小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

井原西鶴とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、俳句や小説を紹介】

井原西鶴は「好色一代男」や「日本永代蔵」などで有名な江戸時代・元禄文化の人物です。浮世草子だけでなく、俳諧の分野でも活躍しました。

特に得意としていたのが、俳諧を読むスピードと数を競う「大矢数」というもので、1日で23500句を詠みあげるという偉業を達成。これは3.7秒に一句を俳諧を詠む計算となります。

井原西鶴

西鶴と同じ時代には俳諧で有名な松尾芭蕉と浄瑠璃で名の知れた近松門左衛門が活躍していました。そして、西鶴は俳諧では芭蕉と、浄瑠璃では近松とライバル関係にあったのです。若い頃から互いに競い合った3者は元禄文化の第一人者にのし上がっていくのでした。

井原西鶴は小・中学生の歴史の授業で習うほど有名な歴史上の人物でありながら、出生も曖昧で、両親が誰かもわからず、妻子の名前すらも不明という謎の多い人物となっています。しかし、その生涯を探ると色々な有名人物と関わったとされる事実が続々と出てきました。

今回は西鶴の文学や謎の人生に興味を持った筆者が、彼の文献を読み漁った結果得た知識を元に、西鶴の生涯、功績、意外なエピソードに至るまで紹介していきたいと思います。

井原西鶴とはどんな人物か

名前井原西鶴(本名:平山藤五という説がある)
誕生日1642年 月日は不明
没日1693年9月9日
生地和歌山中津村
没地大坂 鎗屋町
配偶者あり 名前は不明 天疱瘡によって25歳で亡くなる
埋葬場所大阪市中央区誓願寺

井原西鶴の生涯をハイライト

井原西鶴の代表作 好色一代男 原書

井原西鶴の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1642年(0歳)、和歌山中津村の紀州井原家に誕生、両親の名は不明
  • 1657年、15歳の時に足袋屋に見習い奉公するも、売り上げを盗んで実家へ帰る
  • 1666年(25歳)の西村長愛子選「遠近集」に初めて西鶴の俳諧が掲載、その時の俳号は「鶴永」
  • 1671年(30歳)、西山宗因の弟子入りを志願し、受け入れられる
  • 1676年(35歳)、生玉の本覚寺で一夜一日1600句独吟興行を行う、しかし、4月後に記録を抜かされる
  • 1680年(39歳)、生玉社南坊で一夜一日4000句独吟に成功
  • 1682年(41歳)、「好色一代男」発表
  • 1684年(43歳)、23500句の大矢数に成功、自らを「2万翁」として自慢して周る
  • 近松門左衛門と浄瑠璃で対決をする
  • 菱川師宣が「好色一代男」に挿絵を入れる、また、絵本としても出版することに
  • 1688年(47歳)、「日本永代蔵」刊行
  • 1692年(51歳)、「世間胸算用」出版するも、予想していたほど売れず
  • 1693年(52歳)、「西鶴置土産」の執筆を途中にして帰らぬ人に

負けず嫌いで目立ちたがりな性格

通常は通し矢で的を射ることを競う行事を「矢数」という

井原西鶴は非常に負けず嫌いで目立ちたがりな性格だったことが文献を読んでみるとよくわかります。そのエピソードを3つ紹介していきます。

まずは、矢数興行での争いです。矢数とは通し矢などで的を射た数を競うことが実際の意味として用いられますが、西鶴が活躍した時代には俳諧の速吟でも「矢数」という語句が使用されました。1日でどのくらい俳諧を読めるかを競う行事ですが、最初に西鶴が1600句に成功します。しかし、この記録はすぐに抜かれてしまうため(月松軒紀子の1800句)、負けじと4000句の速吟を行いました。

矢数が度々開催された生玉神社の西鶴像

4000句の速吟は好記録であったため、数年間破られませんでしたが、芳賀一晶という人物が13500句の矢数を行い、西鶴の記録を大きく上回ることになるのです。これを聞いて黙っている西鶴ではありません。一年の準備期間後、23500句の大矢数に成功するのでした。これを達成後、西鶴は自らを「二万翁」や「二万堂」と称して大坂中を自慢して周ったと言われて射ます。

