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井原西鶴とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、俳句・小説も紹介】

1670年 – 29歳「再度、西村長愛子の歌集が出版されるも、西鶴は選ばれず」

伏見西願寺の任口を訪ね、軽妙な俳諧を披露

三十石船 西鶴は船中で百韻の俳諧を詠んだ

1667年にも俳諧が記録されており、伏見西願寺(西岸寺)の任口(にんく)という人物を訪ねた際に、任口が詠んだ歌に対して、西鶴が応じ、「軽口にまかせてなけよほととぎす」と詠みました。この頃には既成の概念にとらわれず、新しく軽妙な俳諧を詠むことを意識するような心情が読み取れます。

そして、伏見から大阪八軒家に至るまでの三十石船中で百韻の俳諧を詠んだとされるエピソードが残されています。

西村長愛子選「湊舟十万句」の中に西鶴の句が入らず、失望

西鶴の自筆の俳諧

1670年2月には「長持へ春ぞくれ行く更衣」という歌を詠んでいますが、同年に出版された西村長愛子の選句集「湊舟十万句」のなかに西鶴の作品が一つも入らなかったため、落ち込みました。

翌年1671年に刊行された山口清勝選「蛙井集」にも西鶴は選ばれなかったため、徐々に焦りを感じるようになっていきます。しかし、同年に刊行された高滝以仙選「落花集」には「長持へ」の歌が選ばれることになったため、西鶴はようやく一安心することが出来たのです。

1671年 – 30歳「西山宗因に弟子入り」

「独吟百韻」を持参し、西山宗因に弟子入りをせがむ

俳諧で勢いを増していった西山宗因に弟子入り

1671年10月に旅に出ていた西山宗因が大阪へ帰ってきました。その情報が巷に広がると、俳人たちはこぞって弟子入りを懇願しに行きます。西鶴は三十石船中で詠んだ「独吟百韻」をひっさげて宗因を訪ねたところ、「正風と覚えるぞ」と宗因から褒め言葉を頂戴し、弟子入りが叶うことになるのでした。

1673年には大阪天王寺の清水寺にて松永貞徳を追善する俳諧万句という催しが開催されますが、西鶴はこれに呼ばれなかったため、激怒することになりました。

生玉社の南坊で万句興行を開く

生玉社

松永貞徳の俳諧万句に呼ばれなかったことを根に持った西鶴は、一月後に生玉社の南坊にて12日間に及ぶ万句興行を開きました。百韻百巻の万句を成し遂げ、大阪に自らの名前を広めようと目論んだのです。無事にこれをやり遂げると、狙い通り、話題をかっさらうことに成功しました。

そして、この万句に宗因をはじめとする宗匠たちの句を加えて、「生玉万句」として書籍を刊行することになりました。この書籍の序文では西鶴自らを「阿蘭陀流」と名乗っています。

1673年 – 32歳「『俳諧歌仙画図』、『歌仙 大坂俳諧師』を刊行」

「俳諧歌仙画図」を作成し、自身を15番手に載せる

生玉社で行った万句興行での作品を「生玉万句」に収録 右は歌仙大阪俳諧師の西鶴のページ

1673年9月、西鶴は大坂で才能のある俳人を36人選んで、その人の肖像と句を掲載するという「俳諧歌仙画図」を発表しました。西鶴自身は「長持へ」の俳諧で15番手に掲載しています。そして、すぐにこれを改訂し、「歌仙 大坂俳諧師」として刊行、この時は自身を4番手に昇格して掲載しました。

ちなみに、井原西鶴と名乗るようになったのはこの頃からで、宗因の俳号である「西翁」から一字を頂戴し、「鶴永」と合わせて「西鶴」という名前に変更したのでした。

妻が25歳という若さで亡くなる

尋常性天疱瘡の皮膚症状

1675年には不幸が西鶴を襲うことになります。結婚してから10年近くともに生活をしてきた妻が疱瘡(天然痘)のために25歳という若さで亡くなってしまうのです。西鶴は大きなショックを受け、髪の毛を剃りこむとともに、悲しみを癒すために連日に及んで1000句近い俳諧を闇雲に詠むようになるのでした。

この時に詠んだ俳諧が「脈のあがる手を合してよほととぎす」から始まる追善連句の百韻十巻で、これに宗因の追善句を加えて「独吟一日千句」として刊行することになりました。

