井原西鶴は「好色一代男」や「日本永代蔵」などで有名な江戸時代・元禄文化の人物です。浮世草子だけでなく、俳諧の分野でも活躍しました。
特に得意としていたのが、俳諧を読むスピードと数を競う「大矢数」というもので、1日で23500句を詠みあげるという偉業を達成。これは3.7秒に一句を俳諧を詠む計算となります。
西鶴と同じ時代には俳諧で有名な松尾芭蕉と浄瑠璃で名の知れた近松門左衛門が活躍していました。そして、西鶴は俳諧では芭蕉と、浄瑠璃では近松とライバル関係にあったのです。若い頃から互いに競い合った3者は元禄文化の第一人者にのし上がっていくのでした。
井原西鶴は小・中学生の歴史の授業で習うほど有名な歴史上の人物でありながら、出生も曖昧で、両親が誰かもわからず、妻子の名前すらも不明という謎の多い人物となっています。しかし、その生涯を探ると色々な有名人物と関わったとされる事実が続々と出てきました。
今回は西鶴の文学や謎の人生に興味を持った筆者が、彼の文献を読み漁った結果得た知識を元に、西鶴の生涯、功績、意外なエピソードに至るまで紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
井原西鶴とはどんな人物か
名前 | 井原西鶴(本名:平山藤五という説がある) |
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誕生日 | 1642年 月日は不明 |
没日 | 1693年9月9日 |
生地 | 和歌山中津村 |
没地 | 大坂 鎗屋町 |
配偶者 | あり 名前は不明 天疱瘡によって25歳で亡くなる |
埋葬場所 | 大阪市中央区誓願寺 |
井原西鶴の生涯をハイライト
井原西鶴の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
井原西鶴は1642(寛永19)年に和歌山中津村で生まれました。俳諧に親しむようになったのは15歳の頃で、「鶴永(えいかく)」と名乗り、のちに自由でわかりやすい談林派を起こした西山宗因に師事するようになります。一日にできるだけ多くの句を読む矢数俳諧で知られました。
一方、1682年に発表した浮世草子「好色一代男」が評判を呼び、大坂の出版業の発展もあって、ベストセラー作家となります。のちに菱川師宣の挿絵が入ったものも出版され、江戸でも大評判となりました。好色や金銭など描くテーマも多岐に渡り、人の心を巧みに掴む井原西鶴の作品は、後世の文芸に多大な影響を及ぼすことになります。
妻と娘に先立たれ、晩年は眼を患うなど辛い境遇の中、井原西鶴は1693(元禄6)年に52歳で息を引き取りました。井原西鶴は江戸時代前期を代表する人物であり、元禄文化の担い手として重要な役割を果たしましたが、さらに明治時代の文豪たちにも再評価されました。今も多くの人に愛され、読み継がれています。
負けず嫌いで目立ちたがりな性格
井原西鶴は非常に負けず嫌いで目立ちたがりな性格だったことが文献を読んでみるとよくわかります。そのエピソードを3つ紹介していきます。
まずは、矢数興行での争いです。矢数とは通し矢などで的を射た数を競うことが実際の意味として用いられますが、西鶴が活躍した時代には俳諧の速吟でも「矢数」という語句が使用されました。1日でどのくらい俳諧を読めるかを競う行事ですが、最初に西鶴が1600句に成功します。しかし、この記録はすぐに抜かれてしまうため(月松軒紀子の1800句)、負けじと4000句の速吟を行いました。
4000句の速吟は好記録であったため、数年間破られませんでしたが、芳賀一晶という人物が13500句の矢数を行い、西鶴の記録を大きく上回ることになるのです。これを聞いて黙っている西鶴ではありません。一年の準備期間後、23500句の大矢数に成功するのでした。これを達成後、西鶴は自らを「二万翁」や「二万堂」と称して大坂中を自慢して周ったと言われて射ます。
後の二つのエピソードは松尾芭蕉と近松門左衛門とのライバル関係の中で生まれたもので、次の見出しで述べていきたいと思います。
西鶴、芭蕉、近松のライバル的な関係性
井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門という日本史上に名を刻む文化人はちょうど同じ時代に活躍していました。井原西鶴は俳諧と浮世草子、松尾芭蕉は俳諧、近松門左衛門は浄瑠璃で大成したことはご存知の方も多いかと思います。当然、お互いの名前も知れ渡っていたため、西鶴はこの2人をライバル視していたのです。
松尾芭蕉とは俳諧での競り合いで、最初に名をあげていたのは西鶴でしたが、時が経つにつれ、芭蕉の評判が西鶴を上回っていきました。2人はお互いに舌戦も繰り広げており、「奥の細道」で芭蕉が詠んだ「辛崎の松は花より朧にて」を西鶴は「まるで連歌だ」と批判、対して、芭蕉は西鶴の矢数に関して「点取りに昼夜を尽くし、勝負を争い、道を見ないで走り回る者」は俳諧師の下等級に位置すると評したのです。
西鶴は近松門左衛門とも浄瑠璃で争っているのです。1684年の道頓堀にて竹本座の義太夫が行った旗揚げ興行が大盛況となります。この出し物「世継曽我」を書いたのが杉森信盛(若かりし近松門左衛門)でした。これに対抗しようと、宇治加賀掾という一座が「好色一代男」で名をあげた西鶴に浄瑠璃の題材作りを依頼したのです。そして、1685年2月、完成した西鶴の浄瑠璃「暦」と時を同じくして興行した近松の「賢女手習并新暦」が同時に催され、近松側が大入りを勝ち取りました。
これに「負けへんで」と意気込んだ西鶴は再び、「凱陣八嶋」を、近松は「出世景清」をかけました。この時は西鶴・加賀掾側の方が客の入りがよくなりましたが、不意の火災によって終焉を迎えてしまうのでした。この時の近松門左衛門はまだ若く、あまり名が知られていませんでしたが、西鶴の死後10年して「曽根崎心中」を発表し、大当たり、浄瑠璃の第一人者に昇格することになるのです。