後の二つのエピソードは松尾芭蕉と近松門左衛門とのライバル関係の中で生まれたもので、次の見出しで述べていきたいと思います。

西鶴、芭蕉、近松のライバル的な関係性

西鶴と俳諧でライバルだった松尾芭蕉

井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門という日本史上に名を刻む文化人はちょうど同じ時代に活躍していました。井原西鶴は俳諧と浮世草子、松尾芭蕉は俳諧、近松門左衛門は浄瑠璃で大成したことはご存知の方も多いかと思います。当然、お互いの名前も知れ渡っていたため、西鶴はこの2人をライバル視していたのです。

松尾芭蕉とは俳諧での競り合いで、最初に名をあげていたのは西鶴でしたが、時が経つにつれ、芭蕉の評判が西鶴を上回っていきました。2人はお互いに舌戦も繰り広げており、「奥の細道」で芭蕉が詠んだ「辛崎の松は花より朧にて」を西鶴は「まるで連歌だ」と批判、対して、芭蕉は西鶴の矢数に関して「点取りに昼夜を尽くし、勝負を争い、道を見ないで走り回る者」は俳諧師の下等級に位置すると評したのです。

近松門左衛門

西鶴は近松門左衛門とも浄瑠璃で争っているのです。1684年の道頓堀にて竹本座の義太夫が行った旗揚げ興行が大盛況となります。この出し物「世継曽我」を書いたのが杉森信盛(若かりし近松門左衛門)でした。これに対抗しようと、宇治加賀掾という一座が「好色一代男」で名をあげた西鶴に浄瑠璃の題材作りを依頼したのです。そして、1685年2月、完成した西鶴の浄瑠璃「暦」と時を同じくして興行した近松の「賢女手習并新暦」が同時に催され、近松側が大入りを勝ち取りました。

これに「負けへんで」と意気込んだ西鶴は再び、「凱陣八嶋」を、近松は「出世景清」をかけました。この時は西鶴・加賀掾側の方が客の入りがよくなりましたが、不意の火災によって終焉を迎えてしまうのでした。この時の近松門左衛門はまだ若く、あまり名が知られていませんでしたが、西鶴の死後10年して「曽根崎心中」を発表し、大当たり、浄瑠璃の第一人者に昇格することになるのです。

「才覚」が「西鶴」の語源?

才覚をうまく使うことの重要さを説いた日本永代蔵

西鶴は「日本永代蔵」において、頭を使い、才覚を働かすことで金持ちや成功へと繋がっていくということを説きました。日本橋の越後屋呉服店を例に出し、越後屋は全て現金払い、手代の分業制、薄利多売という新商法を生み出し、金を早く回転させる方法を編み出して成功した、このように頭を使えば富は生まれるのだと結論づけるのです。

「誰もしていないことをやる。それが才覚。主人公は町人ではなく、銭金。」と述べました。「日本永代蔵」ではこの「才覚」という意味の言葉が多用されていることから、「西鶴」というのは「才覚」から来たのではないかと言われましたが、実際は違います。

西山宗因

「西鶴」はもともと「鶴永」という名前で俳諧を発表していました。そして、ある日、師匠である西山宗因の俳号「西翁」から一字をもらい、自分の俳号と合わせて「西鶴」という名前にしたのです。

井原西鶴の功績

功績1「代表作『好色一代男』『世間胸算用』などの名作を世に送り出す」

世間胸算用の1ページ

西鶴は松尾芭蕉の活躍が目立つようになってから、俳諧から浮世草子に主戦場を変化させていきました。その皮切り作として登場したのが「好色一代男」です。「好色一代男」は巷でも話題作となり、大きな売り上げを記録しました。

