島崎藤村の年表
1872年 – 0歳「島崎藤村誕生」
島崎家のルーツとは?
島崎家の先祖は、戦国時代に信濃国の木曽谷を支配した木曽氏に仕えていました。やがて重通が馬籠の地を開拓し、中山道の宿場として発展。やがて島崎家は本陣や庄屋、問屋を務めるようになります。
「木曽路はすべて山の中である」というフレーズの通り、中山道は殆どが山間です。この地で島崎家の人々は長年にわたり江戸という時代を過ごしていたのです。
島崎藤村誕生
藤村は1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に島崎正樹と縫の7人兄弟の末っ子として誕生。本名は春樹と言います。
ちなみに藤村の父である正樹は島崎家の17代目当主にあたります。正樹は国学者として幅広い教養を持ち、幼少期の藤村に、「孝経」や「論語」などを教えています。これらの学びが、後の藤村の土台となりました。
1881〜1891年 – 9〜19歳「上京と父の死」
泰明小学校に入学
藤村は9歳の頃に長兄と共に上京。姉の嫁ぎ先である、高瀬家に居候しています。入学した泰明小学校では中国や日本の古典や西洋文学等、様々なジャンルの文学を読み漁りました。
父が牢屋で死去する
1886年11月、藤村に「父・正樹の牢死」の連絡が届きます。正樹は1874年に明治天皇の乗る神輿に、憂国の歌を書いた扇を投げつけて不敬罪に問われています。明治という時代に不安を感じて、気をおかしくしていたからです。
馬籠に戻った正樹は、寺院に放火未遂を起こして入牢。そのまま牢獄で亡くなりました。知らせを聞いた時の藤村は15歳と多感な時期であり、藤村の思想に大きな影響を与えています。
洗礼を受ける
1887年には英語の学習の為に、明治学院普通部本科に入学。恩師の影響も受け、この頃にキリスト教の洗礼を受けています。この頃の藤村はシェイクスピア、松尾芭蕉、西行等の作品に特に関心がありました。
1891〜1895年 – 19〜23歳「文学界を創刊する」
明治女学校の教師になる
1891年に藤村は明治学院を卒業。しばらくは英語の知識を活かして、日本初の本格的女性誌である「女学雑誌」に訳文を寄稿する等の活動をしていました。
1892年10月に明治女学校の教師となります。翌年には友人の北村透谷や星野天知達と「文学界」を創刊。関係者の多くがプロテスタントの洗礼を受けており、初期の「文学界」は宗教と文学との融和を目指した作品が多かったのです。
教え子の佐藤輔子を愛する
順風満帆に思われた日々ですが、暗雲が立ちこめます。藤村は教え子の佐藤輔子を愛し、激しい自責の念に駆られました。輔子は故郷に許婚がおり、キリスト教の教えに反していたからです。
許されぬ恋に悩んだ挙句、藤村は4カ月で教師を退職。キリスト教も棄教し、関西へ漂泊の旅に出かけました。1894年に教員に復帰するものの次々と不幸が襲います。
- 1894年 北村透谷が自殺
- 1895年 長兄が公文書偽造の為に入獄
- 1895年 輔子が妊娠後の悪阻で死去
特に輔子の死の影響は大きく、熱の入らない藤村の授業を見て、生徒達は「ああもう先生は燃え殻なのだもの、仕方がない」と感じたそうです。結局藤村は再度、明治女学校を退職しています。
1896〜1906年 – 24〜34歳「母の死と詩の作成」
若菜集の刊行
1896年9月に藤村は東北学院の教員になる為、宮城県仙台市に赴任します。翌月には母の縫がコレラで死去する等不幸は続きました。この頃から藤村は詩作に励むようになり、多くのロマン主義的な作品を文芸界に発表しています。
これらの詩はまとめられ、1897年に「若菜集」として発表。「秋風の歌」や「初恋」等の作品は人々の心を打ちました。なお文学界のメンバーは透谷の死を乗り越え、各々の道を歩みだし、1898年1月に発行を終えました。
千曲川のスケッチの執筆
1899年に藤村は小諸義塾の英語教師として、長野県小諸町に赴任。その年に秦冬子と結婚しています。この頃の藤村は美術評論家のラスキンに影響され、写生を散文に応用する事を考えます。
藤村は、千曲川一帯の自然や人々の暮らしを鮮やかに描写した写生文である「千曲川のスケッチ」を執筆。この作品は詩から散文に移行する中間的な作品として重要とされます。
藤村は「情人と別るるがごとく」と述べ詩からの決別を決意。この頃から破戒の執筆に着手し始めます。
1906〜1910年 – 34〜38歳「破戒を自費出版し、自然主義文学を開拓する」
破戒の自費出版
1905年に藤村は上京。翌年には自費出版にて「破戒」を発表。この作品で藤村は自然主義文学の作家として大いなる賞賛を得ますが、前述した通りそれまでの生活は貧しかった為、3人の娘を栄養失調で亡くします。
藤村の行動については賛否両論あり、志賀直哉は家族を死なせてまで執筆を続けた事に否定的な意見を述べています。破戒執筆後の藤村はそんな声に耳を傾けず、沢山の作品を書き続けました。
様々な作品の執筆
1907年には、当時問題になっていたサンフランシスコの移民問題を書いた「並木」を執筆。更に1908年には教え子を愛した教師の物語である「春」を、1910年には二つの旧家の没落を描いた「家」を執筆しました。
春は言うまでもなく、藤村と教え子の輔子をモデルにしています。そして家に登場する旧家とは島崎家と姉が嫁いだ高瀬家がモデルです。藤村は自身の抑圧や、「親譲りの憂鬱」を題材に作品を作り続けました。
1910〜1918年 – 38〜45歳「こま子と関係を持つ」
秦冬子の死とこま子の関係
家を書き上げた頃、秦冬子が出産の末に亡くなります。子ども達もまだ小さく、家事手伝いとして次兄・広助の次女・こま子が藤村の家に住み込みとなりました。やがて2人は愛人関係となり、こま子は藤村の子を妊娠します。
藤村は子どもやこま子を置き、1913年4月にパリへ旅立ちます。これが逃避的な旅だった事は否めず、こま子は8月に藤村の子を産んでいます。その子は養子に出されるものの、1923年の関東大震災で行方不明となっています。
パリ先での作品と帰国
留学中の藤村はパリ先で西洋美術史家の澤木四方吉と交流を深める等、交流を深めます。藤村は自己の行動を省みつつ、フランスから日本に「仏蘭西だより」という作品を東京朝日新聞社に宛てていました。
1914年に勃発した第一次世界大戦で、リモージュという地に疎開する等、壮絶な体験をしつつ1916年に藤村は帰国。こま子の思いは断ち切れず、2人の関係は再熱するのでした。
なお帰国後の藤村はパリでの様々な出来事や当時の心境をテーマに5作の航海記を執筆し、それらは「海へ」という名前で1918年に発表されました。