島崎藤村は明治後期から昭和初期にかけて活躍した詩人・小説家です。「夜明け前」や「破戒」等の作品名は耳にした事があるかもしれません。藤村の作品は自分自身の壮絶な経験をもとに作られており、大きな反響を呼びました。これらの作品は「自然主義文学」と呼ばれています。
藤村の作品が文学界に与えた影響は大きく、「社会の矛盾や人間の欲望等、思わず目を背けてしまうようなリアリズムを追求する作品」が後に生み出されています。「人間の本質」を探求したい人に是非とも読んで欲しいですね。
ただ藤村の私生活を覗き見ると、「教え子や姪との禁断の恋」「子供を置いて海外に留学する」等、非常に破天荒な生活を送っています。藤村は決して高尚な人間ではなく、その生き様を批判される事もあったのです。ただそんな人間だからこそ、作品に重みが生まれ、自然主義文学というジャンルを開拓出来たのかもしれません。
私は幕末の人間群像を描いた「夜明け前」を読み、藤村の作品の虜になりました。その後は藤村の作品を図書館で読み漁った事を覚えています。今回はそんな筆者が、島崎藤村の生涯について解説していきます。
島崎藤村とはどんな人物か
名前 | 島崎藤村 |
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誕生日 | 1872年3月25日 |
没日 | 1943年8月22日 |
生地 | 筑摩県馬籠村(現在の長野県中津川市) |
没地 | 神奈川県大磯町 |
配偶者 | 秦冬子(前妻)・後妻(静子) |
埋葬場所 | 地福寺(神奈川県大磯町)・永昌寺(岐阜県中津川市) |
島崎藤村の生涯をダイジェスト
島崎藤村の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1872年 0歳 島崎藤村誕生
- 1886年 14歳 父・正樹死去
- 1892年 20歳 明治女学校の教師となる
- 1893年 21歳 北村透谷らと「文学界」を創刊
- 1896年 24歳 母・縫死去 この頃から詩作を開始
- 1906年 34歳 破戒の自費出版
- 1913年 41歳 姪のこま子と関係を持つ
- 1818年 46歳 新生を新聞に掲載
- 1929年 57歳 夜明け前を連載
- 1935年 63歳 日本ペンクラブの初代会長に就任
- 1941年 69歳 神奈川県大磯町に転居
- 1943年 71歳 大磯町の自宅で死去
詩人から小説家へと転向し、「破戒」を執筆
藤村は1906年に「破戒」を自費出版しています。内容は以下の通りです。
主人公の瀬川丑松は被差別部落出身で、その事をひた隠しにして生きてきました。小学校教師となった丑松は、被差別部落出身の活動家の猪子蓮太郎を慕い、自分の出生を猪子になら打ち明けても良いと考えます。
結局丑松は出生を伝えられず、月日だけが流れます。ある日「丑松が被差別部落出身」という噂が流れ、同時期に猪子が壮絶な死を遂げました。追い詰められた丑松は子供達に自分の出生を告白。丑松はテキサスへ旅立つという内容です。
破戒の意味は「被差別部落出身である事は誰にも言うな」という父の「戒めを破った」事が由来です。後に全国水平社が部落解放運動を展開する中で、丑松が「部落民である事を隠していた事を謝る」という点が問題視されます。
差別的な言葉を廃絶しようとする時流の中で、破戒は一度絶版となりました。その後「進歩的啓発の効果」という目的で破戒が復刻される等、後々まで破戒が社会に与えた影響は大きかったのです。
近代文学を代表する作品「夜明け前」を執筆
小説家として不動の地位を築いた藤村は、1929〜1935年の間に「夜明け前」を中央公論にて連載します。その質の高さから、日本の近代文学を代表する小説と評されています。内容は以下の通りです。
舞台は1853〜1886年。黒船来航から明治維新を経て、近代日本が形作られていく時期です。主人公は中山道木曾馬籠宿で庄屋を営みつつ、国学に傾倒する青山半蔵。