また、後年には菱川師宣が挿絵を加えることで再度ヒットを記録し、さらに数年後には絵本としても刊行されるなど、人気のロングセラー本となったのです。

見返り美人図で有名な菱川師宣が「好色一代男」の挿絵を担当

日本史で西鶴の代表作として紹介されることの多い「世間胸算用」は西鶴が50歳の時に執筆したもので、当時は本人が予想したよりは売れ行きが良くありませんでした。豊かになっていく世の中で、反対に貧しい暮らしになっていく庶民の惨めさを描いたため、民衆にはあまり受けなかったのです。

しかし、「好色一代男」、「日本永代蔵」、「世間胸算用」を世に発表した井原西鶴はやはり日本の近代文学への礎を築いた重要人物ということが言えます。

功績2「矢数俳諧(1日で出来るだけ多くの俳句を詠む)で23500句を記録」

矢数興行の催された生玉神社

西鶴は1日のうちにどのくらいの俳諧を詠むことができるかに情熱をかけていました。一番最初の矢数では1600句、その次は4000句、最後に大きく飛躍して23500句を達成したのです。23500句は時間で換算すると、約3.7秒に一句という凄まじいスピードになります。

これを達成した当初は「2万翁」、「2万堂」などと自らを吹聴して周りましたが、時間が経ってみるとその内容の無さに虚無感を覚えたのか、のちに「射てみたが何の根もない大矢数」とその空虚感を俳諧として詠んでいます。

功績3「死後200年の明治時代に脚光を浴び、自然主義文学の流行に一役買う 」

樋口一葉らが西鶴の文体を真似た

江戸時代では人気を博し、名が通っていた西鶴でしたが、死後はあまり語られることはなく、忘れ去られていきそうになっていました。しかし、西鶴の死後200年の明治時代に彼を再評価し始めたのが淡島寒月です。西鶴の書籍を幸田露伴や尾崎紅葉、樋口一葉などに紹介し、その3者が西鶴の文体を真似して小説を発表することになりました。

その後、自然主義文学が流行する中で再度注目を浴びることになり、島村抱月、田山花袋らに評価されることになりました。淡島寒月が再流行させたときには西鶴の文体が注目されましたが、自然主義文学が台頭すると、その内容や思想に注目が集まるようになったのです。

井原西鶴の名言

西鶴の思想に触れられる言葉たち

「世に銭程、面白き物はなし」

「商人職人によらず、住みなれたる所を変わることなかれ。石の上にも三年と俗言に伝えし」

「善はつねに悪が混じっている。極端な善は悪となる。極端な悪は何らの善にもならない」

「一生一大事、身を過ぐるの業、士農工商の外、出家、神職にかぎらず、始末大明神の御託言にまかせ、金銀を溜むべし。是、二親の外に命の親なり」

「富貴は悪を隠し貧は恥をあらはすなり」

「明け暮れ男自慢、何づれ女の好ける風格」

「憂うる者は富貴にして憂い、楽しむ者は貧にして楽しむ」

「その身に染まりては、いかなる悪事も見えぬものなり」

井原西鶴にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「17世紀にすでに資本主義の本質を見抜いていた」

お金の動きや怖さについて提唱した西鶴

日本経済は19世紀後半から資本主義に突入しましたが、西鶴は17世紀に生きながら、すでに資本主義の本質を見抜いていたのです。「日本永代蔵」では借金の怖さやお金がお金を産むことについて例をあげながら解き明かしています。

さらに「世間胸算用」では元手の少ない糸商人が20年間に渡ってあくせくと働いているにも関わらず、一向にお金持ちになれないことを示し、それは元手が少ない上に借金の利子に追われることが理由であって、結局は金持ちのために働いているだけになってしまうということを説いています。

そして、「西鶴織留」においては、資本主義のような構造が成り立っていくにつれて、金持ちは何もしないのに福がやってきて、貧乏人は損ばかりすることになるということを見抜きました。

都市伝説・武勇伝2「俳句の句風が奇をてらっていたため、阿蘭陀流と称された」

オランダの風景 既成の俳諧の概念にとらわれなかったため、オランダ流と揶揄された

西鶴はどちらかというと質よりも量を重視した俳諧作品を作っていきました。そのため、今までのような格式高い俳諧とは一線を画する作風となったため、それを周囲が揶揄して「阿蘭陀流だ」と罵りました。

