島崎藤村とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家族構成、破戒・夜明け前などの代表作についても解説】

島崎藤村の功績

功績1「日本における自然主義文学の開拓者となる」

布団を執筆した田山花袋

藤村は破戒により日本における自然主義文学を開拓しました。自然主義文学はフランスが発祥の地です。資本主義により貧富の差が拡大し、浪漫主義等の理想から脱却して社会と人間のあり方を鋭く風潮が広がったからです。

藤村の影響は大きく、田山花袋は破戒を意識しつつ「布団」を執筆。内容は34歳で子がいる竹中時雄という作家が、横山芳子という女弟子に恋愛感情を抱くもの。モデルは作者自身であり、破戒と共に自然主義文学の代表的作品です。

ただ布団が世間に衝撃を与えたのは、作品の質ではなく、時雄が芳子を思うあまり芳子の布団の匂いを嗅ぐ等、性に対する露悪的な描写でした。布団の創刊を経て自然主義文学は作者の体験談等の私小説に変質していきます。

日本における自然主義文学は、その後急速に衰退していきますが、藤村はあくまでも本来の意味での自然主義文学を追求。後に執筆された「夜明け前」は日本を代表する自然主義文学と評されました。

藤村はフランスにおける自然主義文学を追求しただけでなく、布団という作品に影響を与えました。結果的に日本版自然主義文学を生み出すキッカケになったのです。藤村が日本の文学界に与えた影響は大きいでしょう。

功績2「「文学界」に参加し初恋等の優れた詩を残す」

文学界創刊号の表紙

破戒執筆前の藤本は詩人として活動していました。1893年に北村透谷達が創刊したロマン主義の文芸作品「文学界」の創刊に関与。文学界には樋口一葉や田山花袋等の日本を代表する文学者も作品を執筆しています

ロマン主義とは、古典主義の反動として生まれた文学です。古典主義は古代ローマ等の作品を規範とし、合理性や理性、調和を重要視します。ロマン主義は個々の感受性を大切にし、自由な創造活動を重視しました。

文学界は日本のロマン主義の発展に大きく貢献しました。藤村も文学界に多くの優れた詩を残し、特に「初恋」が有名です。初恋の感情は人により違いますし、初恋はロマン主義を代表する作品に位置付けられます。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

藤村はロマン主義と自然主義文学の双方で、優れた作品を残したのです。

功績3「「日本ペンクラブ」の初代会長となる」

現在の日本ペンクラブ本社

藤村は1935年に日本ペンクラブの初代会長となりました。当時は満州事変や国際連盟脱退等、日本の軍事色が強まっていた時期です。1921年にイギリスにて最初のペンクラブが発足し、その後世界に広がっていきました。

「戦争による統制下のもとでも言論や表現、出版の自由は守られなければならない」そんな強い想いで発足したのが日本ペンクラブでした。藤村が初代会長に選ばれたのも、作品の功績や文学界に与えた影響が大きいからです。

太平洋戦争勃発後は活動休止に追い込まれるものの、イギリスのペンクラブと連絡を取り合う等、日本ペンクラブは表現の自由に抵抗を続けたそうです。

藤村は1943年に会長のまま死去。その後は共にクラブを立ち上げた正宗白鳥が2代目会長に就任しました。1947年から本格的に活動は再開され、現在も日本ペンクラブの活動は続いています。

島崎藤村の名言

晩年の藤村

木曾路はすべて山の中である

夜明け前の書き出しです。実際に中山道のほとんどは山間部であり、その地に長年住んでいた藤村だからこそ生まれた名文です。

旧(ふる)いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折(ほねおり)だ。
ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは毀れている。

ここで明記される「もの」とは新たな制度や文化等の事でしょうか。幕末から明治を迎えた時、夜明け前の主人公の半蔵は自分を新しくする事が出来ず、時代の流れに合わせて生きる事が出来ませんでした。