半蔵は明治維新に期待を抱くものの、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化、国民への更なる圧迫でした。半蔵は精神を蝕まれ、寺への放火未遂事件を起こします。半蔵は座敷牢に閉じ込められ、廃人となり病死しました。
青山半蔵のモデルは、役人となるものの後に発狂して獄中死した島崎正樹。藤村の父親です。歴史とは時の権力者の視点から見たものが語られますが、藤村は庶民の目線から幕末から明治という激動の時代を執筆したのです。
例えば夜明け前第1部では、和宮が徳川家茂の元へ嫁ぐ際に中山道を通る様子が描かれています。和宮一行が通り過ぎた後には、「沢山の死体が転がっていた」そうです。
これらの描写は夜明け前には記載があるものの、徳川幕府の記録にはありません。婚礼の儀式の際に死体や血を見る事は「忌み事」になる為、あえて記録には残さなかったと思われます。
夜明け前は作品の質は当然の事、徳川幕府が記録として残せなかった事も書かれています。夜明け前は資料的価値を見出す事の出来る作品なのです。
島崎藤村の家族構成は?8人の子と2人の妻がいた
藤村は1899年に秦冬子と結婚します。藤村が「破戒」の執筆を開始した頃です。1900〜1904年の間に3人の娘が生まれますが、当時の藤村は執筆に明け暮れていました。3人の子供を食べさせる為、秦冬子は懸命に働きました。
1906年3月に破戒を自費出版。この前後に3人の娘を栄養失調でなくしています。その後は1905〜1910年に3人の息子と1人の娘を授かるものの、四女の柳子を出産した際に秦冬子は亡くなります。
藤村は1928年に加藤静子と再婚。藤村が56歳の頃でした。1924年に藤村は静子にプロポーズをしており、手紙で思いを以下のように伝えています。
わたしたちのLifeを一つにするといふことに心から御賛成下さるでせうか。それともこのまゝの友情を―唯このまゝ続けたいと御考へでせうか
藤村は結婚という言葉ではなく、LIFEを1つにすると書きました。これは日常生活だけではなく、文学の創作なども含めて生き方の全てを共にしたいという思いが込められています。
このプロポーズから4年後に2人は結婚。翌年には日本文学の金字塔である「夜明け前」が中央公論に掲載されました。この執筆の過程には静子の献身的な支えがあった事は間違いありません。
静子はその後も藤村とLIFEを1つに暮らします。藤村死去後も1973年まで存命でした。
藤村は姪のこま子と関係を持っていた?
藤村は兄広助の次女である島崎こま子とただならぬ関係にありました。きっかけは秦冬子が出産後に死去し、こま子が藤村の家の手伝いをする為に訪れる機会が増えた事にあります。
1912年頃から藤村とこま子は愛人関係となり、やがてこま子は藤村の子を身籠もります。藤村は子どもを受け入れる事なく、こま子や幼い子どもを残してバリへ留学するのです。2人の子は里親に出されています。
1916年に帰国した藤村は、再度こま子と関係を持ちました。1918年に発表された「新生」は禁じられた関係を清算する為に作られたものだったのです。
「新生のモデルはこま子である」という事が明るみに出ると、こま子は日本に居場所がなくなり、伯父秀雄のいる台湾に移住。その後1919年に日本に戻り、社会主義の活動をする等して、1979年に死去しています。
島崎藤村の功績
功績1「日本における自然主義文学の開拓者となる」
藤村は破戒により日本における自然主義文学を開拓しました。自然主義文学はフランスが発祥の地です。資本主義により貧富の差が拡大し、浪漫主義等の理想から脱却して社会と人間のあり方を鋭く風潮が広がったからです。
藤村の影響は大きく、田山花袋は破戒を意識しつつ「布団」を執筆。内容は34歳で子がいる竹中時雄という作家が、横山芳子という女弟子に恋愛感情を抱くもの。モデルは作者自身であり、破戒と共に自然主義文学の代表的作品です。
ただ布団が世間に衝撃を与えたのは、作品の質ではなく、時雄が芳子を思うあまり芳子の布団の匂いを嗅ぐ等、性に対する露悪的な描写でした。布団の創刊を経て自然主義文学は作者の体験談等の私小説に変質していきます。