1675年 – 34歳「松尾芭蕉との初顔合わせ」

百韻連句の会合に出席、その際、松尾芭蕉も同時に居合わせる

松尾桃青時代の俳諧作品の石碑

1675年4月、百韻連句の席に参加するため、西鶴は宗因とともに江戸へと赴くことになりました。この時に末席に参列していたのが松尾桃青(元の名を宗房・のちの芭蕉)だったのです。この時、松尾芭蕉は弱冠32歳でした。

5月には宗因を歓迎して3日2夜の連句の会を開き、宗因の「さればここに談林の木あり梅の花」という発句を皮切りに多数の俳諧を発表し合いました。この時に作られた俳諧をひとまとめにして「談林十百韻」として刊行することになります。

「古今誹諧師手鑑」を編集し、古今の246人の俳人のうち、自身を199番目に置く

古今誹諧師手鑑

1676年には現在に至るまでの俳諧の名手たちを246人選出し、「古今誹諧師手鑑」として発表することになりました。西鶴は自身をこの中の199番目に位置させるのでした。

1677年には初めて矢数俳諧を決行し、生玉の本覚寺にて一夜で1600句独吟に成功します。この時の発句は「初花の口ひやうしきけ大句数」で俳諧の数や詠む速さで他を圧倒し、名声を上げようと試みました。しかし、その4ヶ月後に月松軒紀子の1800句によって記録は塗り替えられてしまうのです。

1680年 – 39歳「大矢数興行を行い、一夜一日で4000句の独吟に成功」

生玉社南坊で4000句独吟の大矢数を行う

生玉社の西鶴銅像

3年前に抜かされた矢数の記録を奪い返すために、西鶴は大矢数興行を生玉社南坊で行いました。「天下矢数二度の大願四千句也」を発句として始まった矢数は、その数一夜一日で4000句にも及び、見物客たちはその数と速さに喝采を送りました。この興行のおかげで西鶴の名が大坂中に知れ渡ることになるのです。

西鶴の矢数興行が影響して、速吟が流行し始めるようになります。西鶴が4000句興行を行った一月後には、一夜一日では無いにしろ、椎本才磨が江戸浅草の三十三間堂で10000句の矢数を行いました。時を同じくして柏一礼が一日1000句を興行するなど、矢数の文化が各地へと広まっていったのです。

桃青(芭蕉)一門の俳諧が盛んになっていくのを不機嫌に受け止める

松尾芭蕉が住んだとされる芭蕉庵

その頃、松尾芭蕉は江戸で宗匠となり、桃青一門を構えていました。その俳諧が世間に評判で、名を上げてきているという情報が西鶴の耳にも届きます。これを聞いて西鶴は、不機嫌な様子をあらわにし、「江戸の様子皆迄おしやるな山の雪」という句を詠みました。

芭蕉の活躍っぷりを目の当たりにした西鶴は徐々に俳諧活動から遠ざかっていくようになってしまうのです。しかし、この時、芭蕉も「世を捨てたい」を思い募るようになり、住処を江戸から深川へと移し、「芭蕉庵」に住むようになるのでした。

1682年 – 41歳「『好色一代男』を刊行し、人気を博す」

一年をかけて書きあげた「好色一代男」が評判に

好色一代男の絵柄

俳諧に限界を感じ始めていた西鶴は散文に興味を持つようになり、1681年から「好色一代男」の執筆に取り掛かります。そして、何度も推敲を重ね、ついに1682年10月に「好色一代男」を刊行することになりました。素人の版元である荒砥屋からの出版でしたが、好評を博し、絶好の売り上げを記録することになったのです。

ちょうどこの頃には師匠である西山宗因が78歳で亡くなり、その際、西鶴は「七十八や八十八夜なげきの霜」をいう句を残しています。後継争いが展開されることになりましたが、西鶴は俳諧よりも散文の方に心が傾いていたので、あまり執着をしませんでした。

芳賀一晶が13500句の大矢数を成し遂げ、西鶴の記録を上回る

芳賀一晶の俳諧の一つ

1683年には役者評判記「難波の顔は伊勢の白粉」を出版し、役者の人間性について批評を加えたり、宗因の一周忌に本式百韻を催して、それを「俳諧本式百韻 精進膾」にまとめ上げたり、まずまずの活躍をしていきました。