しかし、西鶴は逆に、自身の作品の新しさと気品の高さに誇りを持って、自ら阿蘭陀流を名乗るようになるのでした。「こと問はん阿蘭陀広き都鳥」という作品も残されています。自分の作る俳諧が正風(正しい風体)であり、自分が宗因の後継として君臨するのだということを世に示したかったのです。

都市伝説・武勇伝3「『好色一代男』の挿絵を菱川師宣が担当、その後絵本にもなる」

好色一代男の絵本 絵柄が大々的に使われている

代表作「好色一代男」は西鶴の浮世草子第1作目であり、大きなヒットを飛ばした作品でもあります。そのため、大坂のみならず、江戸でも人気を博し、その評判は当時をときめく浮世絵師・菱川師宣の耳にも届くようになりました。

菱川師宣は「好色一代男」の挿絵担当として選ばれ、ページの約半分を埋めるような絵を描いていったのです。これが再び評判を呼び、さらに挿絵を大きく描いた絵本「好色やまとゑの根元」、「ふうぞく絵本」も出版されることになりました。

井原西鶴の年表

1642年 – 0歳「和歌山中津村にて井原西鶴誕生」

和歌山中津村の商人の家に生まれる

現在の和歌山中津村の風景

井原西鶴は和歌山中津村の紀州井原家に誕生しました。商人の家に誕生したとの記録が残っていますが、両親の名前も不明で、商売の種類も不明、いつ頃亡くなったのかも不明なのですが、おそらく両親は早くに亡くなったのではないかと推測されています。

西鶴が誕生した当時は俳諧に置いて貞門派と呼ばれる、松永貞徳を御大とする一派が全盛期を迎えている頃でした。そして、西鶴が6歳の時に宗因流で一世を風靡する西山宗因が大阪天満天神の連歌所の宗匠として迎えられるのです。

松永貞徳が亡くなり、宗因派が隆盛を極める

西鶴の幼少期は松永貞徳が俳諧の流行だった

西鶴は7歳の時に読み書き算盤を習い始めました。その頃には宗因の影響によって、連歌が大阪や堺で流行するようになって行きます。そのさなか、1653年には貞門派のトップ松永貞徳が亡くなったため、宗因はこれを機に俳諧に参戦するようになりました。

西鶴は15歳になると、北革屋町の足袋屋に見習い奉公をしましたが、その利益となる金銀を奪って問題を起こし、実家へ帰ることになります。時を同じくして、宗因が天満天神近くに向栄庵を建立し、そこでの俳諧が大盛況を博すようになるのでした。

1661年 – 20歳「西鶴の俳諧が初めて記録される、この時の俳号は鶴永」

鶴永の俳号で発句

鶴永と名乗っていた頃の作品

西鶴のもっとも初期の頃の作品とみられる俳諧が1661年の記録から見つかっています。どちらも夏頃に詠まれたもので、「心ここになきか鳴かぬかほととぎす」と「彦星やげにも今夜は七ひかり」という作品でした。後者の作品は亡くなった両親を想って作られたものと考えられています。西鶴はこの頃、俳号を「鶴永」と名乗っていました。

1662年には正月に「飾縄や内外二重御代の松」という歌を詠み、同じ頃には仲間を集めて俳諧の点数争いを行うようになりました。西鶴は、自らの俳諧師としての才能をアピールする目的で、積極的に点者(点数をつける人)を称するようになるのです。

5年後、歌集に上記の3句が選ばれる

西村長愛子 遠近集の1ページ

1666年、西村長愛子という人物が選んだ歌集「遠近集」の中に、西鶴(鶴永)が詠んだ「心ここに」、「彦星や」、「飾縄や」の3つが選出されたのです。これが西鶴の俳諧が初めて世に出た瞬間でした。

そして、同年に妻を迎えることになりましたが、その名前などは明らかにされていません。お互いに幼い頃からの知り合いで、西鶴よりも9歳年下の16歳の女性との記録が残っています。

1 2

コメントを残す