井原西鶴とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、俳句・小説も紹介】

井原西鶴の生涯年表

1642年 – 0歳「和歌山中津村にて井原西鶴誕生」

和歌山中津村の商人の家に生まれる

現在の和歌山中津村の風景

井原西鶴は和歌山中津村の紀州井原家に誕生しました。商人の家に誕生したとの記録が残っていますが、両親の名前も不明で、商売の種類も不明、いつ頃亡くなったのかも不明なのですが、おそらく両親は早くに亡くなったのではないかと推測されています。

西鶴が誕生した当時は俳諧に置いて貞門派と呼ばれる、松永貞徳を御大とする一派が全盛期を迎えている頃でした。そして、西鶴が6歳の時に宗因流で一世を風靡する西山宗因が大阪天満天神の連歌所の宗匠として迎えられるのです。

松永貞徳が亡くなり、宗因派が隆盛を極める

西鶴の幼少期は松永貞徳が俳諧の流行だった

西鶴は7歳の時に読み書き算盤を習い始めました。その頃には宗因の影響によって、連歌が大阪や堺で流行するようになって行きます。そのさなか、1653年には貞門派のトップ松永貞徳が亡くなったため、宗因はこれを機に俳諧に参戦するようになりました。

西鶴は15歳になると、北革屋町の足袋屋に見習い奉公をしましたが、その利益となる金銀を奪って問題を起こし、実家へ帰ることになります。時を同じくして、宗因が天満天神近くに向栄庵を建立し、そこでの俳諧が大盛況を博すようになるのでした。

1661年 – 20歳「西鶴の俳諧が初めて記録される、この時の俳号は鶴永」

鶴永の俳号で発句

鶴永と名乗っていた頃の作品

西鶴のもっとも初期の頃の作品とみられる俳諧が1661年の記録から見つかっています。どちらも夏頃に詠まれたもので、「心ここになきか鳴かぬかほととぎす」と「彦星やげにも今夜は七ひかり」という作品でした。後者の作品は亡くなった両親を想って作られたものと考えられています。西鶴はこの頃、俳号を「鶴永」と名乗っていました。

1662年には正月に「飾縄や内外二重御代の松」という歌を詠み、同じ頃には仲間を集めて俳諧の点数争いを行うようになりました。西鶴は、自らの俳諧師としての才能をアピールする目的で、積極的に点者(点数をつける人)を称するようになるのです。

5年後、歌集に上記の3句が選ばれる

西村長愛子 遠近集の1ページ

1666年、西村長愛子という人物が選んだ歌集「遠近集」の中に、西鶴(鶴永)が詠んだ「心ここに」、「彦星や」、「飾縄や」の3つが選出されたのです。これが西鶴の俳諧が初めて世に出た瞬間でした。

そして、同年に妻を迎えることになりましたが、その名前などは明らかにされていません。お互いに幼い頃からの知り合いで、西鶴よりも9歳年下の16歳の女性との記録が残っています。

1670年 – 29歳「再度、西村長愛子の歌集が出版されるも、西鶴は選ばれず」

伏見西願寺の任口を訪ね、軽妙な俳諧を披露

三十石船 西鶴は船中で百韻の俳諧を詠んだ

1667年にも俳諧が記録されており、伏見西願寺(西岸寺)の任口(にんく)という人物を訪ねた際に、任口が詠んだ歌に対して、西鶴が応じ、「軽口にまかせてなけよほととぎす」と詠みました。この頃には既成の概念にとらわれず、新しく軽妙な俳諧を詠むことを意識するような心情が読み取れます。

そして、伏見から大阪八軒家に至るまでの三十石船中で百韻の俳諧を詠んだとされるエピソードが残されています。

西村長愛子選「湊舟十万句」の中に西鶴の句が入らず、失望

西鶴の自筆の俳諧

1670年2月には「長持へ春ぞくれ行く更衣」という歌を詠んでいますが、同年に出版された西村長愛子の選句集「湊舟十万句」のなかに西鶴の作品が一つも入らなかったため、落ち込みました。

翌年1671年に刊行された山口清勝選「蛙井集」にも西鶴は選ばれなかったため、徐々に焦りを感じるようになっていきます。しかし、同年に刊行された高滝以仙選「落花集」には「長持へ」の歌が選ばれることになったため、西鶴はようやく一安心することが出来たのです。

1671年 – 30歳「西山宗因に弟子入り」

「独吟百韻」を持参し、西山宗因に弟子入りをせがむ

俳諧で勢いを増していった西山宗因に弟子入り

1671年10月に旅に出ていた西山宗因が大阪へ帰ってきました。その情報が巷に広がると、俳人たちはこぞって弟子入りを懇願しに行きます。西鶴は三十石船中で詠んだ「独吟百韻」をひっさげて宗因を訪ねたところ、「正風と覚えるぞ」と宗因から褒め言葉を頂戴し、弟子入りが叶うことになるのでした。

1673年には大阪天王寺の清水寺にて松永貞徳を追善する俳諧万句という催しが開催されますが、西鶴はこれに呼ばれなかったため、激怒することになりました。

生玉社の南坊で万句興行を開く

生玉社

松永貞徳の俳諧万句に呼ばれなかったことを根に持った西鶴は、一月後に生玉社の南坊にて12日間に及ぶ万句興行を開きました。百韻百巻の万句を成し遂げ、大阪に自らの名前を広めようと目論んだのです。無事にこれをやり遂げると、狙い通り、話題をかっさらうことに成功しました。

そして、この万句に宗因をはじめとする宗匠たちの句を加えて、「生玉万句」として書籍を刊行することになりました。この書籍の序文では西鶴自らを「阿蘭陀流」と名乗っています。

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