平塚らいてうの年表
1886年 – 0歳「平塚明誕生」
平塚明誕生
らいてうは1886年2月10日に明治政府の役人の定二郎と、光沢(つや)との間に生まれます。三人姉妹の末娘で、本名は明(はる)と言いました。当時はまだ明なので、しばらくは明と表記していきます。
幼少期の明は食が細く、頭痛もち。声帯が弱く声が出づらい体質でした。ただ周囲への観察力は鋭く、感性豊かな子どもだったそうです。
日本主義者となった父親
父親の定二郎は欧米視察の経験もあり、幼少期の明は非常にハイカラな環境で育ちました。当時の日本は井上馨の鹿鳴館政策により極端な欧化主義が花開いた時代で、定二郎もその影響を受けています。
ただ1892年、明が高等小学校に入学した頃に鹿鳴館政策は終焉。定二郎は「古き日本の文化や伝統を守る」という日本主義(国粋主義)に傾倒します。ハイカラな生活は一転し、母の光沢も江戸時代の髪型である丸髭に戻したのです。
1898年 – 12歳「東京女子高等師範学校附属女学校に入学」
良妻賢母教育への反発
1898年には父の意志で日本主義のモデル校である東京女子高等師範学校に入学させられました。「わたし」は厳禁で、常に「わたくし」と言う事が求められます。ここで明は苦痛の5年間を過ごしたと後年語りました。
当時の明はテニスに熱中した他、授業で習った倭寇に憧れました。自分の理想を海賊だと確信し、女友達と「海賊組」を結成して修身の授業をサボる等、それなりに楽しい学生生活を過ごしていたようです。
また金権政治家のはしりと言われ、暗殺された星亨に憧れを抱き、墓参りにも出かけています。周囲が「星は悪玉だ」と言う程、明は星を庇いました。ただ当時の明は新聞を読んでおらず、星の人物像までは把握していません。
倭寇に星亨。当時の明は社会に反抗し、命を投げ出す覚悟で生きた者達への強い思いがありました。これが後の塩原事件に繋がっているのかもしれません。
1903年 – 17歳「日本女子大学校に入学」
日本女子大学校へ入学
1903年に明は広岡浅子が設立した日本女子大学校へ入学。これは「女子を人として、婦人として、国民として教育する」と言う理念に惹かれたからです。ただ日露戦争が勃発すると、日本女子大も日本主義の度合いが強くなります。
禅の世界への没頭
当時の明は自分探しに没頭しています。キリスト教や哲学書等を学ぶものの、精神だけでなく身体も没入しないと納得は出来ません。1905年に明は禅の存在と出会い、禅の道場「両忘庵」に通い、悟りを開いた証明を得ています。
ただ明は禅の勉強ばかりではなく、貪欲に知識を吸収しました。日本女子大に通いつつ、津田梅子が立ち上げた女子英学塾で英語を学び、漢文を学ぶ為に二松学舎にも通っています。
1906年には女子大を卒業。明は英語をもっと学ぶ為に1907年に成美女子英語学校へ入学しました。
1907年 – 21歳「「愛の末日」の執筆と塩原事件」
閨秀文学会に参加する
1908年、成美女子に閨秀文学会という文学講座が発足します。当時の明はゲーテの「若きウェルテルの悩み」に感銘し、文学に興味を持っていました。閨秀文学会では与謝野晶子や島崎藤村等が講師として参加しています。
明は万葉集や古今和歌集等の古典文学を学んだ他、「愛の末日」と言う小説を書きました。これは閨秀文学会で回覧雑誌を作る事が目的であり、明の処女作です。愛の末日を高く評価したのが森田草平でした。
塩原事件
森田は明に手紙で作品の批評をし、2人は恋仲になります。その後の1908年に2人が心中未遂である塩原事件を起こした事は先程述べた通りです。新聞は2人の事を面白く書き、明の顔写真も掲載されました。
事件の後に森田は明の元を訪れた他、事件を元にした小説「煤煙」が掲載されています。余波は続くものの、明にとっては過ぎた事でした。塩原事件後の明は信州に身を寄せており、その後は再び禅に没頭しています。
1911年 – 25歳「青鞜を創刊する」
青鞜とらいてうの誕生
1911年9月に、明は女性による女性の為の文芸誌「青鞜」を創刊します。創刊は明の意志ではなく、閨秀文学会の主催者だった生田長江が明に打診したものでした。明は動機も決まらぬまま創刊に同意しています。
ちなみに青鞜という雑誌名も生田が決めたものでした。生田が青鞜の創刊を明に勧めたのは、1905年に河合酔茗が「女子文壇」を創刊し、女性の為の文芸登竜門が作られており、それに対抗する為と言われています。
明は青鞜の製作にあたり青鞜社を立ち上げます。そして青鞜の創刊号に有名な「元始、女性は太陽であった」と言う創刊の辞を掲載。この時に初めて「平塚らいてう」と名乗ったのです。
なお青鞜が女性を中心に大きな反響を得た事は前述して述べた通りですね。
1912年 – 26歳「奥村博史との出会い」
奥村博史との出会い
青鞜の製作が多忙を極めていた1912年夏に、らいてうは5歳年下の画家である奥村博史と出会います。2人はその時の出会いをこのように残しました。
眼と眼が合った瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見た(奥村博史)
わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間に生まれたのでした(平塚らいてう)
1914年にらいてうは奥村と「共同生活」を始めます。2人は青鞜と家庭の両立を目指すものの、奥村は結核を発症。1915年にらいてうは奥村の看病に専念する為、青鞜社の一員である伊藤野枝に編集権を譲り、青鞜から退きます。
青鞜の終焉
その後の青鞜は伊藤野枝が主導するものの、1年後に「日蔭茶屋事件」が起こりました。これは伊藤が大杉栄と交際を始めた事で、元々大杉と交際していた青鞜社の神近市子が嫉妬して大杉を刺した事件です。
幸い大杉は一命を取り留めるものの、元々風当たりの強かった青鞜への影響は甚大でした。後に青鞜は1916年4月号を最後に休刊しています。
わお