明治時代ってどんな時代?出来事や年表、重要人物、文化などをご紹介

明治時代に活躍した偉人達

日本を強い国へと導いた「維新の三傑」・大久保利通(おおくぼとしみち)

大久保利通

大久保利通は薩摩藩出身の武士であり、維新後は政治家となり「維新の三傑」のリーダー格として活躍した人物です。幕末期は薩摩藩の家臣として、倒幕運動や薩長同盟、王政復古などに尽力し、薩摩藩を盟友である西郷らと共に支えた人物として知られています。維新後は参議として政府に参加しました。

参議となってからは廃藩置県などの政府の中央集権体制確立を図りました。1871年には岩倉使節団として渡欧し、帰国後は内務省を設立。内務卿として学制、殖産興業など富国強兵政策に力を入れました。しかし、1878年に不平士族の1人に紀尾井坂にて暗殺、49歳でこの世を去りました。(紀尾井坂の変)

最後まで武士であり続けた軍人・西郷隆盛(さいごうたかもり)

西郷隆盛

西郷隆盛は薩摩藩出身の武士であり、維新後は政治家・軍人として活躍した人物です。1866年には坂本龍馬らと協力し、薩長同盟を締結。第二次長州征伐時には長州側に協力し、幕府軍を打ち破るなどの戦績を挙げました。維新後には、参政として新政府に参加し、内閣人事や廃藩置県などの成立に尽力しました。

しかし、1872年に朝鮮を巡る「征韓論」を唱え、帰国した岩倉使節団の大久保らと対立。結果、征韓論を唱えた西郷、江藤らは政府を辞職し薩摩へと下野しました。(明六年の政変)その後、薩摩へと帰国すると私学校を設立し、若者を教育する立場となりました。

ところが、1876年に発令された「廃刀令」をきっかけに各地で反乱士族が暴動を起こし、西郷の私学校生徒も、鹿児島県内の火薬庫などを襲撃したことが発端となり、西南戦争が勃発。西郷は大将として指揮を執りますが、1877年9月24日、政府軍が城山総攻撃時に敗北を悟り、「もう、ここらでよか」という言葉と共に自刃。49歳で逝去しました。

「板垣死すとも、自由は死せず」・板垣退助(いたがきたいすけ)

板垣退助

板垣退助は土佐藩出身の武士で、維新後は「憲政の父」として、自由民権運動の主導者として活躍した人物です。幕末期は、中岡慎太郎と共に土佐藩の上士として薩土密約締結などに尽力。戊辰戦争にて土佐勤王党員(とさきんのうとういん)などで構成された迅衝隊(じんしょうたい)の総督として、甲州勝沼の戦いなどで勝利を収めるなどの活躍をしました。

維新後は、高知藩の大参事となり、藩内に四民平等を掲げる「人民平均の理(じんみんへいきんのことわり)」の発布。その後、政府には参与として参加するも、1873年の征韓論争により、西郷らと共に下野することになりました。(明六年の政変)

政府を辞職した板垣は五か条の御誓文の一つである「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を下地にした議会制政治を政府へと要求し、1874年に「民撰議院設立建白書」を提出するなど政府へと強く訴えました。次第にこの運動は広がりを見せ、後に「自由民権運動」として全国へと普及しました。

日本初の内閣総理大臣・伊藤博文(いとうひろぶみ)

伊藤博文

伊藤博文は長州藩出身の政治家で、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代韓国総督府などを務めた人物です。幕末期には吉田松陰(よしだしょういん)が開いた私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に参加し、山形有朋、高杉晋作らと共に様々な授業を受けておりました。1863年にはイギリスへと留学し、長州藩内ではいち早く開国論へと転じました。

維新後は、長州閥の参与として政府に参加し、西南戦争後の「維新の三傑」亡き後の指導者として明治政府を主導しました。1882年には渡欧し、ドイツの法律家であったアルバート・モッセやローレンツ・フォン・シュタインから憲法や内閣制度を学び、帰国後、日本の政治にこれらを導入しました。

1885年12月には初代内閣総理大臣として、第一次伊藤博文内閣が成立。その後、第5・7・10代と4度にわたって総理大臣を務めあげることとなりました。また、1905年には初代韓国統監として、韓国を統治する立場になるも、伊藤自身は韓国の国力がつき次第、韓国の自治を認めるという国際協調重視派として、韓国の教育などに尽力しました。

日本が世界と渡り合うための一歩を歩み出したカミソリ大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)

陸奥宗光

陸奥宗光は紀伊藩出身の政治家で、「カミソリ大臣」と呼ばれるほど頭の切れる人物だったそうです。幕末期には、坂本龍馬が塾頭を務めた神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)に入所し、その後、亀山社中や海援隊など龍馬と共に行動しておりました。陸奥の才能について龍馬は、「刀を二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言うほどだったそうです。

維新後は外国事務局御用係や兵庫県知事などを歴任するも、藩閥政治への不満が高まり1872年に辞職。1884年には伊藤博文の勧めもありロンドンへと留学し、民主政治とはどういうものかを学び、またドイツでは法学者のローレンツ・フォン・シュタインから国家学を学びました。

帰国後は政界へと復帰し、第二次伊藤内閣では外務大臣を担当することになりました。この時、外交関係では不平等条約が問題となっており、陸奥はこの不平等条約の改正に尽力。1894年の日英通商航海条約を皮切りに、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、といった諸外国との領事裁判権(りょうじさいばんけん)の撤廃に成功するなど大きな功績を残しました。これらの功績と、対清への強硬路線を勧めたことや下関条約の締結などを合わせて「陸奥外交」と呼ばれております。

日本が欧米と並び立つことに成功した外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)

小村寿太郎

小村寿太郎は日向国出身の政治家で、不平等条約改正に務めた人物として知られています。小村は元々外務省の翻訳局に勤めていたのですが、翻訳局が廃止され、そのまま退任するところを、外務大臣であった陸奥宗光に見出され、清国公使館参事官として清国に着任しました。

その後、外交官となった小村は不平等条約のもう一つの課題であった「関税自主権(かんぜいじしゅけん)の回復」を務める事になりました。そして、第一次桂太郎内閣では外務大臣として入閣し、本格的に条約改正を目指すこととなります。1904年の日露戦争勝利後、小村はポーツマス条約を締結したことを契機に諸外国との条約改正交渉へと乗り出しました。

そして、1911年2月にアメリカとの間で関税自主権が回復した要項などが盛り込まれた「日米通商航海条約」が締結され、長年の悲願であった不平等条約が改正されることとなりました。黒船来航から実に56年ほど経過した時の出来事です。その他、日英同盟の締結などに尽力したことから「近代日本外交を実現した人物」として評されています。

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