井原西鶴とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、俳句・小説も紹介】

1673年 – 32歳「『俳諧歌仙画図』、『歌仙 大坂俳諧師』を刊行」

「俳諧歌仙画図」を作成し、自身を15番手に載せる

生玉社で行った万句興行での作品を「生玉万句」に収録 右は歌仙大阪俳諧師の西鶴のページ

1673年9月、西鶴は大坂で才能のある俳人を36人選んで、その人の肖像と句を掲載するという「俳諧歌仙画図」を発表しました。西鶴自身は「長持へ」の俳諧で15番手に掲載しています。そして、すぐにこれを改訂し、「歌仙 大坂俳諧師」として刊行、この時は自身を4番手に昇格して掲載しました。

ちなみに、井原西鶴と名乗るようになったのはこの頃からで、宗因の俳号である「西翁」から一字を頂戴し、「鶴永」と合わせて「西鶴」という名前に変更したのでした。

妻が25歳という若さで亡くなる

尋常性天疱瘡の皮膚症状

1675年には不幸が西鶴を襲うことになります。結婚してから10年近くともに生活をしてきた妻が疱瘡(天然痘)のために25歳という若さで亡くなってしまうのです。西鶴は大きなショックを受け、髪の毛を剃りこむとともに、悲しみを癒すために連日に及んで1000句近い俳諧を闇雲に詠むようになるのでした。

この時に詠んだ俳諧が「脈のあがる手を合してよほととぎす」から始まる追善連句の百韻十巻で、これに宗因の追善句を加えて「独吟一日千句」として刊行することになりました。

1675年 – 34歳「松尾芭蕉との初顔合わせ」

百韻連句の会合に出席、その際、松尾芭蕉も同時に居合わせる

松尾桃青時代の俳諧作品の石碑

1675年4月、百韻連句の席に参加するため、西鶴は宗因とともに江戸へと赴くことになりました。この時に末席に参列していたのが松尾桃青(元の名を宗房・のちの芭蕉)だったのです。この時、松尾芭蕉は弱冠32歳でした。

5月には宗因を歓迎して3日2夜の連句の会を開き、宗因の「さればここに談林の木あり梅の花」という発句を皮切りに多数の俳諧を発表し合いました。この時に作られた俳諧をひとまとめにして「談林十百韻」として刊行することになります。

「古今誹諧師手鑑」を編集し、古今の246人の俳人のうち、自身を199番目に置く

古今誹諧師手鑑

1676年には現在に至るまでの俳諧の名手たちを246人選出し、「古今誹諧師手鑑」として発表することになりました。西鶴は自身をこの中の199番目に位置させるのでした。

1677年には初めて矢数俳諧を決行し、生玉の本覚寺にて一夜で1600句独吟に成功します。この時の発句は「初花の口ひやうしきけ大句数」で俳諧の数や詠む速さで他を圧倒し、名声を上げようと試みました。しかし、その4ヶ月後に月松軒紀子の1800句によって記録は塗り替えられてしまうのです。

1680年 – 39歳「大矢数興行を行い、一夜一日で4000句の独吟に成功」

生玉社南坊で4000句独吟の大矢数を行う

生玉社の西鶴銅像

3年前に抜かされた矢数の記録を奪い返すために、西鶴は大矢数興行を生玉社南坊で行いました。「天下矢数二度の大願四千句也」を発句として始まった矢数は、その数一夜一日で4000句にも及び、見物客たちはその数と速さに喝采を送りました。この興行のおかげで西鶴の名が大坂中に知れ渡ることになるのです。

西鶴の矢数興行が影響して、速吟が流行し始めるようになります。西鶴が4000句興行を行った一月後には、一夜一日では無いにしろ、椎本才磨が江戸浅草の三十三間堂で10000句の矢数を行いました。時を同じくして柏一礼が一日1000句を興行するなど、矢数の文化が各地へと広まっていったのです。

