アンネ・フランクとはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や日記、隠れ家も紹介】

「アンネ・フランクってどんな人?」
「教科書でアンネの日記が載っていて興味をもった…!」
「アンネや住人は捕まった後どうなったの?」

アンネ・フランクは、「アンネの日記」という日記が彼女の死後に有名になったユダヤ系ドイツ人の女性です。アンネが亡くなってから、彼女が残した日記は多くの国で翻訳され、またテレビドラマ化されています。英語の教科書で英文として出てくることもあるので、色々な機会で接することが多い作品でもあります。

アンネ・フランク

ユダヤ人だった彼女は若干15歳にして、ナチスの強制収容所に送られ短い人生を閉じています。「アンネの日記」には、人類が繰り返してはならない問題を多く警鐘を鳴らす内容です。多くの人に考えてほしい内容が詰まっています。

今回は「反ユダヤ主義」のドイツの政策の犠牲者であるアンネ・フランクを、「アンネの日記」からドイツの歴史に興味を持ち長年研究している筆者が紐解いていきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

アンネ・フランクとはどんな人物か

名前アンネリース・マリー・フランク
誕生日1929年6月12日
没日1945年3月5日(推定)
生地ドイツ国フランクフルト
没地ドイツ国ベルゲン・ベルゼン強制収容所
埋葬場所ドイツ国ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地

アンネ・フランクの生涯をハイライト

残酷な内容・写真に注意をお願いします

事実を正確に伝えるために、残酷な表現や写真が登場します。苦手な方は次のトピックに移るなどの自衛をお願いいたします。

アンネ・フランク

アンネ・フランクはドイツ国のフランクフルトで、ユダヤ系ドイツ人の父オットー・フランクと、同じくユダヤ系ドイツ人の母エーディト・フランクの間に生まれました。アンネは次女であり、姉にマルゴット・フランクがいます。

アンネは幼少期、フランクフルトで比較的裕福に暮らしていました。しかしアンネが3歳の1932年頃、ドイツでは国家社会主義ドイツ労働者党(以降ナチ党)が急速に台頭し、アドルフ・ヒトラーが首相に任命されようとしていました。

1935年の頃のアンネ・フランク

その為フランク夫妻はドイツ国からの亡命先を模索します。そして遂に1933年にナチ党が第1党政党となり、ドイツ国内での「反ユダヤ主義」が活発化すると、父オットーは知り合いの伝手を使い、1933~1934年にかけて一家はオランダ国のアムステルダムに亡命をしたのです。この時アンネは5歳でした。

フランク一家はドイツから亡命し、オランダのアムステルダムに住んだ

オットーはオランダで会社を設立し、その監査役に選ばれたのが、ヘルマン・ファン・ペルスという人物で、後にアンネ達と隠家に同居することになるユダヤ系ドイツ人でした。そしてこの会社の建物に、隠れ家として潜伏することと後になったのです。1939年に第二次世界大戦が勃発しますが、オランダは中立を宣言していました。しかしヒトラーは1940年にオランダに侵攻し、1週間でオランダはドイツ軍に占領されてしまいました。

「ユダヤ」と中に書かれたダビデの星

オランダが占領されると、「反ユダヤ政策」が打ち出され始めました。1941年にユダヤ人は映画館への入館が禁止となり、公園などの公共施設への利用を禁止されました。そして1942年には 普通の学校に通えなくなり、姉のマルゴーと共に「ユダヤ人中学校」に編入しています。

同じ年にユダヤ人は胸に「ダビデの星」をつけるのが決まり、夜8時~早朝6時までの外出を禁じられてました。そんな苦難が続く中、1942年のアンネの誕生日の時に、オットーはサイン帳をプレゼントしています。アンネはこの手帳に後世「アンネの日記」と呼ばれる日記をつけることとなったのです。

現存するオットーの会社の建物

この頃から、「ユダヤ人はポーランドで虐殺される」という噂が流れるようになります。「ユダヤ人狩り」も激化していき、父のオットーは少しずつアムステルダムの自身が経営している会社の3,4階に隠れ住む事ができるように準備をしていました。しかし1942年7月、姉のマルゴーに親衛隊(ゲシュタポ)から出頭命令がでます。

この招集に応じると危険だという父オットーの判断により、その翌日に一家は隠れ家に移り住むこととなったのです。隠家にはアンネの一家4名と、父の会社の役員だったファン・ペルス一家3名と、歯科医のフリッツ・プフェファーの計8名で潜伏することとなりました。

アンネが日記に使ったサイン帳

アンネ達は、ゲシュタポに逮捕される1944年8月4日までの2年2か月を隠れ家で生活しています。その隠れ家での人間模様を「アンネの日記」で読むことができます。狭い隠家の中で8人の生活は、ファン・ペルス一家と摩擦があったり大変でしたが、住人皆で誕生日を祝ったりと過ごす人間模様も描かれています。

しかし1944年の8月4日にゲシュタポが押しかけ、隠家の住人は逮捕されてしまいました。隠れ家の住人8人は「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、ポーランドにあるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に送られることとなったのです。

アウシュビッツ・ビルケナウ収容所

アウシュビッツ強制収容所で、隠れ家メンバーは8名とも労働可能と判断され、ガス殺を免れています。ここで選別され男女で別れなければならず、アンネは父のオットーと別れています。これがオットーの見た、アンネの最後の姿となりました。

女性収容所に入ったアンネは、母や姉と一緒に固まって暮らしたといいます。しかし、ドイツの敗戦が濃くなってきた1994年10月に、姉のマルゴーとアンネは選別され、母と離れてベルゲン・ベルゼン収容所に送られることになりました。これが母との最後の別れとなったのです。

イギリス軍が撮影した解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所

ベルゲン・ベルゼン強制収容所についたアンネとマルゴーは、食料も無く不潔な収容所に益々体を弱らせていき、チフスに感染してしまいます。そして姉のマルゴーが息を引き取り、その2、3日後にアンネも息を引き取りました。享年15歳。イギリス軍の救出が目前まで迫っていた3月でした。

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