでした。

学生時代のらいてうを演じた大島優子

ちなみにらいてうの初登場はドラマのラスト2週目です。これは次クールの「とと姉ちゃん」の布石とも言えました。副主人公の花山伊佐次のモデルは花森安治と言い「暮らしの手帖」の初代編集長だった人物です。

花森は自身の思想の出発点として、らいてうを挙げています。あさが来たのらいてうの登場は、らいてうに対するリスペクトの意味も込められているのかもしれません。

連続テレビ小説 とと姉ちゃん 完全版 DVD BOX3

あさが来たの次クールの朝ドラであり、主人公の小橋常子は「暮しの手帖社」創業者の大橋鎭子がモデルです。らいてうはこちらにも登場するものの、学生ではなく、戦後に登場。大御所の評論家として一目置かれる存在でした。

戦後のらいてうを演じた真野響子

2つのドラマを経て、らいてうは学生から熟年期へと人間的に大きく成長しています。2つのドラマを見比べるのも良いかもしれませんね。

関連外部リンク

平塚らいてうについてのまとめ

今回は平塚らいてうの生涯について紹介しました。紹介した後に言うのも気が引けますが、らいてうの人物像は記事を書いた後でも伝えきる事は出来なかったと考えています。

実はらいてうが残した功績はそれ程多くありません。青鞜は家庭生活の為に一線から退き、新婦人協会も途中で脱退。平和活動も大局的に見れば安保闘争等に敗れています。何をしたのかと言えば、実は紹介しにくい人物なのです。

それでもらいてうが注目されるのは、明治という時代の中で、女性として葛藤や理念を主張した事でしょう。倭寇に憧れた少女が世論に対して声を上げ、それに賛同した人がたくさんいた。それだけで大きな意味があると思います。

今回の記事を通じてらいてうに興味を持っていただけたら幸いです。

1 2

1 COMMENT

コメントを残す