平塚らいてうとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、作品や出版した青鞜などの雑誌について紹介】

1919年 – 33歳「新婦人協会を立ち上げる」

らいてうと新婦人協会を立ち上げた市川房枝

市川房枝との出会い

青鞜休刊後のらいてうは奥村の看病、子どもの育児に追われる日々を送りました。前述した母性保護論争が起こったのもこの時期です。

1919年にらいてうは山田わかから市川房枝を紹介されます。2人は繊維工場で働く女性労働者の現状を視察し、新婦人協会を立ち上げています。らいてうは婦人論や軍縮論等を執筆し、問題提起の役割を担ったのです。

奥村と信州に住み始める

なお前述した通り、1921年にはらいてうと市川は新婦人協会から脱退しています。らいてうは声が出にくい体質であり、演説は苦手でした。自分の存在が政治活動の担い手や突破者になる事に不満があったようです。

新婦人協会は治安維持法の一部改定に成功するものの、らいてうと市川という指導者を欠いた結果、徐々に活動は停滞。1922年12月の臨時総会により解散しています。

らいてうは新婦人協会から脱退後、信州の農村に移り住みます。これはらいてうによる生活実験であり、らいてうは初めて日本の農村の実態に触れました。

1929年 – 44歳「消費組合「我等の家」を設立」

戦前の成城学園

消費者運動に携わる

農村での生活実験を続けたらいてうですが、1927年には砧村(現在の世田谷区)に移り住みます。1925年には奥村がこの近くに建てられた成城学園の美術講師になった事も関係してあるかもしれません。

この頃のらいてうが関心を寄せたのは、消費者運動でした。らいてうは1929年にこの地に消費組合「我等の家を設立。組合長を務めています。

その他にもいくつかの団体に参加する

その後もらいてうは積極的に活動を推進します。1930年には「新しい自治社会の建設と、母性文化の創造」を目的とした無産婦人芸術連盟に参加。更に翌年には無産婦人芸術連盟にも参加しています。

1938年 – 53歳「日中戦争と経済統制」

日中戦争の発端となった盧溝橋事件

日本が統制下に置かれるようになる

様々な活動を続けたらいてうですが、1937年に日中戦争が起こり、国家総動員体制が敷かれるようになると活動に制約が出てきます。1938年には「我等の家」は解散を命じられました。

らいてうは息子を兵役の面で不利にならないように、この時期に奥村と正式に夫婦となっています。1942年には夫と共に茨城県の小安川で疎開生活を始めました。ヤギを飼い、ほぼ自給自足の生活をしています。

戦争期のらいてうは戦争に対する言及をほとんどしていません。らいてうが沈黙を守り続けたのは、戦争体制側に引き込まれないようにする為と言われています。やがて来る「その時」をらいてうは待ち続けるのでした。

1945年 – 60歳「終戦を迎える」

日本国憲法

新しい時代の幕開け

1945年に太平洋戦争が終結すると、女性活動家達は再び動き始めます。共に新婦人協会を立ち上げた市川房枝は「新日本夫人同盟」を立ち上げ、らいてうに参加を呼びかけますが、らいてうからの反応はありませんでした。

その後もGHQによる「婦人民主クラブ」、文部省による「婦人教育研究会」等、女性の権利の獲得を目指した団体が作られるものの、らいてうは参加していません。

日本国憲法の制定

1946年に日本国憲法が制定され、女性の参政権が認められます。それに伴いらいてうは1948年に刊行された女性雑誌に「わたしの夢は実現したか」と言う一文を掲載しています。この時らいてうは以下のように述べました。

『いまこそ、解放された日本の女性の心の底から、大きな、大きな太陽が上がるのだ。みよ、その日がきたのだ』わたしの心は、いまかぎりないよろこびにあふれている

女性の参政権がアメリカの指示のもとで達成された事に対して、複雑な心境をらいてうは述べています。60を超えたらいてうはまだまだ活動を続ける事を宣言したのです。

1950年 – 65歳「「日本女性の平和への要望書」を提出」

安保廃棄のデモ行進をするらいてう

「日本女性の平和への要望書」を提出

戦後のらいてうが心を惹かれたのは、世界平和に対する活動でした。らいてうは「これぞ探しもとめていたもの」として、世界連邦建設同盟に参加した事を自叙伝で明かしています。

1950年にはアメリカのダレス特使に「日本女性の平和への要望書」を提出。「非武装の日本」をアメリカに訴えるのでした。

安保条約の締結

1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結し、アメリカやイギリスと単独講和を結びます。同時に日米安全保障条約が締結され、アメリカ軍はその後も日本に駐留する事が決まりました。

らいてうは条約に反対し、それ以降様々な団体に関わっていきます。

  • 1951年12月に再軍備反対婦人委員会を発足
  • 1953年4月に日本婦人団体連合会を発足
  • 1953年12月に国際民主婦人連盟の副会長に就任
  • 1955年11月に世界平和アピール七人委員会の立ち上げに参加

1962年 – 76歳「新日本婦人の会の発足と、ベトナム戦争」

75歳頃のらいてう

新日本婦人の会の発足

1962年には新日本婦人の会を発足。新婦人協会で掲げた治安維持法の改定等が目的ではなく、核戦争の根絶や憲法改定への反対等も盛り込まれています。らいてうは代表委員として参加し、その後顧問となりました。

ベトナム戦争

またベトナム戦争が勃発すると、らいてうは戦争の早期終結を主張。この時も1966年にベトナム話し合いの会を結成した他、1970年にはベトナム母と子保健センターを設立しています。

1970年の時点でらいてうは84歳。既にかなりの高齢でしたが、世界平和への想いは尽きる事はなかったのです。

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