井原西鶴の功績
功績1「数々の名作を世に送り出す」
西鶴は松尾芭蕉の活躍が目立つようになってから、俳諧から浮世草子に主戦場を変化させていきました。その皮切り作として登場したのが「好色一代男」です。「好色一代男」は巷でも話題作となり、大きな売り上げを記録しました。
また、後年には菱川師宣が挿絵を加えることで再度ヒットを記録し、さらに数年後には絵本としても刊行されるなど、人気のロングセラー本となったのです。
日本史で西鶴の代表作として紹介されることの多い「世間胸算用」は西鶴が50歳の時に執筆したもので、当時は本人が予想したよりは売れ行きが良くありませんでした。豊かになっていく世の中で、反対に貧しい暮らしになっていく庶民の惨めさを描いたため、民衆にはあまり受けなかったのです。
しかし、「好色一代男」、「日本永代蔵」、「世間胸算用」を世に発表した井原西鶴はやはり日本の近代文学への礎を築いた重要人物ということが言えます。
功績2「矢数俳諧で23500句を記録」
西鶴は1日のうちにどのくらいの俳諧を詠むことができるかに情熱をかけていました。一番最初の矢数では1600句、その次は4000句、最後に大きく飛躍して23500句を達成したのです。23500句は時間で換算すると、約3.7秒に一句という凄まじいスピードになります。
これを達成した当初は「2万翁」、「2万堂」などと自らを吹聴して周りましたが、時間が経ってみるとその内容の無さに虚無感を覚えたのか、のちに「射てみたが何の根もない大矢数」とその空虚感を俳諧として詠んでいます。
功績3「死後、自然主義文学の流行に一役買う 」
江戸時代では人気を博し、名が通っていた西鶴でしたが、死後はあまり語られることはなく、忘れ去られていきそうになっていました。しかし、西鶴の死後200年の明治時代に彼を再評価し始めたのが淡島寒月です。西鶴の書籍を幸田露伴や尾崎紅葉、樋口一葉などに紹介し、その3者が西鶴の文体を真似して小説を発表することになりました。
その後、自然主義文学が流行する中で再度注目を浴びることになり、島村抱月、田山花袋らに評価されることになりました。淡島寒月が再流行させたときには西鶴の文体が注目されましたが、自然主義文学が台頭すると、その内容や思想に注目が集まるようになったのです。
功績4「大衆文学「浮世草子」を文学のジャンルとして確立」
風俗小説として江戸時代に上方で人気が出た「浮世草子」は、井原西鶴により生み出された近世文学の一様式です。「浮世草子」が生まれる前に「仮名草子」がありましたが、「仮名草子」は啓蒙的な内容の作品が多く、堅苦しいイメージがありました。斬新な構想や表現と娯楽性によって、「浮世草子」は新しいジャンルとして確立されたのです。
浮世とは「世の中」、草子とは「読み物」という意味です。井原西鶴が活躍した元禄時代は、長い戦乱の世が終わり、江戸幕府体制も落ち着きを見せ始めた時期でした。多くの人々が生きること自体を楽しめる環境になりつつありました。井原西鶴の「浮世草子」はそんな社会情勢にマッチするタイミングで発表されたため、大評判になったのです。
井原西鶴の名言
「世に銭程、面白き物はなし」
「商人職人によらず、住みなれたる所を変わることなかれ。石の上にも三年と俗言に伝えし」
「善はつねに悪が混じっている。極端な善は悪となる。極端な悪は何らの善にもならない」
「一生一大事、身を過ぐるの業、士農工商の外、出家、神職にかぎらず、始末大明神の御託言にまかせ、金銀を溜むべし。是、二親の外に命の親なり」
「富貴は悪を隠し貧は恥をあらはすなり」
「明け暮れ男自慢、何づれ女の好ける風格」
「憂うる者は富貴にして憂い、楽しむ者は貧にして楽しむ」
「その身に染まりては、いかなる悪事も見えぬものなり」
井原西鶴にまつわる逸話
逸話1「17世紀にすでに資本主義の本質を見抜いていた」
日本経済は19世紀後半から資本主義に突入しましたが、西鶴は17世紀に生きながら、すでに資本主義の本質を見抜いていたのです。「日本永代蔵」では借金の怖さやお金がお金を産むことについて例をあげながら解き明かしています。
さらに「世間胸算用」では元手の少ない糸商人が20年間に渡ってあくせくと働いているにも関わらず、一向にお金持ちになれないことを示し、それは元手が少ない上に借金の利子に追われることが理由であって、結局は金持ちのために働いているだけになってしまうということを説いています。
そして、「西鶴織留」においては、資本主義のような構造が成り立っていくにつれて、金持ちは何もしないのに福がやってきて、貧乏人は損ばかりすることになるということを見抜きました。
逸話2「俳句の句風が奇をてらっていたため、阿蘭陀流と称された」
西鶴はどちらかというと質よりも量を重視した俳諧作品を作っていきました。そのため、今までのような格式高い俳諧とは一線を画する作風となったため、それを周囲が揶揄して「阿蘭陀流だ」と罵りました。
しかし、西鶴は逆に、自身の作品の新しさと気品の高さに誇りを持って、自ら阿蘭陀流を名乗るようになるのでした。「こと問はん阿蘭陀広き都鳥」という作品も残されています。自分の作る俳諧が正風(正しい風体)であり、自分が宗因の後継として君臨するのだということを世に示したかったのです。
逸話3「『好色一代男』の挿絵を菱川師宣が担当、その後絵本にもなる」
代表作「好色一代男」は西鶴の浮世草子第1作目であり、大きなヒットを飛ばした作品でもあります。そのため、大坂のみならず、江戸でも人気を博し、その評判は当時をときめく浮世絵師・菱川師宣の耳にも届くようになりました。
菱川師宣は「好色一代男」の挿絵担当として選ばれ、ページの約半分を埋めるような絵を描いていったのです。これが再び評判を呼び、さらに挿絵を大きく描いた絵本「好色やまとゑの根元」、「ふうぞく絵本」も出版されることになりました。