明治時代の主な出来事年表
1868年:戊辰戦争
戊辰戦争は、1868年から1869年にかけて勃発した新政府軍と旧幕府軍による戦争です。1867年に大政奉還後、薩摩藩を中心とする5つの雄藩にが朝廷を掌握し、王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発令しました。この号令により幕府の廃止は決定的なものとなったのです。
そして、1868年1月、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を幕府の軍艦が砲撃したことにより、戊辰戦争は幕を開けました。戦況は主に新政府軍が優勢のまま進み、翌1869年5月には榎本らが全面降伏したことにより、旧幕府軍は敗北。新政府軍が見事に勝利を収めるという結果になりました。
1873年:明六年の政変
明六年の政変は、1873年に明治政府の参議、軍人、官僚などが約600人ほど辞職した政変です。その主な原因となったのが「征韓論」です。征韓論とは、当時鎖国をしていた朝鮮を巡る処遇について、岩倉使節団が渡欧中の留守政府を任されていた西郷が朝鮮使節として、朝鮮に開国を要求するといったものでした。
しかし、岩倉らが帰国後、これは時期尚早であると反対し、結局この計画は破棄され、西郷らは下野することとなりました。この明六年の政変の結果が後の不平士族の反乱である「西南戦争」や自由民権運動などへと繋がります。
1877年:西南戦争
西南戦争は1877年に勃発した不平士族達による内戦です。明六年政変により下野した西郷らは地元へと帰国し、西郷は私学校を開設しておりました。しかし、明治政府は士族の減俸政策である「秩禄処分」、武士の命とも言うべき刀を取り上げる「廃刀令」を出すなど、武士の特権を廃止してきたのです。
その結果、各地で不平士族による反乱が勃発し、最後の激戦となったのが「西南戦争」でした。中でも「田原坂の戦い」では、17日間にわたって新政府軍と不平士族による激戦が繰り広げられました。結果、城山総攻撃を持って、士族側の大将であった西郷が自刃し、新政府軍が勝利を収めました。
1886年:ノルマントン号事件
1886年10月、和歌山沖にてイギリスの貨物船「ノルマントン号」が沈没するという事件が起こりました。このノルマントン号に乗船していたイギリス人やドイツ人の乗組員は救助されたものの、日本人の乗組員は全員亡くなりました。この事件で、イギリス人の船長ジョン・ウイリアム・ドレークが適切な救助を行わなかったとして、裁判にかけられるも、領事裁判権により、無罪とされました。
この事件が報じられると、国内では憤慨する人が続出。不平等条約の改正を訴える動きが盛んになりました。この「ノルマントン号事件」がきっかけで、国民に領事裁判の不当性などを強く実感させ、より不平等条約改正を求む「大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)」などが活発化しました。
1889年:大日本帝国憲法発布
1889年2月11日、日本初、また東アジア諸国で初となる近代憲法が発布されました。それが、「大日本帝国憲法」です。この憲法は、伊藤博文らが草案し、ドイツのビスマルク憲法を参考に、天皇が主権となる憲法が成立したのです。
余談として、この憲法の草案中、東京では思うように作業が進まないことから伊藤らは相州金沢へと場所を移し、東屋旅館にて作業を行っておりました。
ところが、横浜へと外出中にこの草案書類が入ったカバンが盗まれるという事件が発生。民権派による犯行かと思われましたが、その後、無事にカバンが発見され、盗んだのは空き巣だったという事件があったそうです。
1894年:日清戦争
1894年から95年にかけて日本と清国の間で戦争が勃発。これが、「日清戦争」です。この戦争が勃発した原因は主に朝鮮国を巡っての権利争いです。日本は欧米列強に並ぶために周辺の琉球や蝦夷地を支配下に置き、さらに朝鮮までも支配下に置き、領土拡大を画策しました。
しかし、朝鮮には清の軍勢がいたため、なかなか手出しができません。そこへ、日本と欧米の進出に反対する暴動である「甲午農民戦争」が起きたため、日本は暴動鎮圧という名目で朝鮮に派兵することになりました。結果、暴動は鎮圧されるも日清両国とも兵を置いたまま日本は王宮を占領、そして、7月25日に開戦となりました。
この戦争は翌95年の4月まで争い続け、結果は日本の勝利。下関条約にて清から2億両の賠償金と清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島が割譲されました。この時の賠償金のほとんどは軍事費に回され、その他、八幡製鉄所の建設費などに割り当てられました。
1904年:日露戦争
下関条約で遼東半島を日本に割譲されたことを受け、南下政策を計画していたロシアはドイツ、フランスと共に日本へ三国干渉し、遼東半島を清国へと返上させました。その後、ロシアは清国内部で起きた反乱運動「義和団事件(ぎわだんじけん)」を鎮圧するために満州へと派兵。鎮圧後も満州に兵を残留させました。
日本はロシアの南下政策を阻むために、同じくロシアの敵であったイギリスと1902年に「日英同盟」を締結。そして、1904年2月8日にロシア旅順艦隊への奇襲をきっかけに「日露戦争」が開戦となりました。日本は苦戦しながらも日本海海戦に勝利するなどして、ロシアから勝利します。
しかし、1905年に締結された講和条約のポーツマス条約で賠償金を勝ち取ることが出来ず、また、日本への権益も想像よりも少なかったことから国民は不満を持ち、内相官邸などを焼き討ちするという「日比谷焼き討ち事件」などが発生します。しかし、日清と日露戦争の勝利により、日本は欧米列強と並ぶ近代国家として世界に認められるようになりました。
明治時代に関するまとめ
明治時代というと大分昔のことに感じますが、この記事の出来事は今からわずか150年前に起こった出来事なのです。明治時代は、世界に仲間入りするための国づくりと、世界に負けないための国づくりをしてきた時代だったのではないでしょうか。
欧米列強という大きな波に対し、日本は一枚岩になるべく中央集権国家を築き上げ、清国やロシアと言った大敵にも打ち勝ってきました。その裏には様々な対立などがあり、華やかな近代化とはいかない部分もたくさんありました。ですが、先人たちの功績により、今の日本という国があるのだなと感じます。
もっと明治時代を詳しく知りたいという方は、世界史から見た日本の立場などを合わせて理解することでより日本がどのような発展を遂げたのかというのが理解できるかもしれません。本記事をきっかけに、明治時代に興味を持っていただければ幸いです。
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