そのさなか、芳賀一晶という人物が13500句の矢数俳諧を行い、西鶴の4000句を大きく上回る記録を打ち立てたのです。これに競争心を掻き立てられた西鶴は翌年にさらなる大記録を成し遂げることになるのでした。

1684年 – 43歳「一夜一日で23500句の大矢数達成、菱川師宣が『好色一代男』に挿絵を入れる」

芳賀一晶に対抗し、23500句の大矢数を成功させる

自らを「二万翁」と吹聴して回った井原西鶴

自身の矢数の記録を抜かされた西鶴は対抗して、1684年6月5日、住吉社にて一夜一日23500句独吟の大矢数興行を行いました。これは3.7秒に一句を詠み、それを一日ぶっ続けで行うという常人離れした芸当だったのです。発句は「神力誠をもつて息の根とめよ大矢数」で、そのまま一日中俳諧を詠み続け、後見の宝井其角によって正式に記録が認められることになりました。

しかし、当初は自身のことを「2万翁」、「2万堂」などと周囲に自慢をして周りましたが、そのうちに単なる数の競争に虚しさが込み上げてくるようになり、「射てみたが何の根もない大矢数」との句を詠み、その虚無感を吐露するようになっていくのでした。

菱川師宣が「好色一代男」に挿絵を加える

好色一代男に挿絵を入れた菱川師宣

西鶴が2万を超える矢数興行を行った同年には、江戸でも「好色一代男」が出版されることが決定し、浮世絵の第一人者である菱川師宣がその挿絵を担当することになりました。これが再び評判を呼び、1686年には挿絵をさらに大きく掲載し、「好色一代男」の絵本バージョンとして作成した「好色やまとゑの根元」、「ふうぞく絵本」を刊行しました。

この間にも西鶴は「諸艶大鑑(好色二代男)」、「椀久一世の物語」、「西鶴諸国はなし」などの浮世草子を続々と発表していき、1686年2月には「好色五人女」を刊行するのでした。ちなみに、この年には、芭蕉の代表作「古池や蛙飛び込む水の音」も誕生しています。

1684年 – 43歳「近松門左衛門と浄瑠璃での一騎打ち」

近松門左衛門の浄瑠璃が大坂で名乗りをあげると、西鶴も負けじと対抗

道頓堀 竹本座跡地

1684年の2月に道頓堀の竹本座で義太夫が旗揚げ興行を行い、「世継曽我」という出し物を発表しました。この「世継曽我」を書いたのが杉森信盛、のちの近松門左衛門でした。近松の書いた新鮮な内容と持ち前の美声で大坂の評判をかっさらうことになります。

一方、宇治加賀掾も道頓堀で浄瑠璃を打つことを決定しますが、その新作を矢数や「好色一代男」で名をあげた西鶴に依頼することになりました。負けず嫌いの西鶴は腕をふるって「暦」という出し物を書き上げます。そして、それに対抗して義太夫・近松グループも「賢女手習并新暦」を催すことになります。

現代の人形浄瑠璃の様子

結果は、義太夫や近松の美声が大坂人の好みとマッチしていたため、こちらのグループが大入りを勝ち取ることになるのでした。しかし、西鶴もただで負けたわけではなく、出し物の内容は筋が通っていて、題目の質では上回っているという評判を勝ち取ることになるのです。

1688年 – 47歳「『日本永代蔵』、その続編『甚忍記』執筆など旺盛な制作活動を展開」

「日本永代蔵」の発表

現代語訳版 日本永代蔵

1686年から1687年にかけては「男色大鑑」、「本朝二十不孝」、「懐硯」、「武道伝来記」、「西行選集抄」などを次々に発表していき、まずまずの売り上げを記録します。そして、1687年9月より「日本永代蔵」の執筆に取り掛かりました。才覚と勤勉と始末でのし上がる目前の大坂商人を描き、金銭が全ての世の中とそれに振り回される模様をしたためるのです。

1688年1月に「日本永代蔵」を発表すると、その続編となる「甚忍記」に始まり、「武家義理物語」、「嵐無常物語」、「色里三所世帯」、「好色盛衰記」、「新可笑記」、「本朝桜陰比事」、「一目玉鉾」など数多くの作品を手がけていきました。一年のほとんどを執筆作業に費やし、多忙を極めましたが、作品の量に対し、質の方はあまり良いものではありませんでした。