桃青(芭蕉)一門の俳諧が盛んになっていくのを不機嫌に受け止める

松尾芭蕉が住んだとされる芭蕉庵

その頃、松尾芭蕉は江戸で宗匠となり、桃青一門を構えていました。その俳諧が世間に評判で、名を上げてきているという情報が西鶴の耳にも届きます。これを聞いて西鶴は、不機嫌な様子をあらわにし、「江戸の様子皆迄おしやるな山の雪」という句を詠みました。

芭蕉の活躍っぷりを目の当たりにした西鶴は徐々に俳諧活動から遠ざかっていくようになってしまうのです。しかし、この時、芭蕉も「世を捨てたい」を思い募るようになり、住処を江戸から深川へと移し、「芭蕉庵」に住むようになるのでした。

1682年 – 41歳「『好色一代男』を刊行し、人気を博す」

一年をかけて書きあげた「好色一代男」が評判に

好色一代男の絵柄

俳諧に限界を感じ始めていた西鶴は散文に興味を持つようになり、1681年から「好色一代男」の執筆に取り掛かります。そして、何度も推敲を重ね、ついに1682年10月に「好色一代男」を刊行することになりました。素人の版元である荒砥屋からの出版でしたが、好評を博し、絶好の売り上げを記録することになったのです。

ちょうどこの頃には師匠である西山宗因が78歳で亡くなり、その際、西鶴は「七十八や八十八夜なげきの霜」をいう句を残しています。後継争いが展開されることになりましたが、西鶴は俳諧よりも散文の方に心が傾いていたので、あまり執着をしませんでした。

芳賀一晶が13500句の大矢数を成し遂げ、西鶴の記録を上回る

芳賀一晶の俳諧の一つ

1683年には役者評判記「難波の顔は伊勢の白粉」を出版し、役者の人間性について批評を加えたり、宗因の一周忌に本式百韻を催して、それを「俳諧本式百韻 精進膾」にまとめ上げたり、まずまずの活躍をしていきました。

そのさなか、芳賀一晶という人物が13500句の矢数俳諧を行い、西鶴の4000句を大きく上回る記録を打ち立てたのです。これに競争心を掻き立てられた西鶴は翌年にさらなる大記録を成し遂げることになるのでした。

1684年 – 43歳「一夜一日で23500句の大矢数達成、菱川師宣が『好色一代男』に挿絵を入れる」

芳賀一晶に対抗し、23500句の大矢数を成功させる

自らを「二万翁」と吹聴して回った井原西鶴

自身の矢数の記録を抜かされた西鶴は対抗して、1684年6月5日、住吉社にて一夜一日23500句独吟の大矢数興行を行いました。これは3.7秒に一句を詠み、それを一日ぶっ続けで行うという常人離れした芸当だったのです。発句は「神力誠をもつて息の根とめよ大矢数」で、そのまま一日中俳諧を詠み続け、後見の宝井其角によって正式に記録が認められることになりました。

しかし、当初は自身のことを「2万翁」、「2万堂」などと周囲に自慢をして周りましたが、そのうちに単なる数の競争に虚しさが込み上げてくるようになり、「射てみたが何の根もない大矢数」との句を詠み、その虚無感を吐露するようになっていくのでした。

菱川師宣が「好色一代男」に挿絵を加える

好色一代男に挿絵を入れた菱川師宣

西鶴が2万を超える矢数興行を行った同年には、江戸でも「好色一代男」が出版されることが決定し、浮世絵の第一人者である菱川師宣がその挿絵を担当することになりました。これが再び評判を呼び、1686年には挿絵をさらに大きく掲載し、「好色一代男」の絵本バージョンとして作成した「好色やまとゑの根元」、「ふうぞく絵本」を刊行しました。

この間にも西鶴は「諸艶大鑑(好色二代男)」、「椀久一世の物語」、「西鶴諸国はなし」などの浮世草子を続々と発表していき、1686年2月には「好色五人女」を刊行するのでした。ちなみに、この年には、芭蕉の代表作「古池や蛙飛び込む水の音」も誕生しています。

1 2 3 4 5 6

コメントを残す