明治時代ってどんな時代?出来事や年表、重要人物、文化などをご紹介

当時の食事生活は?

牛鍋

文明開化の象徴として食されたものといえば「牛鍋」です。江戸時代頃までは牛肉は仏教の観点から「穢れ(けがれ)」とされ、薬用以外で食されることが少ない食べ物でした。しかし、1872年に明治天皇が牛肉料理を召しあがったことが契機となり、全国へ牛肉料理が一気に普及したそうです。

中でも代表的な食べ物が「牛鍋」です。牛鍋は、文明開化の味とも称され、明治10年には東京の下町を中心に牛鍋屋が550件以上あったとされています。それだけ、牛鍋は庶民の間で広まり、仮名垣露文(かながきろぶん)の小説「安愚楽鍋(あぐらなべ)」では、大工などが鍋を囲み「牛鍋を食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と言いながら繁盛している様子が描かれるほどの盛況ぶりでした。

庶民の食事

とはいえ、西洋文化になったからと言って庶民の生活がすぐに豊かになったというわけではありません。地方の農村部などでは食事も白米や麦飯が主食であり、野菜や煮物などを副菜に1日3食が基本の食事となっていました。牛鍋など肉や卵を食すことは、当時としてはかなり貴重な機会だったのではないでしょうか。

街並みや有名な建物は?

明治初頭の銀座を描いた錦絵「東京銀座要路煉瓦石造真図 歌川国輝画」

明治時代に入ると、それまでの木造建築とは異なるレンガ造りの建物が各地で建設されるようになりました。上述の錦絵は、明治5年ごろの銀座の街並みを描いたものです。この銀座の街並みが日本で最初に現れた西洋風の街並みと言われております。

この街並みのほか、明治期にはどんな代表的な建造物があるのか。いくつかご紹介いたします。

現在に残る模範工場の一つ・富岡製糸場(とみおかせいしじょう)

富岡製糸場

富岡製糸場は1872年に群馬県富岡市に開業した工場で、殖産興業のモデルとなるべくして誕生した「官営模範工場」の一つです。フランスの技術を導入して建設された世界最大規模の器械製糸工場(きかいせいいとこうじょう)であり、多いときには就業人数が556人ほどで運営されておりました。

その後、1987年の操業停止後は史跡として保存され、明治期の殖産興業を代表する施設として2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として周辺施設と共にユネスコの世界遺産に登録されました。

日本の産業革命遺産・官営八幡製鉄所(かんえいやはたせいてつじょ)

八幡製鉄所

1901年に福岡県北九州市で創業された官営の製鉄所。日清戦争に勝利し、下関条約にて締結された賠償金を基に建設された製鉄所で、石炭の産地であった筑豊炭田(ちくほうたんでん)から鉄道などを使用し、迅速に調達が出来るという利点を生かした製鉄所として明治後期の日本の工業に多大な影響与えた場所です。

明治後期にはこうした製鉄業以外にも造船、石炭産業などが主な工業として発展し、日本の産業・経済を支えてきました。これらの産業地域は、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、世界遺産に登録されました。

都内にある異国情緒あふれる明治の建造物・迎賓館赤坂離宮(げいひんかんあかさかりきゅう)

迎賓館赤坂離宮

1909年に、東京駅などを建築したお雇い外国人ジョサイア・コンドルの弟子である片山東熊が建築した建物。元は東宮御所として建築されたのですが、フランスのヴェルサイユ宮殿を模したネオバロック様式の外観などからあまり御所として使用されず、大正天皇が即位されたときに離宮として使用されたことから現在の「赤坂離宮」という名称に代わりました。

西洋風の宮殿建築でありながら、内装の模様などには和風の意匠が凝らされているという建築様式になっております。現在は水曜の定休日以外は公開されており、参観料金を払えば庭園や本館、和風別館などを見学することが可能です。

井上馨と明治政府の夢の跡・鹿鳴館(ろくめいかん)

鹿鳴館

1883年に外務卿であった井上馨(いのうえかおる)の提案により建築された西洋館。現在の東京都千代田区内幸町に建築された建物で、国賓や外交官などを接待するための場所として使用されました。この鹿鳴館で井上は不平等条約改正などの外交面において重要な役割を果たすという狙いがあり、その時期の事を「鹿鳴館外交」「鹿鳴館時代」などと呼びます。

ところが、思うような成果が得られず、結局1887年に条約改正は失敗し、井上は外務卿を辞任。鹿鳴館は華族会館として使用されますが、1941年には取り壊されてしまいました。この鹿鳴館を題材にした小説やドラマなどがいくつか存在し、芥川龍之介の「舞踏会」などが代表的な作品として挙げられます。

東京タワーよりも先に出来た浅草タワー・凌雲閣(りょううんかく)

凌雲閣

1890年、東京市浅草区千束町に建設された高さ122mほどの12階建て高層建築物。日本初の殿堂エレベーターを導入した建築物であり、その高さは浅草中から見ることが出来たと言われています。建築には、外国人技師のウィリアム・K・バルトンが基本設計者として名を連ねています。

開業当初は多数の見物客でにぎわったものの、その後次第に経営が悪化。そして、1923年9月1日の関東大震災により建物が半壊し、そのまま取り壊されてしまいました。ですが、明治期のモダンを象徴する建物であり現在でも「鬼滅の刃」「いだてん〜東京オリムピック噺〜」といった作品などで登場する建築物として有名な場所です。

このほか、現存している代表的な明治期の建築物には「日本銀行本店本館」や「旧岩崎久弥邸」、「東京復活大聖堂」などがあります。

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