松尾芭蕉が「奥の細道」の元となる奥州旅へ、西鶴は俳諧では芭蕉に負けたことを認める

奥の細道 出発時の様子

1689年には松尾芭蕉が別離の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠むとともに「奥の細道」の元となる奥州旅へと出かけました。この年に芭蕉の代表作となる数々の名句が生まれたのです。「夏草や兵どもが夢のあと」、「閑けさや岩にしみいる蝉の声」、「荒海や佐渡によこたふ天河」などがその代表です。

芭蕉が奥州旅を終えて大坂を経て江戸へと帰ると、芭蕉の評判が徐々に上がっていきます。その際に西鶴を訪ねた芭蕉の弟子、宝井其角も「芭蕉は全身が俳諧だ」と称し、西鶴はこれに対して反論ができませんでした。ついには「俳諧ではあいつ(芭蕉)に負けたか」と心の中で感じるようになるのでした。

1691年 – 50歳「『世間胸算用』の執筆」

西鶴の代表作である「世間胸算用」の執筆を行う

世間胸算用の1ページ

当時の寿命と言われた50歳を迎えた西鶴は俳諧や浮世草子などの創作に力を入れていきますが、世間の評判は少しずつ落ち目となっていきます。また、西鶴の一番弟子でもある団水らとも価値観がかみ合わなくなり、だんだんと孤独を感じるようにもなっていきました。

その中で、のちに西鶴の代表作として語り継がれる「世間胸算用」の執筆を開始しました。世間が繁栄する中で、逆に増加してきた貧しい人たちの惨めさをしたためていったのです。しかし、「世間胸算用」は西鶴本人が思うほどに出版屋の評判が良くなく、その評価通りにあまり売れずに終わってしまうのでした。

同年には松尾芭蕉が膳所の菅沼曲水という人物に手紙を書き、その内容の中に風雅を志す者の心得を示します。その上で、「点付けで稼ぐのは下等の俳諧師だ」として、暗に西鶴のことを批判する文章を残しました。

1693年 – 52歳「『西鶴置土産』を途中にして、52歳で帰らぬ人に」

自身の死期を悟り、辞世の句を遺して息を引き取る

井原西鶴の墓 大阪府大阪市中央区 誓願寺

西鶴が51歳の時には男手一つで育ててきた盲目の娘が亡くなります。西鶴は妻と子に先立たれるという寂しい境遇に立たされることになりました。その後も創作に関してはいつも通りに行っていきましたが、いよいよ自分にも死期の訪れを感じるようになっていくのです。

1693年5月に最後の作品となる「西鶴置土産」に取り掛かりますが、7月頃には体力の衰えを感じるようになり、15話までで中断となってしまいました。そして、同年9月9日(旧暦8月10日)、辞世の句「浮世の月見過しにけり末二年」を遺して帰らぬ人となりました。

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好色一代男 まんがで読破

井原西鶴の代表作品「好色一代男」をまんがで紹介した作品となっています。1人の男が自由気ままに愛欲に溺れていく様を鮮やかに描き出したいます。実際の作品よりも内容が省略されていますが、初めて読む方や大まかなあらすじを知りたいという方にはおすすめです。

新版 日本永代蔵 現代語訳付き

西鶴が生きた江戸時代に、本格的な貨幣経済を迎え、金銭欲に振り回される人々の悲喜こもごものシチュエーションを細かく描写した作品となっています。現代語訳にわかりやすく翻訳されているため、昔の言葉を知らない方でも容易に読むことができる一冊です。

世間胸算用 現代語訳・西鶴

大晦日に借金を返済しなければならない、亭主、女房、質屋などそれぞれの境遇を表現豊かな文章で記しています。江戸時代の大衆がどのように暮らしていたか、金銭の回り方はどのような感じだったのかが読み取れる作品となっています。

井原西鶴についてのまとめ

今回は井原西鶴について紹介しました。

井原西鶴は元禄文化の代表的人物でありながら、その生涯は謎に包まれている部分が多くなっています。そのような中でも、松尾芭蕉・近松門左衛門とのライバル関係や菱川師宣との強力タッグなど、この時代の主要人物との関わりが深かったことを読み取ることができました。

この記事を参考にさらに井原西鶴に興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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