ハワード・フィリップス・ラヴクラフトとはどんな人?生涯・年表まとめ

ラヴクラフトの年表

1890年 – 0歳「ロードアイランド州プロヴィデンスにて誕生」

ラヴクラフトが生涯を送った、プロヴィデンスの現在。

プロヴィデンスにて誕生

1890年8月20日、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトはアメリカ合衆国ロードアイランド州プロヴィデンスに生を受けました。

それなりに裕福な家の一人息子として生を受け、更に母方の実家が名士だったことから経済的には余裕があったようですが、彼の誕生から3年後の1893年には父が突然この世を去るという悲劇に見舞われることになってしまいます。

これによって祖父母と伯母の住む屋敷に引っ越すことになったラヴクラフトは、祖父の影響を受けたゴシック・ロマンスや、エドガー・アラン・ポーの作品に親しむ、読書好きで貴族趣味の少年として成長していくことになりました。

母からの溺愛

少年期のラヴクラフトは、母から非常に溺愛されて育ったことが記録されています。

望むものは何でも買い与えられ、好むものばかりを与えられたラヴクラフトは、特に食の好みとして海産物を異様に毛嫌いするようになり、その嫌い様は”恐怖”に近いものですらあったそうです。

そして、この時から終生続くことになった海産物嫌いは、後の『クトゥルフ神話』における邪神の造形に影響を与えることになります。

1900年頃 – 10歳「人生で最も暗い時期」

貴族趣味だったはずが、10歳の若さで没落を経験する羽目に。

祖父の業績の悪化

ラヴクラフトが10歳になるころには、名士だった祖父の事業の業績が悪化。これにより経済的な余裕は失われ、ラヴクラフトの生活は次第に貧困化していくことになりました。

ラヴクラフトは後に、この時期のことを「自分の人生の中で最も暗い時期の一つだった」と語っており、詳細な記録こそありませんが、この頃の経験もラヴクラフトに大きな影響を与えたと言えるでしょう。

悪夢と小説と科学

6歳のころからギリシャ神話に題材を得た物語を書き始めたラヴクラフトでしたが、同時に彼は神経症に罹ってしまい、夜ごとに悪夢に悩まされていたことが記録されています。

しかし、8歳の頃に科学に興味を持ち始めると、彼は宗教心がなくなり、それと同時に悪夢も見なくなったという事が記録によって明らかになっています。

1908年 – 18歳「筆を折り、隠者となる」

小説を書くこともやめ、人目を避けて生きるしかなかったラヴクラフト。

ハイスクールを中退

経済的な余裕が失われ、しかも神経症によって成績も振るわなくなっていたラヴクラフトは、この年にハイスクールを中退することになってしまいます。

それでも独学で大学を目指したラヴクラフトでしたが、彼はその受験でも失敗。これによって打ちのめされた彼は、趣味である小説の執筆すら止め、世間との関わりを絶った隠者のように暮らすことになってしまいました。

1914年 – 24歳「小説の執筆を再開する」

小説の執筆を再開し、以降の彼は貧しいながら文章を仕事としはじめる。

アマチュア文芸クラブに所属

この年の4月、ラヴクラフトはアマチュア作家の交流組織に参加したことで、小説との関わりを取り戻すことになりました。

その縁によってかは不明ですが、1年後の1915年には文章添削の仕事を始めていたことが記録されており、彼は文章添削の仕事の傍ら、あくまで余暇や依頼を受けた際に小説の執筆を行う生活を開始したようです。

ラヴクラフト式の文章添削

ラヴクラフトの行う文章添削は、非常に安価でありながら緻密であり、作品に新たなアイディアを提案したり、文章を原型が残らないほどに書き換えたりしたという記録が残っています。

このような添削は、ラヴクラフト自身も与り知らないところで後進の育成に効果を発揮し、結果として彼の作品が書き継がれることになる土壌となりました。

1917年 – 27歳「兵役検査と『サミュエル・ジョンソン博士の回想』」

サミュエル・ジョンソン

兵役検査に不合格となる

この年、ラヴクラフトは兵役検査を受けることになりましたが、その結果は不合格でした。

この事実にラヴクラフトは強いコンプレックスを抱いたとされ、そこから生じる劣等感は、彼に終生付きまといつづけたと言われています。

『サミュエル・ジョンソン博士の回想』

短編小説である『サミュエル・ジョンソン博士の回想』が発表されたことで、ラヴクラフトはアマチュアでこそあれ、作家としてデビューすることになりました。

この作品についての記録はほとんど無く、生前のラヴクラフトの無名さも相まって、作品の評価は現状としては掴みがたいものになっています。

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