1921年 – 31歳「母の死、妻との出会い」
母の死に強いショックを受ける
1919年に精神病院に入院していた母が、この年の5月に死去。ラヴクラフトはこの事実に非常に強いショックを受けたと記録されています。
この時のラヴクラフトのショックの受け方は、肉親を失ったとしても常軌を逸した者であったとも言われ、このことからラヴクラフトは、非常に強いエディプス・コンプレックスを抱えていたと指摘する研究者も存在しているようです。
ソニア・グリーンとの出会い
母の死から少し経った7月、ラヴクラフトはアマチュア作家の集会に参加し、その中でソニア・グリーンという女性と知り合うことになりました。
ソニアはラヴクラフトよりも10歳年上で、子供も抱えた職業婦人でしたが、この出会いから3年後の1924年に二人は結婚。この結婚によってラヴクラフトは住み慣れたプロヴィデンスを離れ、ニューヨークのブルックリンに移住することになりました。
1923年 – 33歳「『ウィアード・テイルズ』」
『ウィアード・テイルズ』に作品を投稿するようになる
1923年、怪奇小説雑誌である『ウィアード・テイルズ』が創刊。ラヴクラフトは友人たちからの勧めにより雑誌に作品の投稿を始め、一部の読者からカルト的な人気を得るようになりました。
その一方で、1924年からウィアード・テイルズの編集長となったファーンズワース・ライトとはいさかいが絶えず、作品を拒否されることも度々あったと記録されています。
ただ、ライトとラヴクラフトが争っていたこの時期こそが、「ウィアード・テイルズの黄金期」とも評されており、ラヴクラフトは確かに同誌の看板作家として人気を博していました。
1926年 – 36歳「プロヴィデンスに帰還」
プロヴィデンスへ舞い戻る
1924年に結婚しニューヨークに移住するも、その1年後である1825年に妻であるソニアが失業。結果としてソニアとラヴクラフトは別居することになりました。
別居当初のラヴクラフトは、ソニアからの仕送りを頼りにそのままニューヨークに住み続けましたが、人種差別意識の強い彼にとってニューヨークの多民族ぶりはストレスにしかならず、結果として彼はこの年、住み慣れたプロヴィデンスに戻ることになっています。
『クトゥルフ神話』の代表作が生まれ始める
プロヴィデンスに戻ったラヴクラフトは、寡作でこそありましたが執筆活動を継続。以降の10年間でクトゥルフ神話の原型に当たる作品を続々と生み出し、その世界観を後世に伝えていくこととなりました。
1937年 – 46歳「小腸ガンによりこの世を去る」
小腸ガンによってこの世を去る
1936年、小腸ガンという診断を受けたラヴクラフトは、元々の貧困による栄養失調が病魔によってさらに悪化。結局病魔の進行を食い止めることはできず、彼は1937年3月15日、小腸ガンによってこの世を去ることになりました。
1929年に妻であったソニアとは離婚していたため、その遺体は母の生家であるフィリップス家の墓地に埋葬されましたが、貧困のためか彼自身の墓碑は作られませんでした。
しかし、彼の没後40年にあたる1977年に、ファンたちが墓碑を購入。「われはプロヴィデンスなり(I am Providence、神意(Providence)と彼の故郷プロヴィデンスをかけた洒落)」」が刻まれたその墓碑は、現在も多くのラヴクラフトファンが訪れるスポットとなっています。
1939年 – 没後2年「アーカム・ハウス出版社の立ち上げ」
アーカム・ハウス出版社
ラヴクラフトの生前より、彼の作品の熱心なファンだったオーガスト・ダーレス、ドナルド・ウォンドレイが発起人となり、アーカム・ハウス出版社が立ち上げられました。
ラヴクラフトの作品群を出版する目的で立ち上げられたその会社は、他の作家によるクトゥルフ神話作品群の出版も行い、ラヴクラフトの作品と名声を大きく広げるきっかけとなりました。