平塚らいてうとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、作品や出版した青鞜などの雑誌について紹介】

功績3「戦後に反戦・平和運動に参加」

第一回世界連邦北海道会議の様子

戦後のらいてうは世界連邦運動という、「世界の国家全てを統合した世界」を目指す運動に参加します。これは戦後に発足した国際連合が戦争抑止力としては弱いと考えた科学者・文化人が1946年に立ち上げたものです。

日本がサンフランシスコ講和条約を結んでアメリカから独立する時、国内では全面講和(アメリカ・ソ連等の全ての国との和解)か片道講和(アメリカ・イギリス等の西側各国)のどちらを選ぶか議論が分かれています。

らいてうは全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」をアメリカのダレス特使に提出しています。これは「戦争に協力せず、夫や息子を戦場に送らない」というらいてう達の強い想いから込められていました。

更には「再軍備反対婦人委員会」「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」等、戦後に発足した様々な会合や委員会に参加しています。らいてうは一貫して平和の為に声を上げたのでした。

平塚らいてうの名言

らいてうの芯の強さがわかる名言

今回の記事ではらいてうの名言をたびたび引用していますが、ここでは載せきれなかった名言を紹介していきますね。

わが生涯の体系を貫徹す

森田との心中未遂である塩原事件を起こす直前、らいてうは遺書としてこの言葉を自室の机に忍ばせていました。らいてうが何を思いその言葉を残したのかは分かりません。ただらいてうの覚悟は文面から伝わってきますね。

生きることは行動することである。ただ呼吸することではない

らいてうの自叙伝に綴られた言葉です。青鞜、新婦人協会、戦後の様々な活動。らいてうは様々な団体を立ち上げています。まさに行動こそがらいてうの生きる意味でした。それが分かる名言ですね。

今回私のいたしましたことは何処迄も私の所有である。他人の所有を許さない。

塩原事件を小説として書き上げた森田に対し、手紙でらいてうが伝えた言葉です。心中は森田がらいてうにお願いしたものですが、同意したのはらいてうです。

未遂を人のせいにしないからこそ、小説として森田の所有物になる事を良しとはしませんでした。らいてうの芯の強さが分かる名言ですね。

平塚らいてうにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「若いツバメの由来は平塚らいてうだった」

若いツバメ

若いツバメとは、「年上の女性の愛人になっている年下の男性」という慣用句です。語源は後に共同生活を送る博史がらいてうに送った手紙でした。内容は以下の通りです。

池の中で二羽の水鳥たちが仲良く遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く

急速に惹かれあった博史とらいてうでしたが、らいてうは少し前まで、青鞜に所属する富本一枝と相思相愛の関係にありました。つまり水鳥とは一枝とらいてうの事ですね。富本一枝は博史に脅迫状や絶縁状を送り、嫉妬しました。

また博史の友人である新妻莞も「博史は勉強の身」だと2人の仲を否定。博史は精神的に追い詰められ、らいてうの前から姿を消します。手紙も実は莞が代筆しており、らいてうはそれに感づいて返事をこのように出しました。

燕ならきっとまた、季節がくれば飛んでくることでしょう

らいてうの予感は的中し、9ヶ月後に2人は再会。帝国劇場で上演中の「ファウスト」に博史が出演している事を、一枝がらいてうに伝えた事がきっかけでした。程なくして2人は共同生活を始めます。

若いツバメという慣用句の中に、濃密なロマンスがあった事に驚きを感じますね。

都市伝説・武勇伝2「与謝野晶子とは仲が悪かった?世間を賑わせた母性保護論争」

青鞜の創刊号を共同制作した平塚らいてうと与謝野晶子ですが、後に2人は仲が悪くなります。それが母性保護論争でした。1918年に与謝野晶子は「国家に母性の保護を要求するのは依頼主義だ」という論文を発表しました。

らいてうはそれに反発し、「国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家により保護されるべき」という「母性中心主義」を提唱。当時のらいてうが、博史の看病と育児に追われていたが故に生まれた考えでした。

更に山川菊栄は「差別のない社会でしか婦人の解放はありえない」、山田わかは「独立という美辞に惑わされずに専業主婦も家庭で働いているのだから誇りを持つべき」と主張。社会を巻き込む大論争となりました。

与謝野晶子はらいてうに強く反発しますが、これは当時の明子が11人の子を育てながら文芸活動を進めていた事も関係しています。国家に庇護を求めるらいてうの考えが晶子には甘えに見えたのかもしれません。

都市伝説・武勇伝3「石を投げられても平気だった?平塚らいてうの力強い性格」

らいてうと相思相愛の関係だった富本一枝(ペンネームは尾竹紅吉)

男尊女卑の時代の中で、らいてうが自分の意見を主張できたのは力強い性格が理由です。富本一枝が前述した五色の酒事件等を起こすと、世間はらいてうを激しく批判。自宅に投石する人も現れました。

らいてうはそんな批判に対して「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と青鞜の後書きに記載して社会を挑発。投石に動じる様子はありませんでした。

らいてうは世論を炎上させるだけではなく、1913年1月の青鞜に「私は新しい女である」と文章を掲載。青鞜を世間に注目させた上で、付録として婦人問題の特集を組み込む等、巧みに世間を誘導しています。

らいてうが様々な功績を残したのは、その力強い性格にあった事は間違いありませんね。

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