古い体制を塗り替える為には、自分が新しく生まれ変わる事が必要があります。そしてそれを表現したのが、破戒であり、夜明け前だったのかもしれません。

人の世には三智がある。学んで得る智、人と交わって得る智、自らの体験によって得る智がそれである。

藤村は自身の体験をもとに数々の作品を執筆しましたが、それは多くの人との交わりがあってこそです。そしてその根底には学んで得た智がありました。

まさに三智があったからこそ、藤村の作品は生まれたのです。この名言は藤村の人生を体現したものと言えるでしょう。

島崎藤村の人物相関図

相関図

こちら文豪の相関図です。藤村は自然主義の立場にいたものの、無頼派や耽美派等の多くの考えが存在し、彼らは日々激論を交わしていました。

島崎藤村にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ゆかりの地 中棚荘で温泉を掘り当てる?」

藤村ゆかりの地である中棚荘

藤村にはゆかりの地がいくつかあり、その中の1つが長野県小諸市にある中棚荘です。藤村は小諸義塾校長の木村熊二に誘われ、7年に渡り国語と英語教師を務めていた事がありました。

木村の書斎は中棚荘の敷地内にあり、藤村はこの宿に何度も通ったそうです。小諸の地は温泉宿がいくつかあり、木村から「土地を掘れば温泉が出るのでは?」というアドバイスをもとに中棚荘は温泉を掘り出します。

この時、藤村も鍬を持ち鉱泉開発に携わりました。結果的に中棚荘には想像以上の湯量がある事がわかり、温泉宿として創業を始めたのです。中棚荘の思い出は藤村にも影響を与え、1つの詩を作ります。

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ

なお藤村は間もなく結婚。小諸市内に居を構えるのですが、それまでの1年間は中棚荘の1室を間借りしていました。その部屋は「藤村の間」とも呼ばれているそうです。

都市伝説・武勇伝2「父や姉の発狂…島崎藤村の作品にも影響を与えた複雑な生い立ち」

藤村の父である正樹

藤村の作品や人格に強い影響を与えているのは、複雑な家庭環境でした。夜明け前のモデルが、「座敷牢で発狂した父親の正樹」である事は最初に紹介しましたが、他にも様々な出来事が藤村に影響を与えています。

  • 母の縫:長男一家と上京後にコレラで死去。藤村の作品が自然主義文学になるきっかけを作る。
  • 姉の高瀬園子:名家の木曽福島の高瀬家へ嫁ぐが、父と同じく精神疾患となり死去。
  • 長兄の秀雄:私文書偽造で入獄。
  • 次兄の広助:こま子の父親。事業に失敗し、社会的に成功した藤村に金銭を要求する。
  • 三兄の友弥:縫と稲葉屋主人の不倫の末に出来た子で、父親は正樹ではありません。

何とも壮絶な家庭環境です。藤村もまた姪のこま子と過ちを犯しています。藤村は自身の家庭環境と境遇を「親譲りの憂鬱」と表現。夜明け前や家、そして新生等の多くの作品を執筆する原動力となったのです。

都市伝説・武勇伝3「「新生」は攻めすぎた?芥川龍之介から批判される」

芥川龍之介

こま子との関係を主題にした「新生」は1918年に連載され、翌年に刊行されています。スキャンダラスな内容から当時でも賛否両論があり、他の小説家を批判しない芥川龍之介でさえ、遺作の「ある阿呆の一生」でこう述べました。

殊に「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。

新生の主人公は当然藤村なので、これは龍之介が藤村を批判していると判断されても無理はありません。ある阿呆の一生を執筆した1927年に龍之介は自殺。藤村は追悼文を著し、以下のように述べました。

『ある阿呆の一生』を読んで私の胸に残ることは、私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろうということである。私の『新生』は最早十年も前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかったであろうかと思う。

藤村が新生で表現したのは禁断の愛ではなく、父子家庭(藤村と子供たち)の苦悩・家族の離散等・宗教的観念の軋轢など、その時代特有の暗闇からの脱却がテーマであり、自然主義文学の本質を捉えていました。

龍之介は自殺した為、藤村は最後まで龍之介の本心を聞く事は出来ませんでした。ある阿呆の一生の一文が何を意味していたのか、今では分からないのです。

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