日本における自然主義文学は、その後急速に衰退していきますが、藤村はあくまでも本来の意味での自然主義文学を追求。後に執筆された「夜明け前」は日本を代表する自然主義文学と評されました。
藤村はフランスにおける自然主義文学を追求しただけでなく、布団という作品に影響を与えました。結果的に日本版自然主義文学を生み出すキッカケになったのです。藤村が日本の文学界に与えた影響は大きいでしょう。
功績2「「文学界」に参加し初恋等の優れた詩を残す」
破戒執筆前の藤本は詩人として活動していました。1893年に北村透谷達が創刊したロマン主義の文芸作品「文学界」の創刊に関与。文学界には樋口一葉や田山花袋等の日本を代表する文学者も作品を執筆しています
ロマン主義とは、古典主義の反動として生まれた文学です。古典主義は古代ローマ等の作品を規範とし、合理性や理性、調和を重要視します。ロマン主義は個々の感受性を大切にし、自由な創造活動を重視しました。
文学界は日本のロマン主義の発展に大きく貢献しました。藤村も文学界に多くの優れた詩を残し、特に「初恋」が有名です。初恋の感情は人により違いますし、初恋はロマン主義を代表する作品に位置付けられます。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
藤村はロマン主義と自然主義文学の双方で、優れた作品を残したのです。
功績3「「日本ペンクラブ」の初代会長となる」
藤村は1935年に日本ペンクラブの初代会長となりました。当時は満州事変や国際連盟脱退等、日本の軍事色が強まっていた時期です。1921年にイギリスにて最初のペンクラブが発足し、その後世界に広がっていきました。
「戦争による統制下のもとでも言論や表現、出版の自由は守られなければならない」そんな強い想いで発足したのが日本ペンクラブでした。藤村が初代会長に選ばれたのも、作品の功績や文学界に与えた影響が大きいからです。
太平洋戦争勃発後は活動休止に追い込まれるものの、イギリスのペンクラブと連絡を取り合う等、日本ペンクラブは表現の自由に抵抗を続けたそうです。
藤村は1943年に会長のまま死去。その後は共にクラブを立ち上げた正宗白鳥が2代目会長に就任しました。1947年から本格的に活動は再開され、現在も日本ペンクラブの活動は続いています。
島崎藤村の名言
木曾路はすべて山の中である
夜明け前の書き出しです。実際に中山道のほとんどは山間部であり、その地に長年住んでいた藤村だからこそ生まれた名文です。
旧(ふる)いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折(ほねおり)だ。
ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは毀れている。
ここで明記される「もの」とは新たな制度や文化等の事でしょうか。幕末から明治を迎えた時、夜明け前の主人公の半蔵は自分を新しくする事が出来ず、時代の流れに合わせて生きる事が出来ませんでした。
古い体制を塗り替える為には、自分が新しく生まれ変わる事が必要があります。そしてそれを表現したのが、破戒であり、夜明け前だったのかもしれません。
人の世には三智がある。学んで得る智、人と交わって得る智、自らの体験によって得る智がそれである。
藤村は自身の体験をもとに数々の作品を執筆しましたが、それは多くの人との交わりがあってこそです。そしてその根底には学んで得た智がありました。
まさに三智があったからこそ、藤村の作品は生まれたのです。この名言は藤村の人生を体現したものと言えるでしょう。
島崎藤村の人物相関図
こちら文豪の相関図です。藤村は自然主義の立場にいたものの、無頼派や耽美派等の多くの考えが存在し、彼らは日々激論を交わしていました。
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