島崎藤村とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家族構成、破戒・夜明け前などの代表作についても解説】

1918〜1919年 – 45〜46歳「新生による清算」

新生

新生の執筆

同年、藤村は許されざる関係にあるこま子との関係を清算する事を決意。「新生」の執筆を始めました。こま子と藤村の関係については、父親にあたる広助も激怒しており、こま子は台湾の伯父秀雄の元へ身を寄せます。

1919年に新生は創刊され、大きな話題となりました。一方でこま子とは疎遠となり、藤村は関係を本当に清算。2人はそれぞれ以下のように答えています。

こま子とは二十年前東と西に別れ、私は新生の途を歩いて来ました。(中略)それ以来二人の関係はふっつりと切れ途は全く断たれてゐたのです。(島崎藤村 1937年)

最初は叔父を怨み憎んでもおりましたが、だんだん年をとるにつれ、そのような気持はなくなってきました。むしろ今は、あのように、文学作品によって自己を貫いてきた叔父に尊敬をもつようになりました。(島崎こま子 1955年)

こま子は新生の作品を、叔父との共同制作とも述べていました。2人の感情には多少の隔たりはあれど、人間的に成長するきっかけになったのかもしれません。

1919〜1922年 – 46〜50歳「婦人雑誌「処女地」の創刊」

新生で過去を清算した藤村

童謡の作詞と、ある女の生涯の執筆

1920年には童謡である「ふるさと」を作詞。更に1924年にも「おさなものがたり」「幸福」という作品も生み出しました。こま子との関係を清算後、藤村の目に見えていたのは子ども達だったのかもしれません。

ただ1920年には姉・園子が、父・正樹と同じく精神疾患で亡くなる等、藤村は再び悲劇に見舞われます。藤村は1921年7月に放浪する夫に苦悩する女性をテーマにした「ある女の生涯」を執筆。モデルはもちろん姉でした。

処女地の創刊

1922年4月に藤村は婦人雑誌「処女地」の創刊に携わります。大正時代中期、婦人雑誌ブームは最高潮に達していました。当時の雑誌は特定の出版社により主催・出版されるのに対し、処女地は藤村の作品の収益により運営されました。

藤村が処女地を創刊したのは新生事件による女性観の変移、償罪の責任感だと言われます。処女地は読者に手紙形式の文書の投稿を呼びかける事で、婦人達の内部的覚醒を目指していました。多くの無名の婦人が手記を投稿したのです。

1923〜1928年 – 51〜57歳「嵐の執筆と、静子との結婚」

藤村と子ども達左から(藤村・楠雄・蓊助・鶏二・柳子)

加藤静子との出会い

処女地は1923年1月まで発行されています。雑誌の主催者は藤村ですが、他に数名の雑誌作りを手伝う婦人達がいたのです。その中の1人が河口玲子、本名を加藤静子と呼び、藤村の2度目の妻になる人物でした。

前述した通り、藤村は1924年に手紙でプロポーズをしました。静子は藤村より24歳年下で、年齢差に戸惑いすぐ返事は出来ません。静子が本格的に藤村の思いに応えるのは4年後の事でした。

嵐の執筆

藤村は1926年に、妻を亡くした「私」と四人の子供達による物語である「嵐」を執筆。モデルは藤村と子供達であり、父として子供達に向き合った作品でした。賛否あった新生と違い、様々な分野から高い評価を得たのです。

1928年には静子が藤村の気持ちに応え結婚を決意。2人は夫婦となります。LIFEを共にした事で、藤村は自身の原点とも言える「時代に翻弄された父」を主題にした作品作りの準備を開始。言わずと知れた「夜明け前」の事ですね。

1929〜1935年 – 57〜63歳「夜明け前の執筆」

秋の木曽路

夜明け前の執筆

1929年4月より夜明け前が「中央公論」に掲載。1935年まで断続的に掲載されました。夜明け前は高い評価を受け、日本の近代文学を代表する作品と位置付けらました。藤村は作品の意図について以下のように述べています。

あの作は御承知のように、維新前後に働いた庄屋、本陣、問屋の人たちを中心に書いたものでございます。維新前後を上の方から書いた物語はたくさんある。私はそれを下から見上げた。明治維新は決してわずかな人の力で出来たものではない。そこにたくさんの下積の人たちがあった。

実のところ、主人公の青山半蔵は作中において主人公らしい事をしていません。坂本龍馬のようにヒーロー性があるわけではなく、目の前の生活を続けるだけです。「傍観者から見た時代の節目」こそ、夜明け前の本質でした。

藤村が夜明け前を執筆する間、満州事変や犬養毅の暗殺等、日本はどんどん軍事色が強まっていきます。夜明けを迎えた日本人は、また新たな時代の節目を迎えようとしていたのです。

1935年 – 63歳「日本ペンクラブの設立に関与」

外遊から帰国した藤村と静子

日本ペンクラブの設立

1935年3月頃、ロンドンの国際ペンクラブから「平和の希求・表現の自由」を目的とした日本ペンクラブの設立の要請がありました。当時外務省に在籍した柳澤健は日本の国際的孤立を憂いて、創設に奔走しています。

藤村も柳澤の行動に賛同し、設立に協力。11月に日本ペンクラブが発足され、藤村は初代会長となりました。翌年に第14回国際ペンクラブブエノスアイレス大会に出席する為、静子と外遊をしています。

1935〜1942年 – 63〜70歳「戦時体制に巻き込まれる」

戦陣訓

戦陣訓の文案作成に参加?

やがて日本はアメリカとの戦争が現実的となりました。1941年1月に「軍人としてとるべき行動規範を示した文書」である「戦陣訓」が作られます。藤村は土井晩翠達と文体を校閲に参加しています。

12月には太平洋戦争が勃発。藤村は1942年11月に「文学による戦争協力」を目的とした大東亜文学者大会に参加しています。文学者達も軍部の要請により戦争に加担しますが、藤村の本心は分かりません。

藤村の本心は?

ただ「島崎藤村の人間観」の作者である川端俊英は、この時の藤村の心境について以下のように推測しています。

当時の藤村の文章には積極的な戦争賛美や戦意鼓舞の言辞は見当たらない。軍部に対して必要最小限度の協力によって摩擦を避けていた。

藤村の真意は今では分からないものの、何かしらの葛藤があった事は間違いありません。

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